8.5、ある魔女の断章➃
そんなはずはない。そんなはずはない。
姐さんは、幸せになるために、身請けされたのだ。こんな場所から出てってやると、それが、姐さんの口癖だった。
ーーやっとこんな場所から抜けだせたはずだ、なのに!
手紙をつかんで、部屋から走り出した。理解できない現実を、拒否して、そんなのは何かの間違いだと振り払いたくて。しかし、女主人が、自分の前に手をついて、行く手を遮った。
「場所もわからず、走り出すつもりかい?」
はっとして、そして俯いた。
「外行きの服に着替えてきな、車はまたせてある」
「……はい」
女主人は少し面倒そうな顔をしていた。女主人にとって姐さんは、金を稼ぐ商品で、ここにはそんな女たちしかいない。自分もそうだ。だから商品の死体があがったとて、どれほどの情があるのだろう。あのフルヒリ姐さんの、態度の問題もあるのだろうけれど、それでもここには姐さんを大切におもっている人などいないのだとおもう。
自分一人を除いて。
両親から見放された自分の人生は、あまりにも遠く、果てしなくみえていた。それを、あの人はどのようなやりかたであれ、ここまで茫漠とした永く果てしない絶望のなかで、足掻く方法を教えてくれた。
あの人も同じように見果てぬような人生だったはずなのに。
自分が彼女の物であるといったときは、なんとも反抗する気も起きなかった。物であるのならばいつか壊されて、見放されてしまうのだろうと、何の期待もしていなかったから。けれど、姐さんは、そういいながらも、面倒だといいながら、私が多くのことをできるようになるまで、見捨てなかった。
義務だとしても。
もっと、薄情な人間なら、最初から世話なんてしない。あの時突っぱねていたはずだ。
あの人は、そんな人だった。
心の底から自分本意なくせして、そういうところは律儀なのだ。
あぁ、そんな人だと誰もみんな知らない。それだけじゃない、あの人が哀しい眼差しで、世界を見ていたこともきっと、そんなことは誰も知らないのだ。
あの姿もかけ離れているようできっと、姐さんの本質だった。
あんなに幸せなんてないと言葉にする姐さんの滲んだ徒労は私の目の中にしかない。あの青い瞳のなかに浮かんだ哀しさを、もっと滲ませればよかったのだ。そうしたら、他の姐さんやみんなだって……。
いや、そんなこと意地っ張りな姐さんができるはずない。
なら嫁いだ先でそれがばれて、すてられてしまったのだろうか。なら戻ってくれば、いや、戻ったとて、なにができるこんな場所で。
いや、姐さんのことだ、生きてさえくれれば、あの人は器用な人だから、ここを離れたって、なんの不自由もないはずだ。
そうだそうに決まっている。
姐さんが死んだことを、認めたくなくて、思考がぐるぐるとまわる。
「着替えたね、乗りな」
「はい」
女主人を先に乗せるために私は扉を開いた。いつものチュピリ顔の男は、運転手をするらしく、私にやれということらしい。女主人が座ると、自分は後部座席でうずくまるように座った。扉をしめると、車はゆっくりと動き出した。
そういえば、はじめてここにつれてこられた時この、自動走行車だったなと思い出す。これには、いい思い出がつくづくないようだ。
走る、車の車輪は、自分の思考のようにまわって、ぐるぐるぐるぐると前に進んでいく。進んで欲しくない自分の想いなど、まるで知らないように。この車輪が進むごとに、轍が、姐さんのもとへと連れいていってしまう。
いや、ちがう。
遺体は、姐さんではないかもしれない!
