8.5、ある魔女の断章③
茫然自失のまま、つれてこられた場所は、石造りの堅牢そうな建物だった。看板や華美な彫像、そういった装飾がなければ、如何わしい店だとは思わない。そんな大きな館だった。
自分が館を見上げていると、ドアからすれ違いで、濃い香水の匂いをまとった女性がでてきた。男性を伴っている。女性が甘い声をむけていた、その相手はどうやら客らしかった。
「ここだよ、入りな」
「……」
父に売られてつれてこられた私には、もう嘆く力も失っていた。ただなされるがまま、手を引かれ、死んだような目でぼんやりとなされるがままに動いていた。
ただどす黒いほどに、世界を憎みながら。
こんなことをいえば、世界が悪いわけじゃないと、教えを説くものに、諭されるだろうか。
しかしどうだろう。
自立して大人になった人間が世を恨むのと、子が恨むものとは全くちがうのではないだろうか。
庇護されるべき時に庇護されなかった子供は、だれもかれもを恨むようになる。
己も相手も、こんな世界も。
あとになって似た境遇の子どもたちを、山のようのみてきたけれど、同じようなものだった。こうしてつれてこられた子どもたちは、大人を睨み、泥のように濁った目で、全てに不信を抱いて歳を重ねていく。
私と同じように。
こういう子供たちは、早くに世界の不条理に気がついてしまう。世界は、どれだけ嘆いても、自らを助けてくれないのだと。そうして、気がついたとき、私は自らが世界にいてもいなくても良いものなのだということを理解した。
そうして理解してしまうと、だいたいの子供の反応はいくつかにわかれる。
自分が何をしたっていいのだと開き直り罪を犯すもの。
心を壊し、自らの生きる理由を失うもの。
恨むことすら教養を知らず覚えられないもの。
そんな感じに。
自分はというと、生きる価値を見いだせなくなる子供だった。
中途半端に物心をついたあたりに売られたせいだろう。幼いながらに自分の命は金より安いことをしってしまった、理解できてしまった。命がこんなに安いならば、なぜ苦しみ喘ぐ必要があるのかと。
苦しみと悲しみ、そして世界への燻る憎悪だけが続くのならば、この世は罪業でも灌ぐ場所なのだろうかと。
ーー憎み苦しみ、そんな毎日に疲れはてたら心も命も、どこに歩いていけば良いのだろうか。
人生の長い帰途が、途方もなく絶望に彩られていくのだ。
憎しみを抱え続けられるほどに、私の心は強くなかった。父を恨み続けてもどこにも殴れる力無い。そうして天をあおいで、自らに残ったのは、どうしようもない深い息と虚脱感だけだった。
ただ、もうしたいこともすることも留まりたい場所もなくなった。だから、虚ろな目で、女主人らにつれられ、ただ歩く。そうしろと言われるから。
館の中はむせ返るように、濃い毒々しい化粧と、香の混ざったような臭いがした。これが、毒ならば、嗅いでいればあの世にでも、いけるのだろうかと皮肉にも、思ったがそんなことはない。
「さっそく、こいつ、使い物になるように、しこみますかい?」
「歳がたりない、騎士団にしょっぴかれちまうよっ、うーん、それに、見目は良いと思うが髪はあぶらっけもない、発育不良で、買い叩かれて値が釣り上がらないさっ」
「では」
「ほかの女どもの世話係や、館の仕事をさせて、館の女の仕事を覚えさせるのさ」
「おい、お前っ何ができる」
「……」
「さっさとしゃべれ!」
「……」
小鼠顔の男が、手を振り上げてきて、殴られる瞬間、父の姿が重なった。ふと、父がもどってきてくれたのだろうか、心のなかで一瞬思う自分が惨めだった。しかし、もし本当に父なのならば、殴られるだけで許してくれるのなら、手を広げてそれを、待とう。次はもっとうまくやれるように。次はうまく殴られよう。不快にならないように言葉に気を付けよう。だから……。
「おやめっ」
不意にその言葉で現実に引き戻される。ああそうだ、そんなはずはない。
夢は残忍なほどに、現実が押し潰す。父が自分を売った事実として自分がここにいるのだから。
「す、すいやせんっ」
「堪え性がないね、少しは頭をまわしな、未来には商品になる、こんなのでもね、価値を釣りあげて、あたしたちがもうけるのさ、わかるかい?投資だよ」
「は、はいっ、さすがですっ」
「幼いときの怪我はたまに、残るからね、傷つきは困るんだよ、高く客をとらせられない」
「き、気を付けます、それにしても、媚をいっちょまえにおぼえるガキや、泣きわめくやつは多いが、手を広げてなぐってほしがるなんて、これ薄気味悪いガキですぜっ……」
「いいさ、気味が悪かろうが容姿がうまくしあがれば抱く客もつくさ、それに、どれだけ、心が拒否しても腹が減る、そしたら、自ずと従うようになるさね、叩かなくてもね、そこいらは他の安い娼館とは違う価値のあげかたさ、自ら価値を下げるのは三流の店のやることさ」
「おっしゃる通りです、足の悪いあっしをこんなにはぶりよくやとってくれるのも主人の広いお心」
父に売られたときは気がつかなかったが、この男は少し足が悪いようだった。その男を雇うのは、女主人がこの男の能力を見初めたからか、仕事をまかせられるとおもったからかはわからない。ただ、自分とは違う、経緯がこの人たちにもあったのだろう。いまとなっては、知るよしもないけれど。
幼い私は、この二人を、父と引き離す悪のように思っていた。
けれど、大人になって俯瞰できるようになって振り替えるに、どこまでもこの主人や男は、使えるものは使って金として価値をつり上げる、純粋な商売人だったのだとおもう。
ただ商売の中身が、性の売買と言う点において、後ろ暗いのだろうが。
「ふん、お前さんだろうがこの小娘だろうが、つかえるところがあるなら使うさ、さぁ、あたしに媚びてないであんたも、仕事しな、使ってない狭い部屋があっただろ」
「昔病気の女どもを寝かせてた、部屋ですかい?」
「そうだよ、使い物にならないが一応は商品になる予定だ、あそこにいれておきな、水だけは与えてね」
「かしこまりやした、ついてこい」
小鼠顔の男に腕を強く引かれて、来たのは館でも一番奥の部屋だった。その部屋にいくまで館の内部をぼんやりと見る。
娼婦が昼間から、客を取る店だ、淫靡な雰囲気が漂っていてもおかしくなかった。しかし、その頃の、自分は幼くてあまり理解はできていなかったけれど、不衛生なイメージや、そこまで露骨な感じはしなかったように思う。
ただ唯一思い出として強く残るほど、いやだったのは、汗や様々な臭いを覆うように、強い香の臭いが館全体に充満していたことだろうか。あの臭いは、私が最初に訪れた時からこの場所の嫌悪感の象徴としてあった。煙が自分の身体に巻き付いてきて、香煙のなかに、すべての希望が霞んでいく、そんな心地がした。
そうして、自分は、虚ろな目とちどあしのまま、いわれた部屋に放り投げるように入れられた。
「腹が減るなら、働くことだ、言うことを聞けば衣食住だけは保証してやる、お優しい女主人の仰せだ、どれだけ待ってもお前のろくでなしの父親はお前を迎えにこないさ、諦めて頭を下げて働くことだな、ここはそういう場所なんだよひひひっ」
卑屈そうな笑いを浮かべながら小鼠顔の男は、それだけいって、自分を放った部屋の扉をしめて出ていった。
その小さな部屋は元々、使い物にならなくなった病人を追いやっていた部屋らしい。そのせいか、館の派手な壁紙や、香の臭いから離れて、質素な作りになっていた。
店の外観は、とても堅牢そうな石造りなのに、その部屋は木造に作り替えられていた。無理に改築したのか、物置の予定だったのか、噛み合わない印象をうける。
だけれど、自分としては、木目がそのままみえ、経年劣化で黒づんだ木の壁の部屋が何故か好きだった。キシキシとなる小さなベット、床は、いまにも壊れそうな音をならしているというのに。この壊れそうな小さな部屋の一室が、館で一番、《《心的》》に安心できる、静謐な場所のように思えた。
ーーようやく一人になれた。
そう思った。
振り返ってみると、実際は少しばかり所々壁が薄いのか、艶めいた声や夜毎一晩だけ囁く嘘の睦事が聞こえていたのかもしれない。けれど、その時は心の苦しみをやり過ごし、生きるのに精一杯だったからか、幼い自分には理解できていなかったからか気にはならなかった。
部屋の窓から差し込む、月明かりだけが、その時の自分に寄り添ってくれていた。ようやく惨い現実から解放されて一人になれる時間にほっとして、身体を丸める。
そうして、緊張の糸が切れたのかもしれない。
不意に、ただ涙がこぼれ落ちてきた。
声を殺しながら、泣いた。
その晩は訳もわからずただ薄い布団をかぶってなき続けた。心のすべての悲しみが、涙となって流れ続けた。
そうして、気がついた時には意識を失うように寝て、無情にも朝が来ていた。
この身体が朽ちるまで、生きることも死ぬことも、誰も決めてくれない。そうして惨めにも朝はくる。
無情な朝がくると、女主人にいわれた通り、清潔な水だけが、鍵があけられ、入れ換えられていた。
しかし、数口つけただけで、それ以上はまた膝を抱えて部屋のすみでうすぼんやりと外をみた。お腹はすいていたように思う。けれど、身体が軽くなれば、苦しみから抜け出し空に導いてくれるような気がしたから苦痛ではなかった。その部屋にいる自分は、まるで世界から取りこぼされたように、あまりに空虚で、悲しみも怒りも通り越して、ただ涙だけが、理解できずとも、つーっと流れ続けた。
1日たち、2日たち、3日たった。水だけしかとっていないからか、空腹を告げる腹の音はなる。身体は気だるさをおぼえていたし、動く気力もなくなり始めていた。しかし、それがどうしたのだろう。
母に捨てられ父に捨てられ、幼い自分が懐に唯一もっていた大切なものがすべて消え失せた。そんな、この世界に自分を留め置く理由などなにもない。
だからだろうか、衰弱していく、身体の苦しみよりも、すべて世界が遠くに感じたのだ。
そうして、天井をみる日々が四日目に突入しはじめたとき、ふとどこからか声がした。
「おっと、とんだガキじゃないか、金になる女か男でもつれてきたとおもったら」
壁に人差し指を入れられるほどの、小さな穴があった。そこから青い目が一つこちらを覗いていた。
