48話
その時、阿部俊介から佐藤悠馬の携帯電話に、一本の非通知の電話が入った。
リセッタの店内にまで地響きのような重機の唸りが入り込む中、佐藤は胸ポケットで震える端末を無言で取り出した。液晶に浮かぶ無機質な非通知の文字に、バリケードの影で息を潜める住人たちが一斉に視線を注ぐ。佐藤は一呼吸置き、覚悟を決めたように通話ボタンを押した。
「佐藤悠馬か。貴様は私を脅し、屈辱を与えた。私はもう、後戻りできない」阿部の声は、冷たく、狂気に満ちていた。
電話の向こうからは、耳を劈くようなディーゼルエンジンの排気音と、夜明け前の凍てつく風の音が混じって聞こえてくる。阿部は今、目の前に停めた黒塗りの車の中から、サーチライトに照らされたこの老朽化したビルを、自らの恥部そのものであるかのように冷酷な目で見つめているのだろう。
「阿部議員。あなたは、人としての尊厳を、自ら手放そうとしている」佐藤は冷静に答えた。
佐藤の視線の先には、葵や住人たちが必死に積み上げた古いテーブルや椅子の山があった。その無骨なバリケードは、単なる障害物ではなく、この場所で営まれてきた生活の誇りそのものだった。それを暴力で押し潰そうとする阿部の行為は、他者だけでなく自分自身の魂を汚すことに他ならない。
「尊厳だと? 貴様が、私の過去を握りつぶした瞬間に、そんなものは消えた!今すぐ、あの私書庫のファイルを公表しろ。そうすれば、私は基礎の解体をやめる。私が倒れても、ビルは残る」
阿部の叫びは、もはや冷徹な政治家のそれではなく、追い詰められた獣の悲鳴に近かった。自らの社会的抹殺という絶望的な結末を、ビルの存続という形で相殺しようとする。それは彼が自らの手で過去を葬り去り、同時にこの因縁から解き放たれるための、あまりに歪んだ終止符の打ち方だった。
これは、阿部の最後の賭けだった。自分の破滅と引き換えに、物理的な解体を止める、という取引。
佐藤の手元には、あの分厚いファイルがある。これ一つで、外で吼える怪物を永遠に沈黙させ、破滅に追い込むことができる。阿部もまた、自分を破壊してくれる「裁き」を、どこか心の奥底で熱望していた。自らが築いた嘘の城が崩れることを、他人の手に委ねようとしていたのだ。
しかし、佐藤は静かに答えた。「断る。小川さんの言葉を覚えているか。私たちが守りたいのは、誰かの破滅ではない。この場所の魂だ。あなたは、このビルの魂を自ら破壊しようとした。我々は、それを阻止する」
佐藤は、かつて自分が失敗した時に世間が求めた「誰かを破滅させる快楽」を、今ここで自分が繰り返すことを拒絶した。記録を守る者として、誰かの人生を完膚なきまでに破壊する武器を振るうことは、このビルを愛した人々の誇りを汚し、葵が守ろうとしている優しさを裏切ることだと悟っていた。彼は復讐ではなく、ただここに在り続けるという最も困難な抵抗を選んだ。
通話は切れた。阿部は、佐藤が「過去を武器にしない」という選択を貫き、最後まで自分の破滅を望まなかったことに、深い憎悪と、微かな動揺を感じていた。