そうだそうに違いない。
姐さんは幸せになるはずなのだから。
もしかしたらという恐怖と、それを振り払う二律背反の感情に苛まれた。
自分は俯いて、黙りこみ両手を組み、握りしめる。
対して、助手席に座る女主人は、まるで人の死様に、慣れきったようにただ、煙をふかし、外を見つめているようだった。
嫌な沈黙の時間が流れる。
だが、珍しく、この沈黙をやぶったのは、気だるそうな女主人からだった。
「いまとなっては、私たちしかしらないことだが、フルヒリはあんな子じゃなかったん
だ」
「え?」
「ここでは女たちは、病にかかり早く死ぬか、身請けされるかがほとんどだろう」
「はい」
「いれかわりがはやいここだと、昔のことを覚えているやつなんてそんなにいないってことさ、昔のフルヒリのこともね、だがこんな商売をしている自分みたいな人間だけは足を洗うなんて難しいもので、覚えている、そういう臭いが染み付いて生きちまってる、だから何度かこういうことは珍しくもなく経験しているんだ……まぁ、でも、そうさね、抜け出せないからこそ、長くいるとおぼえているものでね、フルヒリは、あんたに少しにていたよ」
「え?」
「お前のように、目が死んだ子どもだった、館にきたやつらはみんなそうだけど、なんというかね、目付きが似ているとおもった、この世の全てに対して、何にも期待していないような、あれの契約のときは良くおぼえているよ」
「あっしもおぼえておりやす確か、貴族の妾の何人かいる子供の一人でやしたよね、貴族の解体騒ぎがおきて、没落して」
「そう、だから金払いがいいから引き取ったのさ、あの子は、なににも期待せず、自己の人生にも期待せず、誰も彼もを憎んでいたような子でね、母親と父親を、包丁で殺そうとして、売られたんだよ」
「来た時も、こっちまで切つけて殺してやるっていったような目でね、暴れるから手を焼いたんですよっ、そうだそうだっ」
「でも、貴族だろうが一般の住民だろうがここでは、殺しはご法度だ、罪奴に落とされるからね」
この国では、罪を犯したものは、隷属の証をつけられる。そして、国の管理する、監獄にいれられ、罪奴とよばれる国の所有する奴隷になるのだ。一般の民も貴族も関係ない。未遂に終わった場合でも、当然収監される。情状酌量の余地や、別の容疑者が浮上する場合はまた別の場所に収監されるが。おおむね、この国では身分だけで裁かれないということは、貴族の形骸化により、減ってきていた。ただ、表向きは……。
「けれど、そうしたらあの子の出生が辿られれば不利なやつらがいた、あの子の父親さ、父親はもうそれは腸は煮え繰り返ってただろうけれど、フルヒリという不祥事を公にもしたくなかったんだろうねぇ、罪を隠そうとしてあたしたちに売った、メンツだけは高いのが貴族だからね」
罪によっては、一族郎党しらべられ、減刑されるものいがい、罪奴におとされることもある。おおよそ、刃を向けた本人や相関を調べられるだろう。血縁のある娘が自分に歯向かい刃を向けたとあっては大問題だ。だから、フルヒリ姐さんのことを、メンツから貴族は、調べられたくなかったのだろう。貴族社会では、何よりメンツは漬け込まれる材料になる。それならば、刃傷沙汰があったと報告しない方が良い。
「そこから、フルヒリ姐さんはどうしてあんなふうになったんですか?」
「さぁそこまではねぇ、あの子もあんなに高飛車で、大仰な振る舞いをするというような子じゃなかった、最初は暴れたが、ここに来てからは、静かな様子だったよ、あんたみたいにね」
「エクメアは別の意味で困ったことをしてくれましたがね」
「申し訳ありません」
「ただ、とことん綺麗な子だったから客に目をつけられるのもはやかったね、磨いた刃のような美しさをまとっていたようにおもう、それにあの子は、母親に芸事は教えられていたからか器用な子だった、だから他の子たちから目で盗んですぐに上にのしあがっていったよ、いつのまにか、ああなってた……どれがあの子の姿なのか、わかるはずもないけれどね、もしかしたら親や私たちへの憎しみをずっと鞘に納めようとしていただけかもしれないけど、いまとなってわかるはずもない、あくまで私はあの子の主人にすぎない、あんたのほうが詳しいかもしれないくらいだ」
「どうして、このような話を私に?」