「だれ……」
数日ぶりに声をだしたせいか、声はしゃがれていた。
「しゃべらないっていってたのにしゃべるじゃないかぃ、あたしは、この館の商品の一人さ、最近つれてきたやつが3日も飯を食わずに部屋にこもってるって、このままおっちんじまうか、出てくるかけをしていてね、覗きにきたんだよ……ほとんどが腹が減ったら出てくるしかないっていうんだ、私はあんたがしんじまうほうにかけた一人さ、なぁあんた死んでくれないかい?」
そんなはたからみたら、酷いことをいってのけるような姐さんが、私の教え役であり、生涯生きる中で、消せない傷をつけた人だった。
「死ぬ……」
「そうさ、どうせろくことない理由で、あんたもここにいるんだろう?助けなんか来ない、たまに、身請けされるやつらもいるけど、そんなのほとんどない、身請けされるまえに死ぬか、若くして病になるか、なら、ここで別に死んだほうが苦しくないだろう?」
「なら……毒をくれるの?」
「私が殺したってなったら、商品を傷つけたって女主人にばれて、折檻されるか、命はないかもしれないさね」
「同じ境遇なのでしょう、なら、生きててもろくなことないってあなたも同じじゃない、でも、あなたは私が死んで、かけをして、生きるためのお金を巻き上げるの……毒は渡したくないのに」
「そりゃあそうさ、ろくなことはない、けれど、金を使って好きな食い物や化粧をかってから死ぬ方がましだろう?人は苦しんで死んでも私は快楽をあじわってましに死にたい、こんなこの世の腐った掃き溜めのような場所で生きてるなら、なおさらね」
「正直って毒ね」
「優しい腐った嘘よりはましさ、なぁ、どうせ数日で死ぬんだろう、なら、良いじゃない」
「……優しい腐った嘘」
その言葉に、父と母の姿が、よぎって、あの二人の、すべてを物語るようでただただ、笑えてきた。
「急に笑いだして、あんたおかしくなったのかい」
「そうなの?私おかしいの?」
「すくなくとも今はおかしいさ」
「ならきっと、これまでもこれからも、私も私のセカイも、人生ずっとおかしいの」
「ふーん、人生なんてここにきたやつはみんなオカしくなって、終わってるさ、気狂いだらけだ、人の皮を被るのがうまいやつだけが生き残るようにね……神様ってのは、助けてくれないのにねぇ」
「クツァルテヌカ神は試練をあたえるって」
「じゃぁろくな試練じゃないねぇっ、まぁ、飯と金をくれるなら神でもなんでもあたしは仰ぐけどね、さぁ、一瞬だけの神様、あたしに掛け金をくれないかい」
「もしわたしが、死んで……死んだらどこにいくのかしら」
「少なくともあたしたちを売ったやつらとは同じとこにはお断りだよ」
「……ねえ、私はあと何日たてば死ねるの」
「知るわけがないさね」
「そう」
「はぁ……客がきたみたいだ、次にあうときは死んで私の一瞬の神様になっておくれよ」
それから1日、2日、水だけで過ごしたときには、身体が動けなくなりかけていた。このまま眠れば、この人生の先の苦しみの試練を前借りして受けなくていいのだろうか。そんなことをおもいながら目を閉じた。
けれど、無情にもそんなことは起きなかった。
次に目を開けたときには、あの部屋のベッドより、ましなベッドで、口にスープを突っ込まれていた。ぼんやりと眼をさまして、それを反射的に嚥下する。そうして、眼をさますと、ベッドの側には、不機嫌そうなあの鋭い青い目の人と、小鼠顔の男、そして女主人がいた。どうやら、自分の横で母と父のように言い争っているらしかった。
「本当に死にかけさせるやつがあるかい!」
「すいやせんっ、まさか、さすがに、死なないうちにでるだろうと、それにとなりの部屋のフルヒリに見張らせてもいたんですがっ」
「おだまりっ!あんたもあんただフルヒリ、なんだいあんた口を割らせてみれば、コレが死ぬか、出るか掛けをしていたって話じゃないか」
結局死ぬかどうかカケをしていたのは、バレてしまったらしい。一瞬の神様にはなってあげられなかったようだった。そして、あの青い瞳の彼女は、フルヒリというらしかった。
「だって、こんなのガリガリの、商品になる価値もないやつに、目をかけるなんて館だって暇じゃないだろう、あんたほど金にガメツイ女主人がなんでこんな子供をひきとったんだい」
「べっ、別に、館で何人か雇って育てて、商品として教え込むことは、それなりにあるだろっ、あんたもそれを経験してきた一人じゃないか」
フルヒリも自分のように、似た境遇でここにきた一人らしい。おそらくはここに身を窶したものなんて、理由はどうあれにたようなものなのかもしれない。
「もうたりてるんだよ子守りじゃないんだ、あたしは給料分の仕事しかしない、それが、あたしがこの場所で売上を稼いでるから許されてることだろう」
「あたしのいうことに、逆らうつもりかいフルヒリ、ただじゃおかないよっ」
「あーあーあー!どうせいつ死ぬかわからないあたしらに、脅しなんてきかないさ!あたしの売上が減ったら困るのはあんたらだ、それに、どうせ、つかまされたんだろうっ、それなりに手広く広げて金払いの良い軍の客を呼び込もうとでもしたかい?それであんたは前にもこけたじゃないかい」
女主人が少しばかりくぐもったような声をあげた。図星だったらしい。後から気がついたけれど、おそらくは、父が持っていた上客の伝や、はしたがねのようなにきえさった特許、軍関係との縁故を狙いたかったのだろあ。
だから、こんな幼い痩せ細った自分と契約を結んだのだろう。ああなってしまったけれど、父も、経営を一応は担っていたから、回せる口くらいは持っていたのだと思う。
「フルヒリなんて口をご主人に!働けなくさせてやるぞっ」
「ああチュピリ顔に似てチューチューチューチューうるさいねぇっ部下は主人に似るってか!」
「貴様ぁああっ主人に対して、いっていいことと、悪いことがある、このアバズレの女豹めっ!」
「なんだい、そう育てたのはあんたらだろう、ならおいだすかいっ、この口を縫い止めるかい、ああ、殺せ殺せ!美しさが消えて耄碌する前には、消える安い命だ、嫌でも、こんな小便臭いガキはあたしはみないからねっ!」
長く水しかとっていないせいだろう。まわらない頭で、どうにか察した。自分をどうするか、この人たちは算段しているらしい。
「そもそも、小娘も小娘だ、しみったれてこの世に絶望したような顔で、食い物にすがりつくきもない、生き汚さの欠片もない、ここで、こんな小綺麗なガキがいきていけるわけないだろうっ、なんだい、餓死して、神に帰依するってかいっ、とんだもんだよっ施設にでもなげいれろ」
「商品契約で買いとったんだ、だからあんたがここに馴染むようにしつけろといってんだよっ、頼まれた監視をしてなかったぶん、これはあんたの罪だっフルヒリ」
「ちっ、こんなことなら、さっさと部屋を出てくれたほうが、ましなもんだったよ」
館の給仕でもしているのか、小さい年頃の子供が、自分にスープを飲ませてくれている。途中むせたが、また食べるようにいわれた。水だけしか飲んでいなかったけれど、口につめこまれると身体が空腹からそれを無意識に求めてしまうようだった。
ただ、固形物は飲み込むのにしばらく難しかった。おそらく心労がたたって、食べ物を受け付けようとしなくなってしまったのかもしれない。それでも、食べなければ肉付きのよい商品にはならない。だから、たべられるものをと、口にスープを流し込まれたけれどそれでも胃には負担だった。
あの時のスープの味は、良くも悪くも忘れられそうにない。
本来なら、そのスープは、身体に染み入るようで純粋に美味しいまともなものだったはずだ。
けれど心身ともに気力が尽きかけていた、自分には、感情のせいで、喉に突き刺すような、えぐみを飲み込んでいるようにしか、感じられなかった。
「どうせ、上物だとおもってつかまされてみたら、たいしたことなくて、それの値ぶんこの子供が役に立たないのが悔しいんだろう?あんたはどこまでも元を取らないと気がすまないたちだからねっ」
「フルヒリ貴様っ!」
「ふぅ……フルヒリ、あんたは昔っから跳ねっ返りが、強かった、けど頭はそれなりに良いし、客の前では顔を変えられる、そんな器用さがあったから、横暴を許していたけれどね、今回ばかりは私の命令だよ」
「男の相手して疲れて、それでなんだ、ガキの面倒までだって?そんなの、あたしはしてやらないからね」
過酷な仕事なのだろうとはなんとなく会話ぶりから察していた。けれど、後々、これを断りたがる気持ちも、いやというほどわかることになったのを覚えている。
「最近、上客の相手できる子が死んだだろ」
「だからあたしに客が回ってきて疲れているのに、ガキの面倒まで、それが無理だというんだっ」
「全員が全員、あんたのように教養と、粗相をしないような見極めができる器用さがあるわけではないだろう、それはうちの館の品としての価値も上がる、あんただけで上客を、回すのが無理なら、その子を数年のうちに使い物にして、あんたが、駒のように使えば良い、専属で、そのかわり教養とこの仕事を仕込みなっ」
「数年も、そんなしち、面倒なことをっ!」
「じゃあ、売り上げ二位に、この子を預けようかい」
「そうだあの女だ、あの女にさっさとっ」
「そのかわりに、次にあんたのかわりにあの子へ上客をまかせるようにしよう、あんたほどじゃないが、粗相しない、教養はあんたほどないが、媚びるのが上手い、あの子が好きな客もいる、売り上げはあちらが上になったら、こうもあたしらに言える立場はなくなるだろうね」
「ちっ……」
「どうだい、この子の面倒をやめるかい?」
「最悪な日だ……いいかい、好きに使っても文句をいうんじゃないよっ」
「殺さず、顔と身体に傷をつけないなら何をしても許すさ」
「いいか……あたしはガキが嫌いだ邪魔するなら、すぐさま切り捨てる、みきりをつける、あと物覚えが悪いやつもね」
「さぁ、聞いていただろう」
女主人がベッドに横たわる自分の方をみた。
「あのまま餓死させたとあっては、うちの評判にも傷つく、そこまで娼婦の質を保てないと下級の娼館だと格付けされるからね、上客が減って売り上げに響くんだ、あんたは、今日からフルヒリについて勉強しな」
「……フルヒリさん?」
