■ 第4章 崩壊前夜——民
最初に気づいたのは、子どもだった。
広場の端に、小さな花壇があった。
誰が作ったのかは分からない。ただ、ずっとそこにあった。白い花が、いつも咲いていた。
その花が——枯れていた。
子どもは、それをしばらく見ていた。
やがて、近くにいた大人を呼んだ。
大人は、花壇を見た。
「……枯れてるな」
それだけだった。
その日は、それだけだった。
だが——翌日、川が細くなっていた。
この街を流れる川は、ずっと同じ水量を保っていた。誰もそれを疑わなかった。川はそこにあるものだった。
だが——明らかに、細くなっていた。
水が、減っている。
「……なぜだ」
誰かが言う。
答えられる者は、いなかった。
その次の日、また細くなっていた。
そのまた次の日も。
じわじわと、しかし確実に——川は痩せていった。
一週間後、街の空気が変わった。
誰もが、感じていた。
何かが、おかしい。
花壇の花は完全に枯れた。川はほとんど干上がった。土が、乾いていた。
だが——それ以上に、不気味なことがあった。
記憶が、薄れていた。
最初は小さなことだった。
昨日の昼に何を食べたか、思い出せない。
三日前に誰と話したか、思い出せない。
「気のせいだ」と、誰もが思った。
だが——気のせいでは、なかった。
ある朝、一人の女が——夫の顔を、一瞬忘れた。
すぐに思い出した。だが——その「一瞬」が、怖かった。
彼女は、誰にも言わなかった。
言えなかった。
やがて——街全体が、静かにざわめき始めた。
誰かが言った。
「世界が、終わるんじゃないか」
その言葉は、最初は笑われた。
だが——誰も、本気で笑えなかった。
花が枯れた。川が消えた。記憶が薄れる。
これは——
何かが、始まっているのだ。
終わりへ向かう、何かが。
「どうすればいい」
誰かが叫んだ。
答えは、なかった。
ただ——その叫びは、街中に広がった。
静かな街が——初めて、揺れた。
リナは、子どもの手を握っていた。
広場に出ると、人々が集まっていた。
泣いている者がいる。
怒鳴っている者がいる。
ただ座り込んでいる者がいる。
リナは、その光景を見ながら——
子どもの手を、強く握った。
「お母さん、怖い」
子どもが言う。
「大丈夫」
リナは答えた。
だが——大丈夫かどうか、分からなかった。
ただ——
生きたかった。
それだけは、確かだった。
どんな形であっても——
生きていたかった。
その夜、技術者たちが集まった。
街の中で最も賢い者たちが。
最も多くを知る者たちが。
議題は、一つだった。
「生き延びる方法を、考える」
誰かが言った。
「世界が崩壊するなら——世界の外に出ればいい」
沈黙が、満ちた。
「世界の外」
誰かが繰り返す。
「そんなことが、できるのか」
「できるかもしれない」
その声は——静かだった。
全員が、その声の方を向いた。
部屋の隅に、若い男が座っていた。
見た目は若い。だが——その目は、どこか遠くを見ていた。
「理論上は、可能です」
男は、静かに言った。
「時間の流れから、外に出る」
「……どういうことだ」
「悠久の時を生きる術です」
その言葉が——部屋に、落ちた。
誰も、すぐには反応できなかった。
ただ——
全員が、その言葉の意味を——
じっくりと、噛み締めた。




