46話
強制解体の決行が迫る「最後の夜」。オリエント・スクエアのテナントたちは、自分たちの店から机や椅子、在庫などを持ち出し、通用口と正面玄関を塞ぐために必死でバリケードを築いていた。
ビルの廊下には、重い什器がコンクリートの床を擦る嫌な音が反響し、舞い上がった埃が街灯の微かな光に照らされて白く渦巻いている。かつては客を温かく迎えていたテーブルや棚が、今は暴力的な破壊を拒むための無骨な楯へと姿を変えていく。誰もが口を真一文字に結び、荒い息遣いと、積み上げられる木材や金属の乾いた音だけが夜の静寂を支配していた。
高橋美咲は「メルティ」の服のマネキンや段ボール箱を運び出しながらも、心がここにあらず、手が止まることがしばしばあった。指先に触れる冷たいマネキンの肌が、まるでこの街の止まった時間そのものであるかのように感じられ、彼女の胸を強く締め付ける。彼女の心は、この物理的な抵抗と、東京への「夢の切符」の狭間で激しく揺れていた。今ここで仲間たちとスクラムを組むべきなのか、それとも、自分だけの未来のために背を向けるべきなのか。その葛藤が、彼女の足を重い鎖のように縛り付けていた。
「美咲ちゃん大丈夫? 無理しないで」
積み上げられた椅子の影から、小川葵がそっと声をかけた。葵の顔は連日の疲労でやつれていたが、その瞳には仲間を守ろうとする強い光が宿っている。
「大丈夫です、小川さん。ただ……私まだ東京の専門学校の願書を出しに行ってないんです。明日が必着の最終日なんです」
美咲の声は、今にも消え入りそうなほど震えていた。美咲は夢を叶えるチャンスを目前に、病気の祖母と今にも破壊されそうなこの街への責任感に引き留められていた。もし今夜、ビルが本当に強制解体されたら、彼女は全ての希望を失う。祖母を残し、戦っている仲間を残して自分だけが夢を追うことに、耐え難い罪悪感を覚えていたのだ。
葵は美咲の葛藤を理解し、バリケードを築く手を止めた。彼女は美咲の両手をしっかりと握り、諭すように言った。
「美咲ちゃん。あなたはここにいる必要はない。あなたの夢は、このビルを出て、新しい場所へ行くことでしょう? 今すぐ行って。私たちは、あなたが誇りを持って外へ行けるように、このビルを守る。あなたが新しい世界で服を作ることは、このビルの記憶を未来へ連れて行くことと同じなのよ」
佐藤悠馬も、大切に守り抜いてきた古書を担ぎながら静かに言った。
「君の未来は、この瓦礫の下に埋めるべきものじゃない。行け。君が希望を運ぶことこそが、阿部議員への最大の抵抗になる。記録を守る私たちが、君という未来の記録をここで絶やすわけにはいかないんだ」
美咲は、バリケードの向こうに見える暗い街の景色を見た。静まり返った街路の先には、まだ見ぬ広い世界が繋がっている。彼女は、溢れそうになる涙を拭い、最後の決断を下した。彼女は、願書と、佐藤からもらった古い産業振興史のコピーを手に、病院へ向かった。