「あんたが、死んでくれれば、掛け金一人もうけだったのに、厄介事おしつけられたよ……ちっ、いいかい、私の命令にはすべて従うように、役に立たなかったらみきりをつけるからね」
「……私はなにもしたくないです、生きていていいことがないならなぜ生きなければならないのでしょうか」
「そんなの誰がしるかっ、ましな死にかたなんてものもここにはないさね」
「しかし、早々に音を上げてでてくるものとおもったが、とんだ頑固ものか、それとも……、まぁいい、フルヒリ、商品にしっかり仕上げな」
「こいつ次第だ」
「度々監視しにくるから、しっかりやるようにっ」
「面倒事を押し付けやがって……ちっ」
女主人と小鼠顔の男が出ていくと、フルヒリが嫌そうな顔で、ベッドのそばの椅子に腰かけた。
「私は、小綺麗なやつが嫌いだ、わたしは生き汚ないほうが好きだ、そうして育ったからね、お前みたいなのは好きじゃない」
「私に、父と母があたえてくれた価値はもうなくなりました、彼らが売ったからです」
「はっ必要な価値だって、なら、親に捨てられたら、死ねっていわれたら、死ぬ程度の命なのかい、必要じゃないっていわれたら、自分はいらないってか、おりこうなことで、……まぁいいさね、簡単に死なれたら厄介になったことには変わりはない、便利な道具くらいに使ってやるさ」
「私は、生きたくないのです、それなら、何故あなたに従う必要が?」
「あんたが死にたかろうが関係ない、あんたを死なせるなって押し付けられたんだからね、私のためさ、それにここにきた以上あたしのほうが先輩だ、あたしに従うのが規則だ、それに、なぁ……、親はもうあんたをいらないっていったんだよな、なら、今度は私が拾ったんだ、つまり私の物ってことだろ」
「物?」
「親に価値を定められなきゃ、生きていけないって、自分の意志がないってのなら、物と同じだろう、お前は物だ、物は当然人が拾うよな、女主人が買ったものがお前で、それを託されたのが私だ、お前のくそな親父が物として売ったからここにいるんだろ?」
「……はい」
「ほらな、なら、私がひろったんだから私の言うことをきくのも当然だ、生きる価値がないっていうなら、道具なら意思や生きる理由なんて、そんなものはいらないだろ、私のいったことが全てで、私の言うことを生きる価値として奉りあげな、私の言うことはここでは絶対だ」
「あなたが……これからは生きる価値?」
父に殴られて、閉塞した環境で育った自分は、父という世界の価値しかしらなかった。痛みや苦しみに、抗い守ろうとする意思は幼い頃はあった。どうしてと。けれど、おそらくあまりに長い時間それに曝され続けると、自分で決めるという力は、消えていくように思う。
まるで洗脳されたように。
今思えばフルヒリ姐さんは、それをわかって、死なせないようにすりかえたのだと思う。あの人の青い瞳は、時折心の奥の芯を見抜いているように思えた。
「はっ、自分でどうにも生きるか死ぬかすらきめられないんだ、性根が依存体質なんだね、私が嫌いな女のタイプだがしかたない、私のために生きるも死ぬもなんでもいい、とかく役に立ちな」
「……死んでらくにしてくれたらいいのに」
「ちっ、死ぬ理由も生きる理由ももうお前にはないさ、私の物だからね、それに生死なんて、他人様の勝手だ、生んだやつらのな、生むだけ生んで賛美して、ゴミのようにすてるんだ、私やお前のようにな」
父と母のごめんという言葉がよぎって、奥歯を噛んだ。心の奥で蓋をしていたものが、時折なにかをきっかけに浮かび上がる。
「はは、そういう顔もできるなら、少しはましか……憎め、憎んでいきろ、怒り、悲しみ、呪って、ここはそういうやつらの行き着いた先だ、私もお前の両親も、女主人も、お前に誰も優しくしない世界さ」
自分がその時どんな顔をしていたのかわからない。けれど、フルヒリ姐さんは私のその表情に、何かを見いだしていたのかもしれない。
「私は、命令だから教えてやる、じゃないとチューチューうるさいやつがいるからね、だが、私はもの覚えの悪いやつは嫌いだ、だから何度も手間をかけさせるんじゃないよ、あと、勝手に今死ぬなんていうのもやめておくれよ、もう少し時間が経ってからじゃないとあたしが怪しまれるからね」
フルヒリ姐さんは本当に本心からそういうことを言う人だった。残酷な人だったけれど。それゆえに器用に割りきり、生きてこれた人だった。生死の入れ替りが激しいこの場所で、彼女が幼い頃から、ここでやってこれたそれが理由なのだろうとも思った。
それに、いつもは客に媚をうっている彼女だけれど、客の前いがい気を張るのを嫌がっていた。四六時中気を張るなんてそれは確かに、疲弊するだろうし、当たり前のことではあるのだけど。切り替えが上手い人だったように思う。
そんな商売のための己と、私への酷薄な彼女の有り様が、私は嫌いではなかったようにおもう。
薄い言葉の謝罪を吐いた両親よりも。
「で、何ができるあんたは」
「……」
「黙り通すなうざったい、バカは嫌いだといったろう、何ができる」
「……皿洗いと家事と繕い物は」
「文字の読み書き、算術くらいはならってるだろ?」
「いいえ、父が、私逃げないように、学ばせなかったので」
「はっ、知恵を持ったら女が逃げると思ったかい、あんたも父親もとんだ、役立たずじゃないか、客への文筆を、おぼえさせようとしたのに……はぁ、本当に厄介ごとおしつけやがってあのクソババア……これから、私が楽ができるように、言葉と算術と化粧と他教養、客への対応、歌、踊り、楽器、必要なものすべて覚えるのがしばらくはあんたの仕事だ、いいね」
そうして、なんの生きる目的も無かった自分は、漫然とそのことを考えることを拒否して、フルヒリ姐さんに従えようになった。
別段きっと、フルヒリ姐さんじゃなくても、誰でもよかったのかもしれない。
ーー生きる苦しみを考えないようにしてくれるのならば。
それに、フルヒリ姐さんは、幼いながら抱えていた、自分の依存体質を、すっぱりと、見抜いていた。あの人はずいぶんと慧眼がある人だったようにおもう。あとにも先にも、あの人にはすべてを見透かされているように感じているようなことが多々あった。
すべてが憎くて怒りと悲しみに塗りつぶされてしまうと、考えることに疲れきるから、疲れないためにそうして、従うことを選んでしまった。そうすれば楽だから。姐さんは、それを利用して私を使うことを器用にやってのけた。
私もそれに、乗っかった。
それをしていれば、自分は、父母から捨てられた絶望に固執してとらわれて苦しまないから。首を締め付けられ続けるような、苦しい想いが、追いかけて来ない気がしたから。
「ちゃんと返事をしな、返事はハイだ、出来ないならいいえだ」
「はい」
「あたしの後をついてこいといったら、ついてきて、教えたことをやること、あとは、まず読み書き算術を覚えな、あと、繕い物ができるんだったね」
「はい」
「解れをなおせるくらいはできるかい」
「はい」
「なら置いといたものを、治しな」
「はい」
「お前の意固地のせいでとんだことになったけれどね、回復したら手加減なんてしないからね」
そうして、数日して食事をとって動けるようになったころ、フルヒリ姐さんからは、どっさりと本を渡された。とにかく文字と算術を覚えるようにいわれた。何にでもここにいる以上使うからと。
まだ店に出せない若い子たちは、他が手を離せない時、客の会計をしたり、他の姐さんたちの文筆をさせたりする。そのため、嫌でも、必要な技術なのだという。
あと覚えること以外では、食事を取る量、食べ物の中身まできめ細かく指定された。父と貧しい暮らしをしていたから、食が細く、肉や多い量の食事は吐き戻してしまうことも多かった。量を少しずつ増やし、吐き戻しを押さえる薬を渡され、無理にでもそれなりに太るように言われた。
「痩せ細った女が美しいなんていうやつもいるけど、寝屋でそんな女が男の相手なんてできるわけがないだろう、それに、客をとらなくても、骨ばかりの身体じゃ見目も悪い、客の酌の相手すらさせられないじゃないか」
と、フルヒリ姐さんに舌打ちをされた。
心配しているわけでもなく、本音から、そういっているのがフルヒリ姐さんのすごいところだ。一切の優しさも含まず自分のためなのだ。優しさが微塵もない姐さんの正直さに、自分は疑うことを忘れていくようだった。人は、本来なら優しくされることをこそ、喜ぶのだろうけれど、嘘の優しさよりよっぽど良いように自分は感じられた。
騙されて売られてきた自分にとってはこの人の正直さに安堵した。
裏も表もないこの人の隣は生きやすかった。
それに、肉付きの悪い女は血色が悪く、化粧をしても、客がなかなかとろうとしないため、女主人からも治療を受けるよういわれたので食事を懸命にとるようになった。
あくまで自分は、商品なのだと何度も館のものに教え込まれた。残忍な世界だというのに、父母のように疑わなくてすむ、価値をたもてば捨てられない。そのわかりやすい指標が、期待をもたなくてすむことが、びくびくせずにいられて私には何故か性に合った。
親に捨てられないように努力していた自分だったからかもしれない。
それに、価値を高めるため、やることが多い日々は、苦しみの蓋を押さえつけてくれた。だから、学ぶことが、うまく噛み合ったのだとおもう。
辛いとき仕事に逃げ込むというあれの様なものなのかもしれない。
食事を普通にとれるようになり、簡単な読み書きができるようになるころ、姐さんはこう声をかけてきた。
「文字の勉強はやってるんだろうね」
「日常使う基礎の単語は覚えました」
「算術は」
「文字よりおぼえやすいようです、買い物の計算くらいはできるようになりました」
「……ふん、なら、今日からついてまわるように、言われたこといがい、余計なことはしなくていい、逆にいわれたことはすべてやんな」
「はい」
半日は勉強、客がきたときは、後ろを付き従うようにいわれ、衣を着せたり脱がせたり、化粧の手伝い、所作、それら彼女の一挙手一投足すべてを覚えるように言われた。
どうしてもわからない事や、難しい文字や算術は館の同い年や少し上の人たちにこっそり聞いた。姐さんに付き従うときに、客がたまに、お菓子をくれるのだ。それをあげると、色々と欲しいことを教えてくれる。
