■ 第10章 三日目
意識が戻ったとき、世界はすでに動いていた。
王は玉座から立ち上がり、広場へ出た。
人が、動いている。
急いでいない。押し合っていない。声を上げている者もいない。
ただ——静かに、同じ方向へ。
誰かが先導しているわけではない。誰かが声をかけたわけでもない。ただ、自然に——まるで潮が満ちるように——人々が同じ方向へ向かっていた。
中央へ。
この世界の核へ。
白い衣が、光を受けて輝く。
数千、数万の白が——ゆっくりと、ゆっくりと、流れていく。
王は、その流れをしばらく見ていた。
何も言えなかった。何も、言う必要がなかった。
「陛下」
ユルが、隣に立っていた。
いつから来ていたのか、気づかなかった。
「参りましょう」
静かに、言う。
王は頷いた。そして——流れの中に、入った。
民の波の中を、王は歩く。
人々が、自然に道を開ける。
押しのけるわけでもなく、急ぐわけでもなく——ただ、そこに王が通れる道が生まれる。
王は、歩きながら——民の顔を見た。
穏やかだった。みな、穏やかだった。
恐怖はない。後悔もない。ただ——静かな、受け入れた者の顔をしていた。
リンがいた。
オウと並んで、歩いていた。
ふたりとも、白い衣をまとっていた。
手は繋いでいない。だが——肩が、触れそうなほど近い。
王は、そのふたりを見ながら——
なぜか、胸の奥が、少しだけ温かくなった。
広場の端を通り過ぎるとき——王は、足を止めた。
セラの場所。
いつもそこにいる、あの場所。
だが——今日は、いなかった。
空白だけが、そこにあった。
王は、少しだけその場所を見た。
石造りの段差。誰も座っていない。
「……先に行ったか」
小さく、呟いた。
ユルが、何かを言いかけた。
だが——王はもう、歩き出していた。
中央の広間は、すでに満ちていた。
数えきれないほどの民が、整然と並んでいる。
誰も押さず、誰も急がず——ただ自然に、そこに収まっていた。
まるで、最初からそう決まっていたかのように。
白。白。白。
どこを見ても、白だった。
衣も、髪も、肌も——光を受けて、境界が曖昧になるほどに白い。
壁と、人と、光が——ひとつに溶け合いそうなほどに。
王は、その中を進んだ。
人々が、静かに道を開ける。足音が、吸収される。声は、ない。
だが——広間全体に、何かが満ちていた。
音ではない。温度でもない。
ただ——確かに、何かが。
王には、それが分かった。
これが——この世界の、最後の空気だ。
玉座の前に、立つ。
振り返る。
白い海が、そこにあった。
無数の顔。穏やかな顔。恐怖のない顔。
王は、ひとりひとりを——見た。
急がなかった。最後だから、急ぐ必要はない。
ただ、見た。
何万年も共にいた者たちを。
名前を知らない者も、多い。
だが——同じ時間を、生きた者たちだ。同じ世界で、存在した者たちだ。
王は、ゆっくりと口を開いた。
「我らは、長い時間を生きた」
声が、広間に満ちる。
響かない。吸収される。だが——確かに、届いていた。
「十分すぎるほどに」
誰も言葉を発しない。だが、全員が聞いている。
「楽しいこともあった」
王は、少し間を置いた。
「苦しいこともあった」
また、間を置く。
「そして——長い時間をかけて、何もなくなった」
静寂。
「だが、それでよかったのだと——今は思う」
王は、空を見上げた。
天井の光が、いつもと変わらない柔らかさで満ちている。何万年も、変わらなかった光。
「そして今——終わる」
一拍。
「これは終焉ではない」
少しだけ、微笑む。
「解放だ」
その瞬間——
王は、人々の中に、一つの視線を感じた。
広間の端。人々の列の、外側。
そこに——
セラが、立っていた。
並んでいない。列の中にはいない。
ただ、少し離れたところから——この光景全体を、見ていた。
王と、目が合った。
セラの表情は、いつもと変わらなかった。
穏やかで、静かで——感情の乏しい顔。
だが——その目の奥に、何かがあった。
言葉にはできない何かが。
王には——分かった気がした。
ありがとう、と。
そう伝えたかった。
口を開こうとした。
だが——光が、満ちた。
柔らかく、温かい光。
白い衣が、さらに白く染まる。
人々の輪郭が——光に溶けていくように——曖昧になっていく。
音が、消えた。静寂が、深くなった。
王は、その光の中で——最後にもう一度だけ、セラを見た。
セラは、まだそこにいた。
光に包まれながら——それでも、まだ——立っていた。
目が、合っている。
声は、もう出なかった。
だが——王は、その目で——伝えた。
セラは、小さく——頷いた。
それだけだった。
それで——十分だった。
光が——すべてを、静かに包んだ。
音が消えた。温度が消えた。輪郭が消えた。
最後に残ったのは——
白だけだった。
どこまでも、白だった。