「死んでいく娼婦なんて、いくらでもいる、忘れて、消えてすげ替える、あたしがそうして、使っている、だから恨まれてもしかたがない、けれどなんだろうね、あの子は、買い取ってきた中でもとびきり金になる綺麗な女だった、だから、きっと口惜しいのさ、身請けして大金がわいたから出したがね、それに……あの子はあんたが嫌いだといっていたけれど、なんだかあんたは、あの子に何かが似ている気がしたから、気まぐれかね」
「主人……、姐さんはここに、幸せなんてないといっていました」
「ふぅ、そうだね、少なくとも女を売り買いするところにあるわけがないさ、一瞬芽生えたとしても燃えつきて、朝が来る、ただ、少なくとも、ここをでても、どこにあるかなんて、あの子もしらなかっただろう、だって私だってしらないのにさ」
「……姐さんは、生きて幸せになっていると信じています」
「だといいがね」
女主人は、昔の姐さんのことを、なぜか話をしてくれた。まるで、故人を悼むかのように。情があるからというよりは、そうすることがただ淡々と儀礼であるかのように。まるで、確認する前から、女主人は、水死体が姐さんであるかのようにわかりきっているかのようで、それが薄情な気がした。けれども、そんなことをいえる気もしなかった。この人にとって姐さんは、あくまで商品なのだから。
キィイィ……。
そんな音を立てて、ゆっくりと走行車はとまった。もうすでに、騒ぎにするわけにはいかないと、安置所に運ばれているようだった。騎士が、ご苦労様ですと、居ずまいをただし、敬礼をして、扉をあけた。安置所には、たくさんの遺体を置く台があったが、幸いにも、今日はほとんど使われている様子はなかった。事故や事件などでもなければ、ここには、運ばれないのだろう。ただそれでも、少しばかり、部屋に染み付いた腐臭が残り、鼻につくようなきがした。そして、そこにポツンと、一人、布をかけられた、遺体があった。
「こちらで」
女主人は、騎士に言われるように、その遺体の前で立ち止まると、騎士がその遺体に被せられていた布をめくった。
「これだけは、あまりいい気分はしない、慣れないね」
珍しく、女主人が、そんな言葉を口にする。
「エクメア、確認しな」
女主人が、確認したなら、自分は、必要がないのではないか。フルヒリ姐さんじゃないと言ってくれたら、良いじゃないか。そんな気持ちに苛まれつつも、重い気持ちのまま、その横たわる主をみつめた。
「あ……ぁ」
少し傷みはじめていたけれど、それでも、騎士が魔法で頼み、治してくれていたのだろう。顔は綺麗なままだった。
ホクロの位置も、髪の色も、目鼻立ちも、
見慣れている。忘れるわけがない。違う、これは違うだって……。
ーー姐さんは、幸せになるって、いったのに。
肌に残るのは、姐さんが絶対嫌うだろう、生々しい無数の傷跡だった。娼婦は見た目が大事だと、いつも気を付けていた。客に見初められることが、商品として価値を生むからだと。
それがどれだけ酷なことだと理解していても。わかっていても自らの価値を保つために姐さんは綺麗でいようとし続けた。だがどうだ、いまの姿は、それに反したような、殴打、切り傷、焼けこげたような痕が残っている。見慣れたそれは、自分の肌にもあったものだ。
姐さんの肌は美しかった。見惚れるほどに。父に殴られてきた私とはちがって。だが、今は自分と同じになっている。
そうすることが姐さんの技術であったし、姐さんがそうして客のために磨いたものだ。こんなものが刻まれていいはずがない。
「姐さんだ……姐さんがどうしてっ、姐さんっ、こんなの、おかしい、なんでっ!」
「静かにしな、確認できたよ、焼却にまかせてかまわないよ」
「そんなっ、主人、まって、待ってください、姐さん、こんなところで姐さんがいるはずない、身請けされ「騎士さんがた、むこうから"金は"受け取っているんだろう?」
「それは……はい、これでつつがなく焼却し、指示した場所に埋葬するようにと、旦那さまのお家からはいわれておりますが」
「結婚したのに、嫁いだのに、なんで、そんな冷たいんだっ、なんで姐さんこんなに冷たくなってほっぽといて、旦那はどこにいるんだよ、店に迎えに来たあの男の人だっているはずだ!姐さんを一人にしてなにしてるんだ!」
「エクメア、いくよ」
「なんで、姐さんは、なんで!!死なないといけなかったんだ!!幸せになるって幸せになるっていってた、抜け出した先でどうして!」
「だまりないくよ!」
「姐さん、姐さんっ……ぁああ離せっ、離せっ、まだ私はっ!」
「すまない、この子はこういうのがはじめてでね、乱心してるんだ、騎士さんたち手伝って外に放り出してくれ」
「しかし、このような場では、悼むくらいは」
「"上"に飛ばされたくないだろう?」