良くも悪くも父の血はついでしまっているせいか、算術を覚えるのは文字よりはやく、しだいに、館の経理の手伝いをして小遣いをもらうようになった。
ただ、それでも、物を間違うことは当然あり、フルヒリ姐さんに、ため息をつかれ、バカは嫌いだと、罵られるのだけれど……。子供ながらに心が渇ききっていたせいか、その小言や罵倒すらなんとも、素知らぬ気持ちで受け止めていたようにおもう。殴られる恐怖ばかり知っているからか罵倒は可愛いものだったのかもしれない。
ただ、罵倒とは違って、褒められたときばかりは面食らったことが一度あった。
「お客様、どうなさいました?」
「いや、今日は酒はいい」
ここでは、飲ませたお酒の本数も、売り上げに関わる。客をとった娼婦に、金が加算されるため、姐さんたちは積極的にお酒を飲ませることも多かった。
しかし、付き添いでいった日、普段は酒を飲む客が、酒を嫌がった。姐さんは無理矢理には勧めなかったが、内心では、苛立っていただろう。売上げが減るのだから。
酩酊した客は寝入るのがはやく、娼婦のがわの負担が減る。そのため、姐さんはやんわりと酒をついだが、しかし、客は酒のラベルをちらりとみて渋りグラスを置いた。
姐さんにこっそりと、目配せをして、メモをとり、この酒があわないのかもしれないむねを伝えた。味覚というのは不思議で高いほうが美味しいと感じる人もいれば安いものが、あうという人もいる。それに、体質にあう酒合わない酒というのもある。この人は、このラベルが苦手なのかもしれないと察した。父が同僚を家にあがらせ、苦手な酒に見せた反応と同じだった。
「もしやこのお酒が?前はお好きだときいて、あなた様をおもい、瓶をとっていたのですが、私と飲むお酒が、お嫌になりましたか?」
「お前と飲む酒が嫌いだなんて、そんなわけがないだろう……ただ、この酒は、経営者がかわったせいか、最近質がおちてな、好まなくなったんだ、可愛いお前を嫌いになるわけがないじゃないか、フルヒリ」
「あら、そんな、嬉しいですわ、では、あなた様の繊細な舌にあう、上質なお酒を今宵、共に探して、二人で酔いしれるのはいかがでしょうか」
「ハハハっ、では可愛いフルヒリ、酒をもってきておくれ、どんな酒がある」
「今ですと」
ということが、たまたまあった。それが、客の機嫌と金払いや売り上げを、伸ばすきっかけになり、現金な姐さんのお眼鏡にかなったようだった。
「あんた、そういう才能があるんだねぇ、使えるかもしれない」
自分には、人が嫌がることを察知する能力があるらしい。機嫌を損ねないように、振る舞える所作だけは、フルヒリ姐さんにまわりくどく褒められた。
父からの暴力を、おさめるために、酒のつぎかたや、言葉の選び方、人の顔色を読む技術を身につけてしまったのだろう。それが、幸いするときがくるとは思わなかった。嬉しくもない技術だったけれど。
めったにフルヒリ姐さんは褒めない人だ。出来て当たり前、上司としてはそんな人。そんな姐さんに褒められた時は、唖然としたのを覚えている。次の日、空から何か振ってくるかとおもったくらいだ。ただ、それゆえにその姿をみて、フルヒリ姐さんはすぐに、失礼だね、とまた怒って苛立って部屋にもどってしまったけれど。
滅多に褒めない人が褒めてくれるというのは、自分にとって大きな破壊力があったのを、おぼえている。
それでも、フルヒリ姐さんにとっては、自分が儲かったから嬉しかっただけなのだろうけれど。
そんなことを、いわれるがままに、姐さんの道具としてこなしていくうちに、ただ淡々と日々は過ぎていった。二年ほどたち、自分も少しずつ骨ばっていたの身体も、変化し、館でやれることが増えていった。
相変わらず生きている意味なんて何一つわからなかったし、いつ死んだとて差し障りがない世界であることを理解しつつ、心を許す相手も出来なくても。ただ利用されるだけの日々が、私に毎朝、朝を迎えさせてくれていた。
ある日、姐さんが、自ら、本格的に客の接待のために、私に仕込みをはじめた。姐さんのなかで、何か、お眼鏡に叶うときがきたのかもしれない。
姿勢や首の傾げかた、佇まいや息づかい、人を刺激する所作を、私に教え込む。姐さんの所作は、無感動でいる自分にも、十分に艶かしく感じるほどに手練手管に富んでいた。フルヒリ姐さんは、女を艶やかにみせることに計算的に理解している秀でた人だったようにおもう。
「あたしが綺麗にみえるかい?ただ、見惚れてるんじゃないよ、あんたがこれを覚えるんだ、この色気だけは、あんたにはまだだせないくらいには、おぼこいけどね」
なんて、自画自賛ぎみにいっていたけれど、姐さんの所作は確かに、色々と目に毒だった。恥ずかしくて目を反らすと、叩かれたりもした。姐さんの目は肥えているため、指の先にいたるまで、自分の所作を見てはため息をつき、厳しい指導をする人だった。
「……姐さん」
「なんだい、全然お客なんてとれそうにない、下手さだけど、今日はもうしまいにするよ、あたしは疲れた」
「姐さんに抱かれるひとは幸せですね」
「はっ、おべっかしたって明日はもっと厳しいからね……ふんっ」
「姐さんが、この館で一番だといわれるのがわかるきがしました」
「当然さね、だが、生意気だよ、あんたの目ん玉じゃ、あたしの魅力なんてまだまだわかりきれるはずないのさ、それにいっている言葉と裏腹にあんた表情筋が一つもうごいてないじゃないかい、あんたそれだけは本当に教えがいがないよっ」
自らに覆いかぶさり、まるで熱っぽい所作をみせる姐さんは確かに誇張もなく綺麗だと感じた。蝋燭のあかりに、うつるその潤んだ瞳にうつしこまれた人は、この女性を自分の物にしたいとおもう独占と嗜虐心を刺激されるだろう。これがすべて嘘として、一夜の恋人をこなす、姐さんは確かにすごいと付き添うことで理解できた。だから素直に褒めたのだけれど姐さん自体がこういうことを素直に受けとるような人ではないからか、まったく響いてないようだった。
ただ、自画自賛して、自分のすごさをひけらかすようにいう姐さんにも、ここにいる娼婦たちにも、こうして培った人を誘う技術に、深い悲しみと寂しさを覚えていることも、ここで過ごすようになってから知った。
ーー姐さんはまるで私のような遠くの目をしている。
姐さんは時折お客をとり、湯浴みをさせられているあと、身体についた痕を見つめる。その瞳にはどこか、哀しみを宿しているようだった。遠く、どこか遠くを見つめるような眼差しをすることを、私だけが知っている。他の姐さんたちは、フルヒリ姐さんのことを、そんな柔な女じゃないだろとカラカラと笑うけれど。姐さんの瞳の奥には、自分と同じ哀しみと、色濃い憎しみがちらりと覗いているような気がした。
「フルヒリ姐さん」
「……なんだい疲れてるんだ静かにしておくれよ」
「今晩のお客様も、力が強いかたでした、あざになっています、お風呂からあがったら、痛いところがあったら薬を塗りましょうか」
「……そうだね……まで……薬をぬれたらいいのにね」
「姐さん?」
「じゃあ薬を用意しとくれ」
「はい」
時折そんな顔を覗かせながら、姐さんは美しく着飾り、明日には化粧をぬりあざを隠しいつものように佇み悠然とお客を相手をする。
まるでその一瞬の哀しみが錯覚のように思えるくらいには、姐さんの心の化粧は上手かった。それとも、自分が彼女も同じものを抱えるような人だと、思いたかったからみた幻だったのだろうか。どうあれ、姐さんほど、心の化粧がうまい女はこの館にいないように思えた。
化粧といえば、心の化粧は姐さんが一番上手かったけれど、自分の化粧を仕上げてくれたのは他の姐さんたちの影響が大きかった。
「あんた、フルヒリのところの、しっぽみたいな使いじゃない、なんのようよ、あ、まさかフルヒリのところから根を上げてきたってわけ、あんな女じゃしょうがないわよね」
「違います、化粧の実験台手伝います、だから化粧を教えてくださいませんか」
「なんだ、あの女を見限ったわけじゃないの、でも、こんなにまだ艶のある肌なら化粧ののりも良さそうね……ためしたいことがいっぱいあるのよ、わかった、教えてあげるわ、かわりに、全部つきあうのよ!」
ということで、暗い部屋でもはえる化粧の仕方は姐さんも教えてくれたけれど、化粧については特段、いつもは当たりの強い、他の姐さんたちのおかげで覚えたと思う。
フルヒリ姐さんの性格や上客を、とられることで、姐さんたちは、あまりフルヒリ姐さんたちに、良い顔をしていなかった。その下で教えを受ける小間使のような自分もその一派というわけである。
けれど、普段は胡乱に扱われることも多かったというのに、化粧の時だけ姐さんたちの態度は変わった。
彼女たちも、乙女である。
化粧じたいが好きな人も多かったし、嫌いな姐さんも客のための化粧の実験だいとなると欲しがった。職業柄姐さんたちほど、常に飢えているものはいないのだ。
自分は、そのもっともたる良い実験台だった。
普段厳しい姐さんたちも、私に化粧を教えるかわりに化粧を実験してもいいとおもえば手のひらをかえす。玩具のように、顔を使えるのが楽しかったのか、化粧の実験台にしつつ、自分に教えてくれた。
そうして、自分の化粧はフルヒリ姐さんの女らしい艶っぽい化粧とはちがい、自分の少し童顔な顔に、似合うものへと完成されていった。このおかげで、姐さんたちの自分へのあたりも、少し弱まった。
自分は、何気なく毎日こなしていたけれど、なんだか、姐さんたちは、フルヒリ姐さんからの日課や課題やするべきことを興味本位にきいてきて、しだいに可哀想な捨てられた動物でもみているような目になられたけれど、気のせいだったのだろうか。少し自分への当たりが優しくなった気がする。
そうして、館は、仕事のことは一切教えてくれなかった父のいたあの家よりも、私を捨てた母がいた家よりも、多くを知る場所になった気がする。
別に、この場所を、心地よい居場所と感じるわけではなかったけれど。
ここの、相変わらず毒々しい香りには慣れなかったし、あくまでここは競売場のような目でみられる場所であることも理解していた。娼婦という品の価値をつりあげるための生育場だ。
