■ 第5章 崩壊前夜——王
王は、記憶を失う前に——気づいた。
それが、王と他の者たちの違いだった。
他の者たちは、失ってから気づいた。
王は、失う前に——何かが、薄れていくのを感じた。
まるで、遠くの音が少しずつ小さくなるように。
まだ聞こえている。
だが——確実に、遠ざかっている。
最初に感じたのは、三ヶ月前のことだった。
王は、ある朝目覚めたとき——窓の外を見た。
いつもと同じ景色だった。
街が広がっている。人々が動いている。空が青い。
だが——
「……あそこに、何かあったな」
王は、呟いた。
街の外れ。
そこに——何かがあったはずだ。
緑のものが。木か、草か。何かが。
だが、今は——何もない。
土があるだけだ。
王は、しばらくそこを見ていた。
記憶を辿ろうとした。
だが——辿れなかった。
あそこに何があったのか。いつからなくなったのか。そもそも——本当に、何かあったのか。
「……気のせいか」
王は、そう思おうとした。
だが——思えなかった。
その日から、王は注意深く——世界を見るようになった。
川が細くなっていることに、気づいた。
花壇の花が枯れていることに、気づいた。
だが——それ以上に、気になることがあった。
人々の顔が——少しずつ、変わっていた。
表情が、硬くなっている。目に、不安が滲んでいる。
何かを、感じているのだ。
言葉にはできないが——何かが、おかしいと。
王は、そのことを——誰にも言わなかった。
言えなかった。
王が不安を口にすれば——街全体が揺れる。
それだけは、避けなければならなかった。
ある夜、王はひとりで街を歩いた。
誰もいない時間に。
川のそばに立った。
かつては、もっと大きな川だったはずだ。水の音が、もっとうるさかったはずだ。
だが——今は、細い流れが、かすかに聞こえるだけだ。
王は、その流れを見ながら——思った。
世界が、消えていく。
ゆっくりと、しかし確実に。
花が枯れ、川が痩せ、記憶が薄れ——
やがて、すべてが消える。
「……止められるのか」
王は、小さく呟いた。
答えは、ない。
ただ——川の流れだけが、かすかに聞こえていた。
翌日、技術者たちが集まったと聞いた。
王は、その会議に——遅れて入った。
部屋は、静かだった。だが——空気が、張り詰めていた。
誰かが言った。
「悠久の時を生きる術があるかもしれない」
王は、その言葉を聞いた。
部屋の隅に、若い男がいた。
王は、その男を——以前から知っていた。
名をセラという。
賢い。誰よりも、賢い。
だが——どこか、普通の者とは違う目をしている。
セラは、王と目が合っても——逸らさなかった。
ただ静かに、こちらを見ていた。
王は、視線を外した。
「……詳しく聞かせてくれ」
王は、セラに言った。
セラは、立ち上がった。そして——静かに、話し始めた。
話は、長かった。難解だった。だが——王には、理解できた。
要するに——
時間の流れから外に出ることで、世界の崩壊を待つ。
世界が自己修復し、復活した頃に——戻ってくる。
そのための術だ。
「……どのくらいかかる」
王は聞いた。
「分かりません」
セラは答えた。
「百年かもしれない。千年かもしれない。もっとかもしれない」
「それだけの時間を——」
「生きることになります」
王は、沈黙した。
百年。千年。あるいは——もっと。
それだけの時間を、変化なく生きる。
「……それは」
王は、ゆっくりと言った。
「本当に、"生きる"ことなのか」
部屋が、静まり返った。
誰も、答えなかった。
セラも——答えなかった。
ただ、王を見ていた。
その目が——何かを言っていた。
言葉にはならない何かを。
王には——それが何なのか、その時は分からなかった。
会議が終わった後、王はひとりで部屋に残った。
窓の外を見る。
街が広がっている。人々が、不安そうに動いている。
子どもの泣き声が、遠くから聞こえた。
王は、それを聞きながら——長い時間、考えた。
これは、生きることなのか。
変化のない永遠は——生きることと言えるのか。
だが——
あの泣き声が、耳から離れなかった。
生きたい。
それだけが、あの声に込められていた。
王は、目を閉じた。
「……生き延びる」
小さく、呟いた。
正しいとは思えなかった。
だが——他に、選べるものがなかった。
窓の外で——
また、子どもが泣いていた。




