42話
佐藤悠馬は「黄昏文庫」の奥で、手に入れたファイルを守りながら、嵐が過ぎ去った後のような静かな時間を過ごしていた。阿部が一時的に引き下がったことで、彼は自分たちのささやかな勝利を信じ、数年ぶりに穏やかな安心感を抱き始めていた。しかし、その夜遅く、平穏は音を立てて崩れ去った。
本棚に囲まれた沈黙を破るように、窓の外から低い話し声が聞こえてきたのだ。佐藤は不審に思い、窓の隙間から下の様子を伺った。街灯の下、数人の工事関係者と思しき男たちが、オリエント・スクエアの裏手で怪しげな図面を広げて話し込んでいる。その殺伐とした空気は、通常の公共工事のそれとは明らかに異質だった。
夜の静寂に乗って、彼らの不気味な会話の断片が佐藤の耳に届く。
「……住民への通達は、前日の夜中でいい。明後日の早朝には、完全に封鎖を完了させろ」 「工事は『緊急の安全措置』という名目で、まずは基礎部分から進める。一度手を付ければ、もう建物は持たない。誰にも止められんさ」
佐藤の全身に、氷のような冷たい汗が流れた。阿部は約束を守るどころか、猶予期間という甘い罠で住民を油断させ、その隙にビル全体を物理的に粉砕しようとしているのだ。しかも、基礎部分から手を付ければ、ビルの崩壊は不可逆的なものとなる。後からどれほど抗議しようと、建物そのものが消えてしまえば元も子もない。
阿部の復讐心は、佐藤の予想を遥かに超えた、自らの過去ごとすべてを道連れにしようとする破滅的な狂気へと達していた。佐藤は、自分がこれまで命綱のように握りしめていた「紙の記録」では、今まさに迫り来る剥き出しの「物理的な暴力」に対抗できないことを痛感した。重機が壁を砕く音の前では、過去の不正を暴く告発状など、ただの紙屑に過ぎない。
住民たちに通達し、この暴挙を止めるための猶予は、もうほとんど残されていなかった。「黄昏文庫」の奥で、佐藤は暗闇に浮かぶ古い受話器を、震える手で掴んだ。冷たくなった金属の重みが、事態の深刻さを物語っていた。
この夜、この古いビルの灯は永遠に消え去るか、あるいは住民の最後の連帯によって輝きを増すか。佐藤は、小川葵へ連絡を取るためにダイヤルを回した。彼らは今、逃れようのない運命の岐路に立たされていた。