以前の自分ならばただ、怖い、穢らわしいもののように思っただろう。
それでも、慣れというのは恐ろしいもので、艶のある声が響く夜も、当たり前のように感じて眠るようになった。
ふと思う。暴力から解放される前の日々と、これから商品として価値を求められるようになる自分と、どちらの人生がましだったのだろうと。いや、どちらも、幸せという日々から縁遠いと理解はしながら。
ある日姐さんが、館から買い物いがいで自分の外出許可をとりにいく日があった。久々に、二人で出かけることになるらしい。もちろん、楽しい買い物なんてことは微塵もないのだろうけれど。
「楽器も歌も、それなりに仕上がったきたけど、やっぱり、話題のものは見るしかないの、話を合わせるのにボロがでるから、これが一番上客の問題なところよね、観劇につれていってくれるなら、お金がかからなくていいけれど、こっちが仕入れないとノリが悪い客もいる」
「話あわせるために自費でですか?」
「当然でしょ、あのチュー太郎と女主人のがめついやつらが、観劇なんてみせる費用だすとおもう?」
「いいえ」
「でも、少し気取った高尚なことが好きそうにみせたい人っていうのはね、転がしやすいのよ、酒ものませやすい、これで売り上げが変わる、今回だけは私がだしてあげる、いやだけれど、あとは、必要ならあんたのだされてる金で見にきなさい」
「はい」
だいたいの基礎的なことが出来るようになると、フルヒリ姐さんは、ちまたで流行っている芸事につれていき、学ばせ、他、上客の好きそうな知識を仕入れる方法まで、教えて、私に調べさせたりするようになった。
「結局この劇、どうして、毒をのんで女が生きてるかも確かめないで死ぬんでしょうか、そもそもお医者様よびにいったりしないのでしょうか、悲恋ぶっていますが、そもそもこのシーンの前にどうにかできた場所あると思いますが」
「あんた身も蓋もないわね、まぁ、あたしも、これのどこがいいかわからないけど、こういう悲恋とか、恋愛ものの観劇って、腕に絡ませられたりするし、このセリフおぼえとけば、のせやすいし、使えるから、見たらメモして私に概要をきかせるように」
「わかりました」
「それにしても、ほんと、あんたこういうの絶対向かないのね、観劇よりは、楽器や歌や教養のほうが、使えそうだからそっちを磨いたほうが良いかも、依存体質なのに、色恋には疎いのね」
「娼婦に恋は必要なのですか?」
「いえ、こんな場所のやつらにそんなものいらないか……恋は期待と同義だから、未来なんてない娼婦は突き落とされるだけ、帰るわよ」
「はい」
私が観劇して内容を姐さんに教えると小遣いをもらえる。だから、度々休日は見に行くことを許されるようになった。
たまに話題になったものは共に見に行くことも希にあった。
これのなにがいいんだかと、ポツリとこぼす姐さんの姿を度々みることも多かった。だけれど、床に、入らせるよりも前に、上客の機嫌を良くするために、観劇をした作品を利用して褒めちぎる姿は、恐ろしく巧みであった。この域には、自分には達っせそうにないとも思った。
自分が疲れているときは、酒を飲ませて、酩酊させ、床いりさえさせないのだから、あれほど女主人に偉そうにいえるのは、伊達ではない。そうしてたまに身体を捧げるから、顧客がつくのだろうと学んだ。
そんな日々のなか色々と私が慣れたためか、疲れきった姐さんは、昼間はほとんど寝ていて、買い物は、ほぼ、私に任せるようになっていた。
他にも、身体をほぐす手伝いや、髪を洗い、髪をとかし、身支度を整えさせるにいたるまで、出来るようになると重宝がられた。
あんなに厄介ばらいを、していたというのに、姐さんは、現金な性格だから、役に立つものとして認識した途端、私を自慢することが増えた。
純粋に褒めるなんて可愛いものではなく、他の姐さんたちへのあてつけだろうが。
自分は、姐さんほどではないが、仕込む価値がある程度には、器用だったらしい。歌や楽器や、文筆などは、様になるようになった。ただ表情をつくる以外は。
「相変わらず笑うのだけは下手だね、あんた」
姐さんが、珍しく上機嫌で、私に休日酒をつがせていたけれど、いまだに誰の前でも笑うことはできていない。父母に売られてから、ほとんど笑っていないように思う。商売で微笑む必要性は痛いほどわかったが、どうしても不自然になることが多かった。それでも、最近の姐さんは上機嫌なことが増えた。
「最初は、あんたのこと、本当にいらないっておもったんだけど、これが役にたつと、使い勝手が良いのなんのって、さすが仕込んだのが私ね、私が有能だったわ」
自画自賛しているけれど、面倒見が良いというよりは、義務的に監視されてやらされていたようにおもうけれど……。
なーんて、そんなことをいったら機嫌が悪くなるので当然言わない。それに、惰性と命令で教えていたとはいえ、フルヒリ姐さんから色々と教わったことは役に立っているのは事実なので。そういうことにしておく。
「まだあんたが幼いからって、あいつら、客をとらせてないけど……いつか、あんたが、客とるようになったら、私にうりあげ、上納させてやるんだから」
自分は、それなりに役に立つようになったらしいと他の姐さんからの扱いもかわり、認識するようになったとき、ある時月の物がきた。
その日だけは、女主人も、姐さんたちも、いい顔はしなかった。
それがくると言うことは、子供を持てるようになるということだから。娼婦としては、一番厄介なもんだいである。故に、その日、月一で必ずかけないといけない魔法を、受ける儀式をはじめて私は受けた。国から認可されていない野良の魔女が毎月、闇商売すれすれの商売のために、うちの館にくる。毛嫌いされがち折魔女が、時折うちにきていたのはそういう理由だったことを、その時になってしった。
その魔法を使えば、娼婦たちは望まぬ結果を逃れられる。だからこの魔法は、娼婦が娼婦でいられるために必要なものであり、彼女たちを守る盾だった。
この魔法は、魔女が子供を持つことができない、その理由の過程を解明するために作られたものだったそうだ。
国では、推奨されていない魔法であり、このような商売でなければ扱うものも公にしない強い魔法だという。
魔法が、成立すると、手の項に、華のマークがうかびあがり。花弁が減る事に効果がなくなるらしい。
まだ自分は、客をとらされていない。この魔法が、守ってくれるときがくるのだろうか。はじめて、その日、この館にきてから、恐怖をおぼえて手の項を握りしめた。
それから、しばらくたったある日、姐さんに手を一度だけあげられた日があった。まだ客をとっていない自分だったが、その魔法の跡をみて、姐さんが少し離れている間に、客が、自分もそういう相手をできると勘違いしたらしい。
その客が自分に襲いかかってきた。
恐怖から、自分は、押し返し、かすり傷を負わせてしまう。
それに客は、激情し、女主人に怒鳴りこんだ。女主人は、謝罪しつつも、毅然な態度で通し、その客を追い払ってくれたらしい。
そして、その大口の客は、その館をもう二度と訪れないと怒鳴り散らし、出ていった。
自分は、呆然として、脱がされた服をたぐりよせて、震えながら蹲った。
それをみて、姐さんは、怒鳴るかとおもったが、もっと冷たい眼差しで、こちらをみて、不意に頬をはった。
「あんたは、私の上客をとったんだ」
売り上げの半分以上が、館に入り、上客をとるほど、残りの酒の数などを含めて値段も当然高くなる。たった一人でも、金払いの良い上客を失うことは、フルヒリ姐さんにとっては、かなりの損失だった。それを自分は、招いてしまった。
はじめてみた姐さんのその顔に、私は、久しぶりに、捨てられる恐怖を思い出した。
「あんたにはもう、十分教えこんだ、主人とも交渉した、私づきから外れてもらう」
「フルヒリ、姐さん……」
「私の客をとったお前を、これくらいの処置ですませたのは私の、温情だ、物に何をしても良いところを、私が、許した、物に目くじらをたてるのは愚かだろう?」
「姐さん、まって、……姐さんっ……すてないで、私は、姐さんのためならっ」
あぁ、思っていたより自分は姐さんに執着していたらしい。
何事もなく、無感動に、生きる目的もなく、自分は淡々と生活をこなしていたと思っていたけれど違ったらしい。
もちろん生きる意味も、いまだってあまり見つけられていない。
傷つき失った部分の心は変わらない。
けれど、数年の間に、自分をただ、この人が、自分を側においてくれることで、自らはこうやって保ってこれていた。
大切にしてくれなかろうと、それだけでよかったのだ。
愛してくれなくても、利用してくれるこの人が、自分には強く根付いていたのだと理解した。
「失せろっていってるんだよ!」
「ぁ……ぁあ、ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ、姐さん、姐さん謝るから姐さんっ」
それでも姐さんは許さなかった。その言葉と共に腕をつかんで、部屋からおいだされる。何度となく謝ったけれどフルヒリ姐さんは許してくれなかった。
自分の楔となってくれていた人が、すべて消え去るのを感じると共に。
その日、心の深くで支えていたものが折れたのを感じた。
あの日父に売られた時からやはり私は何も変化していない、あのときの時間に自分を落としてきたままだったのだと理解させられた。
フルヒリ姐さんは、その日から、私を避けるようになった。さすがに故意ではないこと、まだ客をとっていないこと、それを姐さんはわかっていた。さすがに今回のことばかりは私に落ち度がないと、他の姐さんたちは、フルヒリ姐さんにかけあってくれたが、姐さんは許してはくれなかった。
助けようとしてくれた姐さんたちには感謝している。きっと、自分が悪かったのだ。姐さんの客に色目を使ったとおもわれるような素振りを、何かしていたのかもしれない。
私が……。
そうして、フルヒリ姐さんは私との間に高い壁を築いてしまい、自分は、厄介払いされてしまった。
依存先を失った自分はまたここにきた頃に、後戻りしてしまったような心地がした。
虚ろな目をしていると、女主人から、他の姐さんたちの手伝いをするようにいわれた。
