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64話

小川葵のリセッタも、この日をもってオリエント・スクエアでの営業を終えることになった。


朝日が差し込む店内には、運び出された什器の跡が白く残り、長年染み付いたコーヒーの香りとわずかな埃の匂いが混じり合っていた。かつては満席の客で賑わったホールも、今はがらんとして、自分たちの足音だけが空虚に響いている。


「本当に、今日で終わりなんだね」


高橋美咲が、東京へ発つ前に最後の別れを言いに来ていた。彼女は、新しい環境で奮闘しているものの、このビルの終焉を見届けに来たのだ。都会の空気に揉まれ、少しだけ大人びた表情を見せる美咲の手には、大切そうにあのタペストリーが握られていた。


「うん。でも、寂しさよりも、次への期待の方が大きいかな。ここは、父から逃げてきた私の『隠れ家』だった。新しいリセッタは、私自身の『出発点』になる」


葵は、リセッタの古いカウンターを丁寧に拭いた。木目の溝に入り込んだ汚れの一つ一つに、ここで過ごした膨大な時間が刻まれている。この場所で、佐藤悠馬と衝突し、美咲と笑い、鈴木宗一郎の愛情に触れた。この交差点の灯は、彼女の人生を大きく照らした。逃げるための場所だったはずのここが、いつの間にか、立ち向かうための力を蓄える場所へと変わっていたことに、葵は改めて気づかされていた。


営業終了の直前、鈴木宗一郎がリセッタにやってきた。彼の顔は晴れやかだった。杖を突く音は静かだが、その足取りには迷いがない。


「葵ちゃん。君の新しい店が楽しみだ。リセッタの灯は、この街にはなくてはならないものだ」


葵は、鈴木から預かった阿部の裏帳簿のコピーを、佐藤悠馬に渡す手配を済ませたことを報告した。


「鈴木さんの願い、佐藤さんにしっかりと託しました。あの記録は、きっとこの街の公正な未来を守ってくれます。私たちが去った後も、あの真実が楔となって、街を正しい方向へ導いてくれるはずです」


鈴木は満足そうに頷いた。


「ありがとう。これでワシのオリエント・スクエアでの仕事は全て終わりだ。君は、ワシが守りたかったこのビルの『魂』を、次の場所へ連れて行ってくれる。それが、ワシへの最高の弔いだよ」


彼は、最後にもう一度、リセッタの隅々を見渡した。使い込まれた古いトースター、角の丸くなった年季の入ったテーブル。全てのものが、彼とこの街の歴史そのものだった。朝日が彼の背中を優しく照らし、長年背負ってきた重責から解き放たれた男の姿を、葵はまぶたに焼き付けた。


「お父さんによろしくな」


鈴木はそう言い残し、古い木製の扉を、ゆっくりと閉めて出て行った。

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