「っ……お嬢さん失礼」
騎士は、暴れる自分をだきかえて、押さえつけながら、安置所から、無理やりだした。そして無情にも、扉には鍵が中から、かけられる。安置所には防音が施されているのか、中の声はもう、聞こえなくなった。扉を、叩いても叩いても開けてくれなかった。
「どうして……」
次第に、叩く力が弱まっていき、扉の前で崩れ落ちた。女主人は、中で何かやり取りをしているのか、自分だけが追いやられてしまった。虚ろな目で、部屋の向こうにいる、姐さんの遺体に手が届かず、座り込む。呆然として、無情な出来事に頭が殴られたかのような衝撃で、頭が真っ白になっていた。
しかしそんなとき、近くから話し声が聞こえた。
「昨日運ばれた遺体、またあそこの金持ちの貴族のぼんぼんの嫁さんらしいぜ、三人目かよ」
「おいじゃぁ、噂って本当ってことか?」
「じゃあまた金つませて、もみ消すのかよっ、軍閥の上層部がたも旗色がわるくなるってのに……変わったご趣味をもっていても権力者ってだけで許されるってのかい」
「違うだろ、ご趣味を隠すために、お父上があてがって、こうなったんだろ」
他の騎士たちの内容は間違いなく、姐さんの話だ。心がまぜこぜで、混乱して今にも叫びだしてしまいたかった。けれど、呆然として、姐さんのことを聞き逃すわけにはいかない。
なぜ、姐さんは、死ななければならなかったのか。自分は、知らなければならない。
バレないように聞き耳を立てていたが、途中、砂利を踏んでしまった音が当たりに響いてしまった。
「まず……おい、話きかれてるぞ」
「なんだ子供じゃないか」
そこそこ客をとれる歳に近づいていたが、昔よりはましになったといえど、痩せて小柄なのは今も変わらない。年若く見てくれたのかもしれない。こんなときばかりは好都合だった。
「それでもまずいだろ」
「お、おい嬢ちゃん、いまのはきかなかったことにしてくれないかい」
「全て……聞かせてくれたら、口をつぐみます、どうか、どうか、教えてくださいっどうして、殺されたのかっ」
「関係者か?」
「なら、まずいだろ」
こんなことをいいたくないけれど、機転を聞かせないと黙りこんでしまうだろう。
「あの女性の確認にきました……彼女にこきつかわれて、とても嫌いで、清々したって、うれしくて、だからなんで殺されたのかきかせてくださいませんか?」
「あ、うーん、それなら、あくまで噂程度だが、本気にしないでくれよ」
「おいっ」
「はいもちろんです、それに誰にもいいません」
「はぁ、俺は知らんぞ」
「いいだろ、ろくでもないやつならいいきみさ、聞かせてやろうぜ、なんでもよ、軍に強い権力をもつ、お偉いさんの貴族さまが、小さい若い子が好きで、召し抱えているんだとよ、異母の母親がとても厳しくて、それがトラウマになって、大人の女性に恐怖をおぼえるようになったらしい、そしてそのお貴族さまの息子にそんな噂が立つのも悪いし、息子さんもいい年だろ、だから、子どもも、もたないと跡継ぎがないってので、いろいろな女を妻の肩書きをもたせて娶らせ、克服させようとしたらしい、それで何人かためしたが、二人奥様候補は不審死だとさ、今度は業をにやした父親が高級娼館から、見目も才気もある女を買い取ったって、今度はどうにかなるとおもったらしいが、三人目ってわけだな」
「そうなんですか」
「まぁもともと、ぼんぼんが、若い館の子をみそめて手を出そうとしたが、それを父親にばれて、それで館が手打ちにさせるのに、身請け金をって話もきいたぞ」
「そもそも、若い子に、手を出しても、その子が大人になると、殺しちまうって話もあるくらいだし二人目の奥方はそうして召し抱えられた子どもを、歳をとるまで待たせてそのざまらしいぞ」
「そんなやつにあてがわれるなんて子供も、可哀想だ、軍閥のお偉いさんだからって、うちの娘に手をだされる想像をしたら、たまったもんじゃないぜ」
「まぁ、あくまで噂だ、話さないでくれよ」
「ありがとうございます、絶対に言いません、むしろお祝いしないと、それをきいて清々しました」
「因果応報か」
「怖いもんだなぁ」
騎士さんたちに頭を下げて、走行車のそばまでもどった。女主人がくるまでは、先に乗るわけには行かないからだ。女主人をまっているあいだ、騎士たちが先程言っていたことを整理した。
不意に姐さんが、私に手をあげた客の姿を思い出した。姐さんの客だったのに、私に手をだそうとした。もう来ないと怒鳴り散らしていたが。関係ないのだろうか。いや……。
本当に?