価値がなくなれば追い出す。この場所はそういう場所だから。
どんなにフルヒリ姐さんから嫌われたとしても、自分の日々は続く。女主人からすると、上客を逃がした損失を私に払わせたかったらしいが、その仕事をすることでどうにか許された。
本当は、この国の法律上、二つほど店で客としてだすには足りない年齢だったことで、咎められなかっただけらしい。他の姐さんたちは、女主人を影でけらけらと笑っていた。女主人は、歯噛みをしていたのを姐さんたちは、酒の肴にしていたくらいだ。自分たちの身体をうって稼いだ金をふんだくる女主人は、良く的になるらしい。
「主人の顔見た?めちゃくちゃ歯噛みしてて、いいきみだわ久々に」
「騎士団にしょっぴかれたら、店は営業をとめられてしまうのだもの、ふふ、当然よね、エクメアを責められるわけないのだもの」
「そうそう、だから、フルヒリのことも、気にしない方が良いのよ、エクメア、昔からフルヒリは短気だし根に持つし、こんな私たちみたいな性格悪い女でも思うくらい、それの何~倍も、底意地が悪いのよあの女っ」
「そうよ、そうよあんなの、気にしないの」
「……はい」
「そうそうあいつ、それにさ、お高く止まってるのはいつもなのよ、本当に、売上高いから許されてるけど、主人にたてつくたび、発散されるとばっちり私たちが受けるの、生意気だって、わたしたちも手をやいてるんだから」
「そーれーに、あの子から離れたから、エクメア、わたしたち全体で共有できるようになったでしょ、あのフルヒリのわがままについていけるんだから、もう尊敬しちゃう、おかげで髪もつかれてるとき洗ってもらえたり、繕い物してもらったり、買い物してもらったり身体まで揉みほぐしたもらって、もう、最高」
「役に私は、たててますか?」
「たってるたってる、あのがめつい主人もつかまされたっていって歯噛みしてたけど、数年たってみたら、とんだひろいものよね、私たちからすると」
「でも、上客が減って……私のせいで、売上がおちると女主人が」
「あーそんなこといったら、わたしたちも何度かやらかしてる子いるし、これまで粗相を全くしなかったエクメアができすぎって感じ、まじで酷い扱いしてくる客もあるから、痣とかできちゃって、向こうは乗り気だけど、こっちは何一つ気持ち良くないっていうのに、耐えきれなくなって断って激情なんてあるある、仕事とはいえ傷つくられるのはちょっとね」
「そうそう、そもそも、フルヒリを、目当てにして、フルヒリに案内されてるってのに、エクメアまで手を出そうとしたってのが、まじで相手の問題じゃない?」
「指名外だと、女主人許してないしね、あとあとめんどうだから、問題になったとき」
「だから、あのがめついチュピリ顔の、チュー太郎とか主人とかも、今回のこと、めちゃくちゃ口惜しそうだったけど、エクメアをそんなに咎めなかったでしょ」
「まぁ、でも、いつかエクメアもお客とるんだから、さすがに、お客に怖がってると、あとで苦労するけどね」
「え、でも、うちらも最初そうだったでしょ……好きでやってるやついないでしょ、男に抱かれていつ病気で死ぬかわからない、なんて、こんなどん底の商売なんて」
「まぁ、そうよね~」
「あははそうそう、好きでだれがなるかって話」
姐さんたちの雰囲気は、とても明るく見えるが、会話は刹那的だ。おそらくは苦しい人生だからこそ、きっと彼女たちは退廃的に笑って、そうやって日々を自らの価値がなくなるそのときまで生きるのだろう。誰かはこんな姐さんたちの姿を、哀れというのだろうか。憐憫の目を向けて、女性を搾取する全てを否定しながら。もちろん、誰がこんな場所に、そうそう好き好んで、行き着きたいのだろうとは思う。自分だって、売られなければここに来なかった。だから、この稼ぎかたを肯定はしたくない。それに実際、はたからみればただ、下まで落ちた人間の、卑しい姿と見られるだろう。
だけれど、だけれど、何故だろう、自分はこの場所で生きる姐さんたちの姿を、なぜか否定させたくないきがした。
フルヒリ姐さんは、自分を見限った。私がしでかしたことだ。けれど、この姐さんたちと同じように、あの人が疲れきった眼差しで、世界を見ていることを知っている。
ただなされるままに、あの人に付き従って、あの人との言われるがままに、生活を捧げてきた。
それが苦しみから逃げる方法として、楽だったから。
思考放棄していれば、明日が怖くなかったから。
けれどどうしても、自分を切り捨てたあの人のことを思う。父母の時とは違う、"主体的に"無意識に、あの人のことを思ってしまった。
あの人は必要なければ、自分なんか簡単に切り捨てられる人なのだろうけれど。
ーー姐さんは、長い髪の手入れや結うのが、面倒で嫌いで、本当は苦手だから。今、姐さんは、一人で結っているのかな。
なんて、あの遠くを見つめるような眼差しが脳裏にかすめた。もう、あの人は自分を、必要としていないのに。
「とにかくエクメア、フルヒリのことなんて、気にしない方が良いって、かわりにあたしたちに、お客とるまでは、手伝ってね」
「はい」
「でも、お客とったらこんなの、してもらえなくなるのいやだわー」
「それはそうよね、主人に直談判できないかしら」
「無理無理、フルヒリが育てたなら、あの人すでに、エクメアのこと、金のなる木としかみてないから」
「あー、ありそう」
「あ、そういえばフルヒリのことで廊下でこっそりきいたんだけどさ?女主人通して、見受けのはなしきてるって」
「嘘でしょ?見た目はいいけど、性格最悪なのに、客は、知らないからかー」
「結構な資産家だとか、だから、女主人も迷ってるって」
「えーうそー!羨ましいっ、ここでれるの!?」
ーー姐さんが見受け?
だから、自分なんかいらなくなったのだろうか。
確かに、姐さんは、いい客つかまえて、でていってやると、いっていたことも、あったけれど。じゃあ本当に?
ーー見受けされるなら、嬉しいことだよね?
喜ばないといけない。だってこんな場所から離れられるのだから。祝うべきなのだろう姐さんを。でも、なぜだか、心奥底で、燻るこの違和感はわからなかった。
それから、数ヶ月、フルヒリ姐さんと、話しておらず、自分はすっかり、他の姐さんたちに重宝されていた。あれほど役立たずといわれて、バカは嫌いだといっていたのに、フルヒリ姐さんのお陰で、ここでどうにか日々を過ごせている。嫌われてしまったというのに、姐さんに教えられていることが役に立っているのだから皮肉なことだ。
「ねえ、エクメア、ごめん、これに書いてあるもの、買ってきてくれない?お金は渡すから」
「わかりました」
何人かの姐さんたちの買い物をまとめて、買いに行くため、館の人に許可をとって、久々に外にでた。手の紋様があると、娼婦だとわかるため、手袋をしてでる。そうすることで、店の店員の扱いが、全うなものになるからだ。
装いは、街で住み込みで働く、子供のような格好で出る。観劇にいくときはいつもこれだった。
書き記されたものを、一つ一つ吟味して、まとめて、安く買えそうな場所を、探し、気に入った店でしか姐さんたちが買わないものは慎重に一つ一つ買うものを確かめながら、潰していった。しかし、時折、フルヒリ姐さんの好むものが目には入るたびに、手をのばしかける。そして、はっとして商品を戻した。
父母のことを永く、永く、引きずり続けているように、そこにまた一人、姐さんのことが加わったかのようだった。
「買い物終わった、帰ろう」
時間はあるから、街で好きなことをしても良かった。でも、自分の給料なんて、たかが知れていたし、どうせ契約している書面があるかぎり、あの館から逃げることなんてできない。希望を抱かず、ただ与えられたことをこなすそれだけだ。
「お父さんあれみて、あれ、買ってくれる?」
「もうさっきも食べただろ、絶対お腹に入らないぞ、お母さんがおまえの好きなもの作ってまってくれてるっていってたからな、我慢しよう」
「えー!うー、うーん、でもわかった」
「いい子だ」
通りすぎた親子の姿は、もう、自分には縁遠い、手に入れられない星のようだった。館近くまで戻ると、フルヒリ姐さんが、少し歳をめした、身なりの良い人と腕を組みながら歩いていた。ふと、視線が合いそうになり、あわてて避ける。一瞬通りすぎるとき、姐さんが、視線を向けた気がしたが気のせいだろうか。いや、それだけじゃなく、隣の人も。いや、考えすぎだとおもう。
「姐さんはもう自分のことなんて覚えてないかもしれないよね、帰ろう」
買い物は無事すんだのだから。姐さんに口をだせる立場に自分はもうない。拳を握りしめて、そのまま館に戻った。もう関係ないと。どこか、そうおもいながらも、気持ちを引きずりながら、踵をかえした。
そして、数日後、姐さんの、身請けの話が、女主人から告げられた。
「いち抜けがあの女なの、悔しいけど、わかるわ」
「この調子で、私を身請けしてくれる人が見つからないかしらおこぼれってやつ」
「あんたのために法外な金なんてだす客いないわよ」
「それはっ、あんたもじゃないっ!」
なんて、姐さんたちが姦しく言い合っていると、フルヒリ姐さんが美しく着飾った姿で、自分達の前に現れた。フルヒリ姐さんを身請けするくらいだから、一番の売り上げの彼女だ、よほどの金を積めるひとだったのだろう。
「いやぁ、この度は、多額のお金を、我が店におさめていただき、誠に感謝いたします」
女主人が手をこねこねと、動かしながら、昨日みた、身なりの良い人にへこへこ媚をうっていた。それに付き従うようにチュピリ顔の男も、腰を低くしている。
「こんなにいい女性を、手に入れられたのだ、金など惜しくはない、娼婦上がりといえど、何人もの男が欲しがった美貌と才気の星だ、釣り合いがとれるというものだよ」
「まことにありがとうございます」
「では、この館の香ばかりは、私は趣味に合わなくてね、さっさとお暇させてもらうよ、いいね、フルヒリ」
「はい」
猫かぶりの商売用の姐さんの顔なのは、すぐにわかった。それを見て視線があうと、気まずそうにそらす。しかし、軽蔑の眼差しとはこちらを見る目が違うような気がした。身請けが決まったから安心して柔らかくなった?
