43話
夜中の2時。小川葵のカフェ「リセッタ」の電話がけたたましく鳴った。静まり返った店内に響き渡るその音は、まるで不吉な予兆を告げる警笛のようだった。受話器の向こうから聞こえる佐藤悠馬の声は、冷静ながらも強い緊迫感を帯びていた。
「小川さん、阿部議員は約束を破った。彼は猶予期間のフリをして、明後日の早朝にビルを強制封鎖し、緊急解体を強行するつもりだ。住民への通達は、前日、つまり今日の夜明け前になるだろう。猶予はない」
葵の心臓は激しく打ち鳴らされた。指先が冷たくなり、受話器を握る手に力が入る。佐藤の言葉は、逃れようのない恐ろしいほどの現実を突きつけていた。半年間の猶予という甘い言葉は、阿部が自らの復讐を遂げるために仕掛けた卑劣な罠だったのだ。
「わかりました、佐藤さん。私は、今すぐ皆に伝えます」
葵は短くそう答えると、受話器を置いた。佐藤が持つ「記録」を盾に、阿部を追い詰めたことの代償が、この破滅的な報復だったことを彼女は瞬時に理解した。自分の甘さが招いた事態かもしれないという考えが脳裏をよぎったが、今は後悔している暇はない。
彼女は、パジャマの上にコートを羽織り、着替える間もなくリセッタを飛び出した。深夜の冷たい空気が頬を刺すが、止まっている余裕はなかった。テナント一人ひとりの自宅へと駆け出し、重い扉を叩き続ける。彼女の父がかつてこの街で誠実に積み上げ、築き上げた「地域での信頼」という名の絆が、この夜、崩壊か存続かの最後の試練にさらされていた。
朝方、ようやくオリエント・スクエアの全てのテナントが、薄暗いリセッタに集結した。点けられたばかりの照明の下、彼らの顔には重い寝ぼけ眼と、突如として呼び出された状況への強い不信感が浮かんでいた。
「小川さん、まさかそんな……。市から正式に半年延期されたばかりじゃないか! 何かの間違いだろう」
「そうです。いくらなんでも、阿部議員がそんな非合法なことをするはずがない。何かのデマじゃないのか」
疑念の混じった声が飛び交う中、葵は震える心を押し殺して冷静さを装い、佐藤から聞いた情報のすべてを伝えた。いつ、どこで強制封鎖が始まるのか。解体作業が基礎部分から秘密裏に開始されるという具体的な計画。そして、その真の目的が、阿部自身の「過去の記録の隠蔽」にあることを。
「阿部議員は、自分の過去の失敗をこのビルごと葬り去りたいだけなんです! 彼は、私たち住民の安全なんてこれっぽっちも考えていない。自分の保身のために、公権力を悪用して非合法な手段を選んだ。明日、このビルは一方的に、強制的に取り壊されるんです!」
葵の悲痛な叫びに似た訴えに、店内の空気は一変した。住民の間で、激しい動揺と混乱が広がった。信じられないという絶望の声、迫りくる破壊への恐怖に怯える声、そして、自分たちを裏切った市議会議員への激しい怒号が渦巻いた。




