■ 第11章 セラ
セラは、ずっと見ていた。
それだけが、セラにできることだった。
あるいは——
それだけが、セラがしたいことだった。
どちらが正しいのか、もう自分でも分からない。
ただ——見ることを、やめたことがなかった。
一日目。
広場に変化が生まれた瞬間、セラはそれを感じた。
空気が、変わった。人々の動きが、変わった。
それは目に見えるものではない。数値で測れるものでもない。
ただ——長い時間をかけて積み重なった、セラだけの感覚が——告げていた。
始まった、と。
セラは目を閉じた。
見ることをやめたのではない。
別の何かを——感じようとしていた。
この世界の、鼓動のようなものを。
それは確かにあった。最初からあった。ただ、気づく者がいなかっただけだ。
ゆっくりと、しかし確実に——その鼓動が、変わっていた。
穏やかになっていた。
まるで、長い旅の終わりに近づいた生き物のように。
セラは、その変化を感じながら——静かに、息をついた。
来た。ようやく、来た。
その日の後半。
誰かの視線を感じた。
遠くから、こちらを見ている者がいる。
セラは目を開けなかった。誰だか、分かっていた。
この世界では、名前を知らない者の方が多い。
だが——見られている感覚の種類で、誰かは分かる。
好奇心と、遠慮が混じった視線。
こちらに近づきたいが、踏み込んではいけない気がしている。
そういう視線だった。
セラは、その視線をしばらく受けていた。
やがて——気配が、離れた。
セラは、小さく目を開けた。
誰もいない。
ただ、広場の人々が——いつもより少しだけ、近くにいた。
誰かの隣に座る者。誰かの手に触れている者。
セラは、その光景を見た。
長い時間、見てきた光景とは——少しだけ、違っていた。
こういうものか、と思った。
終わりの、一日目というのは。
夜。
広場に人が残っていた。
いつもなら、散っているはずの時間に。
セラは、その様子を遠くから見ていた。
光の流れが、いつもより温かく見えた。
記憶の川。この世界が始まってから、ずっと流れ続けている光。
セラは、その光を見ながら——思った。
あれには、自分のものも混じっているのだろうか。
記憶というものが、どこへ行くのかは分からない。
ただ——流れ続けている。それだけは、確かだった。
それでいい、とセラは思った。
流れ続けることが——残ることだ。
二日目。
白が、増えていた。
セラはそれを、広場の端から見ていた。
命令ではない。誰かが勧めたわけでもない。
ただ、自然に——人々が白をまとっていた。
セラは、その光景を見ながら——ひとつのことを、思い出していた。
ずっと昔のことだ。
まだこの世界が、今とは違う形をしていた頃。
誰かが言っていた。
白は、終わりの色ではない。始まりの色でもない。
ただ——すべてを含む色だ、と。
その言葉を言った者の顔を、セラはもう覚えていない。
だが——言葉だけは、残っている。
長い時間をかけて、多くのものが薄れていった。
顔も、声も、名前も。
だが、言葉だけは——なぜか、残り続けることがある。
白は、すべてを含む色。
セラは、民の白い衣を見ながら——それが正しかったのだと、今になって思った。
その日の夕方。
王が、そばに来た。
珍しいことだった。
王がこうして、自分から隣に座ることは——ほとんどなかった。
セラは、何も言わなかった。王も、しばらく何も言わなかった。
ただ、ふたりで——広場の光を見ていた。
王は、昔のことを聞いた。楽しかったか、と。
セラは、正直に答えた。今も、満たされることがある、と。
王は、少し驚いたような気配があった。セラには、それが分かった。
この世界の者たちは——満たされることを、とうの昔に忘れていた。
だが、セラは忘れなかった。忘れられなかった。
見ることが、まだあったから。見届けることが、まだあったから。
王に、孤独ではないかと聞かれた。
セラは、少し考えた。
孤独、という言葉の意味を——久しぶりに、嚙み締めた。
孤独かもしれない。だが、寂しくはない。
その違いを、うまく説明できる自信はなかった。
ただ——王には、伝わったような気がした。
「来い」と、王が言った。
セラは、少し間を置いた。
行けるところまでは——そう答えた。
それが精一杯だった。それ以上のことは、言えなかった。
言えば——何かが変わってしまう気がした。何かが、崩れてしまう気がした。
だから、言わなかった。
王は、それ以上追わなかった。
賢い人だと、セラは思った。何万年も生きてきた人だと、改めて思った。
三日目。
セラは、いつもの場所を離れた。
初めてではない。
だが——こんなふうに離れるのは、初めてだった。
広場を歩く。
人々が流れている。白い衣をまとった人々が、中央へ向かっている。
セラは、その流れの外を歩いた。
同じ方向へ、だが——少し離れて。
流れの中には、入れない。入ることが、できない。
それは分かっていた。ずっと前から、分かっていた。
だが——見届けることは、できる。
それだけは、できる。
広場の端を通り過ぎるとき——セラは、自分がいつも座っていた場所を見た。
石造りの段差。
何万年も、そこにいた。
見ていた。ただ、見ていた。
セラは、その場所を少しだけ見て——そして、歩き続けた。
中央の広間に、人々が満ちていた。
セラは、その外側に立った。
列の中には、入らなかった。入れなかった。
だが——見ることは、できた。
王が、玉座の前に立つ。振り返る。白い海が、そこにある。
王が、口を開いた。
セラは、その言葉を聞いた。
長い時間を生きた。十分すぎるほどに。
楽しいこともあった。苦しいこともあった。
そして——何もなくなった。
それでよかった。
終わる。解放だ。
セラは、その言葉を——静かに、受け取った。
光が、満ちた。
人々の輪郭が、曖昧になっていく。音が、消えていく。
王が、こちらを見た。
セラも、見た。
何かを伝えようとしている。声は、もう届かない。
だが——目で、伝わった。
セラは、頷いた。それだけだった。
光が——すべてを包んだ。
人々の輪郭が、消えた。音が、消えた。温度が、消えた。
その瞬間、セラは感じた。
何かが、動いた。
ずっと待っていた、何かが。
王が——消えた。
それが、合図だった。
広間に——白だけが残った。
セラは、その白の中に、立っていた。
ひとりで。
それだけが——残っていた。
しばらく、セラはそこにいた。
どのくらいの時間が経ったのか、分からない。
やがて——セラは、歩き出した。
広間を出る。通路を歩く。広場を通り過ぎる。
誰もいない。何もない。ただ、白だけがある。
セラは、出口へ向かった。
扉が——音もなく、開いた。
光が、あふれた。
今度は——白ではない光が。
眩しい、太陽の光が。
セラは、その光の中へ——
静かに、歩み出た。