あのフルヒリ姐さんだ、そんなはずはない。
けれど、何故か、何故だか、こちらを威圧するような青い瞳とは違うように見えた。人の嫌がることを察する才能がある、そういう機微を悟る才能があると姐さんにいわれたことがあったけれど。
ーーあの目はおびえ?
「必要な荷物をまとめたら、使いのものに運ばせる、明後日迎えにいくからまとめなさい、いいね?」
「はい」
「では」
フルヒリ姐さんの身請けの話がまとまり、姐さんたちにも、当たり前のごとく広まった。館であったことは、すべて、広がる。だから、館はその日フルヒリ姐さんの身請け話で、もちきりになった。
「お金があれば、あんな、紳士なら、お年をめしててもいいかも」
「あんた現金ね」
「じゃああんたはどうなのよ」
とかいう話が聞こえたかと思えば。
「これでフルヒリが、いなくなるから、上客が私にめぐってくるわね」
「あの性格底意地悪い女の二面性がばれて、すぐに追い出されるとか」
「あり得るわー」
なんてことも、館のあちこちで囁かれていた。ただ、一人自分だけが、姐さんのあの瞳に、違和感を覚えながら。
フルヒリ姐さんは、いつものように自画自賛し、他の姐さんたちに、いい回るようなことをしたり、高飛車な態度をみせていたけれど。自分だけは、何故だか、いつもの姐さんのように、見えず首をかしげた。あれほど、こっぴどく嫌われてしまったのに、姐さんのことはなんとなくわかってしまうのだ。姐さんに教えられたすべては家族に教えられたことより、多いから。
声をかけようとした。
けれどかけてどうなるとおもった。
また自分は、手酷く扱われて、放り出されるだけではないか。
あるいは、それとも身請けがきまって、機嫌良く招き入れてくれるだろうか。
答えをだせず、1日がたち、明日目が覚めれば、フルヒリ姐さんが、去ってしまうまで、悩み、そして、嫌われているならそれでも良いと声をかけることを選んだ。
客をとった姐さんたちは、皆、睦事の最中だろうし、女主人たちは、フルヒリ姐さんの、身請けで入った金で何かまた画策しているようで忙しそうだ。前に一通り、主人たちの事業をはじめて、失敗する浪費ぐせは、ここ数年で私もしっている。いまごろ外でなにかしらたくらんでいることだろう。
だから今日は、姐さんに声をかけるのに都合が良い日であった。ただ、都合が悪くなるかは、フルヒリ姐さんしだいだろうけれど。
「姐さん……エクメアです、お話をさせていただけないでしょうか」
いつもなら、舌打ちが飛んできそうだったけれど、その日姐さんは、なにもいわずに扉をあけた。姐さんの部屋は、片付けおわり、ほとんどのものは、商売に必要なものだったせいか、彼女の荷物はあまりに少ないように見えた。
「なにかよう?」
「……」
「だまるのをやめなさい、バカは嫌いっていってるでしょ」
「姐さん……私お客様のこと」
「そんなのもう昔のことよ、もう身請けされるんだから、あんたの粗相なんて、あたしにはもう関係なくなるのよ」
「でも……姐さんのお客だったのに、私が勘違いされたのが」
「別にあんたが悪いとか、そんなの腹いせにきまってるじゃない」
「それでもです」
「……つくづくムカつくやつだね、あたしの機嫌しだいだ、許すも許さないも私の機嫌が決めることだ、そんなものを気にしているお前さんは、バカのなにものでもないさね」
「確かに私は馬鹿です、姐さんの嫌う、でも、私は、感謝しています、姐さんに」
「それは当然さね、あたしが手間をかけて、教えてあげたんだから」
「はい、姐さんがいなければ私はここまで生きていないとおもいます……今も生きることが素晴らしいなんて声高にいえる自信なんてありません、きっとこれからの人生に幸福だと思えることもないかもしれません」
「回りくどいわね、なに、羨んでるっていうのおあいにく様ね」
「……ただ、あなたの物で良かったと……思います、私を置いていった母と売った父への憎み怒り、それだけが、私の中に残っていた強い衝動でした、けれど、それ以外は父の暴力の生活の中で、私の中にあった感情は全て怯えによって塗り替えられ、無感動に、安全のみを求めて、生きる生き方しかできなくなっていました、すべての思考を放棄し鈍化し生きる……ただ、そんな自分が、嫌われてもいい、今一度姐さんと話がしたいと、思って行動した、ここにきた私の意思は、姐さんにあわなければきっと芽生えなかった」
きっとこんな気持ちを、言語化するための知識や己の心のあり方すら、父さんのもとにいたらわからないままだったのかもしれないけれど。こうしてここに来てから、身体と知識は前より育ち、そうして自分を見つめ直せる心の器が育ってきた。
「それでなに……そんなことをつたえるためなら、感謝ならされてもたりないくらいだけど、もうでていくんだから、これくらいで許してあげる、忙しいのさっさとでてっ「姐さんの目が不安そうでした、身請け嫌なのですか」
「はっ……そんなわけないでしょ、娼婦としての人生を捨てて、幸せになれるのよあたしが、勝ち取ったのよ、全て、私の力で、また私から取ろうとするつもりね」
言葉とは裏腹に目が揺れ動き、声が震えていた。気丈な姐さんは、普段商売では、動揺なんて見せない。けれど、きっと自分の前で気を抜いていたから、虚を突かれたのだと思う。
それに、来た時の自分はあまりに幼かっただから、姐さんが大きな大人のようにみえていたのかもしれない。けれど身長は姐さんとあまりかわらなくなった。だから、この人の中にみえるものが前より、わかるようになったのかもしれない。幼かった自分が見上げていた大人より少し近づいたから。
「ちがいます、姐さんが、私の力で唯一ほめてくれましたよね、私は、人の嫌がっているものを、察して機微に敏く察する力があるって、姐さんが、いってくれたから」
「あのときは、気分がのって、ほめただけよ勘違いしないで」
「勘違いですか?滅多にほめない姐さんが?」
「当たり前じゃない」
「それでも……気丈な姐さんが、あの身なりの良い人と歩いている時、怯えているようにみえ「そんなわけない!私は幸せになるの、幸せに、娼婦として苦しむ人生より、他の子たちみたいに諦めた顔で笑うことなく、心の底から笑える人生を、この手で勝ち取ったの!」
「なら……姐さんはどうしてあの人の前で私のように素直な姿をみせないんですか、なら、姐さんは、いつも表情を崩すなというのに、そんな顔で泣きそう顔なんですか」
姐さんは、自室の鏡をみて、驚き、そして、俯いた。自覚していなかったのだ。あの一挙手一投足に気を配る姐さんが。いまは、あれほど、自分にとって、己のために突き進む彼女の、有り様とはあまりにかけはなれ、こんなにも脆く、見える。
「ははははっ、本当にムカつくわ、無知なガキのままでいればよかったのに……皮肉ね、誰にもばれずにいたのに、あんたにいろんなこと教えなきゃよかった」
「ごめんなさい、でもっ」
「色恋も、笑顔も男の扱いも、まだまだ、下手なのにこんなときだけ気がつくのね……はぁ、なんてやつ」
「……私は姐さんが嫌いになれません」
「酔狂ね、この館の人間に私を好きなやつなんて、一人もいないのに……はぁ、わかったわ、馬鹿で物好きついでに訪ねた来たんだもの……最後くらい、私の世話しなさい」
「え?」
「したくなかったら良いのよ、あんたはもう私のものじゃないもの」
「いいえ、やります!」
どうして、苦しんでいるのですかと、聞いたとしても、姐さんは、苦笑するだけで、なにも話してくれそうには、なかった。気丈で高飛車な雰囲気とは違い、時折自分と二人だけの時に見せるあの遠い哀しげな眼差しに見えた。指先を微かにからめられて、つれられて、浴室についていく。いつものように、姐さんは、私に服を脱がせるようにいった。
「あなたも脱ぎなさい」
いつもと違うのは、私も浴槽で姐さんを世話するときに着る湯着ではなく、すべて脱ぐようにいわれた。はじめてのことだったので、驚いていてもたもたとしていると、姐さんは先に風呂場にいってしまった。
いつもは、自分が、浴槽に水がたまり、花の香油をたらすまで、すませてから、入りたがるのに。
慌ててついていくと、髪を洗い、背中を流すようにいわれた。それを、いつものようにすませると、姐さんが、逆になぜか自分の身体や髪をあらいはじめた。
「自分で洗います」
「いいから言うことを聞きなさい、それに、昔は私もこうやって覚えさせられたのよあんたよりは器用だったけれど……いまの私が最初からこうだったとおもう?」
フルヒリ姐さんは最初から器用にできたとおもっていたし、フルヒリ姐さんの姿はずっといまの姿しか想像ができない。けれど、自分が姐さんに教えられたように、姐さんもそうして、教えられて来た時間があったようだ。
「客が身体の世話をして洗ってほしいなんていってくるときがあるから……しばらく男の人の身体しか洗ったことなかったけど、ふふ、こっちの方が良いわね、文句が出ないもの、あんたからは」
フルヒリ姐さんの様子がいつもと違うことは、嫌でもわかった。きっともしかしたら、館の誰も今のこんな姐さんをみたことがないのかもしれない。
「父親から殴られてたアザはだいぶ消えたようね、うすく青く残っているくらい、化粧で隠せるくらいにはなったわね」
「はい」
優しい手付きで髪を流され、身体をあらわれながらそういわれた。あのいつもの辛辣な言葉とは裏腹に、姐さんの手付きは優しいものだった。壊れ物でも扱うような。姐さんは、身体の泡を水で流し落とすと、ゆっくりと腕を回して背中から抱き締めてきた。
「姐さん……」
姐さんは、震えていた。振り替えり、抱きしめ返せば良いのだろうか。私は母さんに去られてから、抱きしめられたことなんて一つもない。それにこんな自分がフルヒリ姐さんになにができるのだろう。
「たくさんの人と仕事で一夜に愛を囁いて情交をかわしたのに、心なんて1つもふれあえない、汗で冷えて冷たい朝に、空虚な痛みだけが残るの、なのに、たくましくもない、ひ弱なあんたの身体のほうがあたたかいきがするわ……」
「フルヒリ姐さん、こうしていては、風邪をひきます」
「本当にあなたは、こういうことを言いがいがないのね」
「姐さんに風邪ひかせたら、私はその、あまり嬉しくないと、思います、だから」
「目覚めたら……はだけた私をみても、労りなんて一つもなく、他の客は、すぐ去っていくのに、そんなこというのはあんただけね……そのほうがずっと」
ずっとなんだろう、とおもいながら、苦笑して姐さんは浴槽に入った。お湯のたまりきらない浴槽は、お湯は半分ほどだ。姐さんが入ると少しだけ人のぶんかさがました。けれだまだ足りない。上がろうとすると、姐さんに腕を捕まれて、風呂に入るように促される。
「狭いと思います」
「お湯がたまるまでよ、寒いじゃない」
「わかりました……」
姐さんに抱き変えられる形で、浴槽につかると、自分は少し戸惑いながら受け入れると、姐さんは、カラカラとその様子を笑った。いまの姐さんが本当なのか、いつもの姐さんが本当なのかわからなくなる。けれど、本当はこの寂しげな彼女と気丈な彼女との境界なんて、意図して仕事のために築いているだけで本当はないのかもしれない。他の姐さんたちがみたら、いまのフルヒリ姐さんを笑うか、馬鹿にするか夢でもみているかなんていいそうだけれど。何故か自分のなかでは、すんなりと受け入れられた。世話をしていたから、度々みる姐さんの眼差しにいまの姐さんの姿が重なる。姐さんの本心は姐さんしかわからないけれど、でもたしかなことは、素直じゃない姐さんが、自分をすがるように裏腹に引き留めたいのだとわかった。
「……あんたは客をまだ取ったことがないでしょう?だから、教えてあげる、どれだけ身体を重ねても私たちは乱れた糸のようにありながら必ず朝には情が切れて、虚しさと苦しみが残るの、夜に振る舞い朝に苦しむ、
ここにいるかぎり絶対に心は残らない、きっとあんたもそれを経験する時がくる、けれど、きっとここじゃなくたって、どこにいたって心が離れているものもいる、ただ私たちはその一人、ずっと幸せをしらないまま、過ごしていくの、幸せがなにかもしらないままね、
けれど、たまに降ってくるの一つまみの幸せのようなものが、でもそれを少しでも知ったら、あたしたちには致死量で、毒におかされて生きていけなくなる」
「毒、前にみた劇の話ですか?」
「そうね、そうかもしれない、いつかあんたは、いってたじゃない、わからないってあの劇のよさ、わたしもわからなかったあのときは、でも愛した人がいなくなるから耐えられないだけじゃなく、もう一瞬の幸福の味をおぼえて、中毒になってしまったら、それがなくなる人生に、人はきっと耐えられないのよ」
「人は、幸せの姿をしているのですか?」
「そういうひともきっといる、ただこんな掃き溜めには一匙の幸せには劇薬過ぎる、だから一瞬愛されて一瞬で消える火花のように、生きなさい、エクメア、あなたはそうじゃないと脆すぎる」
強く抱きしめられて、不意に振り替えると姐さんが自分の唇にふれるだけの柔らかい口づけをしたようなきがした。お風呂の、蒸気で、姐さんの顔ははっきりとみれず、ただ、それでも泣いているような気がした。
「ねえ、エクメア、あんた、私に抱かれる人は幸せだといったでしょう? 違うわエクメア、私のそばには、ここには、そんなものなかったし、あっちゃだめだったのよ」
姐さんの涙をぬぐう。姐さんの綺麗な青い瞳の奥には、自分がうつりこんでいる。しかし、もうすぐこの瞳にうつるのが自分ではなくなるのだと思う虚しさが不意にわいてくる。自分の瞳にすら映らないところにいってしまう。
この、しなだれた身体が、この人を引き留める毒になれば良いのにとそのときは願った。
結局その晩、姐さんが泣いている理由は、聞けなかった。そして、次の日、フルヒリ姐さんの部屋のベッドのうえで、起きた頃には、姐さんの姿も荷物も消えていた。静かに行きたいと、女主人にフルヒリ姐さんが頼んだようだった。朝靄がたつほどの、早い時間にフルヒリ姐さんは荷物をもって、そして館からさっていった。
館のものは、いつものようにその日仕事をはじめ、誰もフルヒリ姐さんが去っていったことを悲しむ人はいなかった。
ただ自分だけが取り残されたように佇んでいた。
そして苦しむ胸を押さえるように服を握りながら、姐さんの部屋にもどると、机の上には、自分宛の短いメモのようなものと、鍵があった。その鍵はたまに姐さんが使っていたものだ。
『この部屋は、あたしがさったら、次の売り上げが高いやつに引き継がれる、だからその前に、机の引き出しをあけて、あんたあてのものをとるように、どうせもっていけないものだからあんたにやるよ、あたしのことが嫌いな他のやつらにやるのは癪に障るからね、あんたのほうがましだろうとおもったってことさ』
姐さんが座っている鏡台の引き出しの鍵だ。何か化粧道具でも残してくれたのだろうかと、鍵を使いあけてみる。しかし、想像とは裏腹に、そこには、上質な布性の箱に包まれた一輪の結晶化した美しい花が入っていた。そして、その隣には、いつも姐さんが使っていた手鏡と小さな手紙があった。
「姐さん」
手紙を開こうとしたが、これを読んだ時点で姐さんが側から消えてしまいそうなきがして、そのときは開けるのをためらってしまった。ちょうど、他の姐さんたちから、呼び出しがかかったため、自分の部屋の引き出しに大切に入れて、その日は開けなかった。しかし、そうこうしていくうちに、何度もあけようとしたけれど、普段の姐さんの様子だ、どんなことが書いてあるかも想像がつかず開けられずにいた。
そうして、当たり前に姐さんの、いない日々が一月、二月とすぎ、館はなにも代わり映えすることなく過ぎていく。自分だけがフルヒリ姐さんのいない生活になれないまま。そのせいから手紙をずっと開けられずにいた。これを見なければ姐さんと離別しなくていいような気がしたから。
勿論、もらった結晶の花は生けてあるし、鏡も使っている。
けれど、手紙だけは開けなかった。なにがそうさせるのかわからなかったけれど、その封をあけるのが、二月ものあいだ、重く感じて手を止めていたのだ。
姐さんが離れる現実、遠い世界にいくような喪失感、自分の現実が変わらないことへの苦い気持ち、ほかにもいろいろとまざっているきがした。
しかし、人間というのは不思議なもので、
不意に何故か心が落ち着く日があった。あれほど、重く感じていた手紙の封をすんなりと開けてしまえるくらいには。
封を開けると、甘いフルヒリ姐さんの好む香りが残っている気がした。そんなはずはないというのに。
文字に目を滑らせ始めたそのとき、部屋の戸がなった。
「休憩中に悪いね」
「主人」
他の姐さんたちか、館の働き手か、小鼠顔の男か、いずれかだとおもっていたが、珍しく主人が直接自分の部屋の戸を叩いた。
「どうしましたか?主人が私になんて、珍しいですね、他の姐さんたちになにかありましたか、手伝いですか?」
「……水死体が見つかったらしい、あたしとあんたで立ち会うことにした、あたしとあんたが一番付き合いが長いからね」
「なんの話をして?」
長い沈黙のあと、煙を吸い込んで吐いて、主人がこういった。
「ふぅ……今朝、貧民街近くの水路に繋がる、川の畔で、酷く傷つられた女の死体が見つかったんだ、所持物や特徴から、うちに確認がきてね、確認者としてあたしたちが呼ばれることになった……、エクメア、フルヒリの死体があがったよ」
「え」
手元の手紙は机の上に落ち、そして、ただ主人の言葉が受けきれず、自分は、床にへたり込んだ。