手紙には何か書いていないだろうか。咄嗟に握りしめてしまっていた、姐さんの手紙を開いた。意地っ張りな姐さんのことだからそんな大事なことは、書いていないかもしれないけれど。
最初の文章は当たり障りないものだった。
『あんた、愛想良く笑うのだけは、いつまでたっても、成長しなかっただろ、だから、手鏡をいれといた、それ使って練習くらいしな』
といった姐さんの説教から始まった。しかし、いまとなっては、言い回しも、もう一度、聞くことはできなくなってしまった。目尻に涙が滲んでくる。もうあの声も、自分にあきれながら教える眼差しも、もう見ることはかなわないのだ。
「ふぅっ、くっ………」
『あと、あんたは、いつも部屋に花瓶飾ってただろ、金もないからしかたないけどね、みすぼらしい草花を摘んで、寂しいもんだったから、情けなくてかったよ、これくらい飾っとくんだね』
もう帰る家はない。花瓶に生けた花を見る家族も、笑顔もないのに、ただここにきても、捨てきれなかった。ほぼ衣食住いがいは、微かな金しかもらえず、姐さんたちのおこぼれやたまに客からもらえる小遣い程度のお金が全てだった。
だから生の花を何度も買うなんてのは難しい。それで、出掛けたときに近くで咲いている野花を、摘んで生けていた。それを、姐さんは覚えていてくれたのだ。
じゃああの結晶のような美しい花は、それを覚えて最後に自分に残してくれたものだったのだとしたら……。
「姐さんが、いなくなるきがして、悲しくて、読んでなかった、もっと、もっとはやく読めばよかったっ」
『そんなわけで、あたしがあんたにたくさんのものなんて、残してやるわけがないけど、別に持っていってもかさばるだけだからね、餞別さ……あたしはこんな場所から一抜けて、幸せになるんだ、だから、羨むといい、せいぜいあんたも頑張るんだね』
姐さんは、最後の日にみせた様子とは裏腹に、気丈な手紙だった。最後まで自分には伝えてくれなかった。ずるい人だ。全部苦しみも悲しみも教えてくれなかった。こんなに自分には痛みだけを残していったのに。
父母に捨てられたあのときから、涙なんてもう流すことはないとおもっていた。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙がまだ自分に残っていたのだと思い出した。
ーー姐さん、姐さん、姐さん。一人にしないで、あなたは悲しみを、私にわけてくれなんてしなかった!
『ただ、少し、ここまで面倒をみた手前、少しだけおもうことがあるとすれば、あんたは私に抱かれる人は幸せだっていったね、こんな場所に幸せなんてあるわけがないけど……ただ、あんたが客を取る姿をみなくてよかった』
そこで、手紙は終わっていた。まだ次の言葉がないか探しても、手紙はそれ以上は続かなかった。教え子が客を取る姿なんて酷だということだろうか。だが、なぜだか違う気がした。ふと、あの夜の、姐さんのことを思い出す。
唇が触れた自らの唇をなぞる。もうあの熱はない。涙で濡れた唇が冷たく、ただ、悲しかった。
姐さんを失った気持ちは、父と母の喪失とも違う。姐さんはいっていた。こんな場所に幸せなんてないと。
でも、少なくとも、姐さんのいない時間が続くのならば、姐さんの与えてくれた、時間分のあたたかさは、もう永遠に温もりは失われてしまった。自分のなかに根付いた姐さんの形はもう、戻ることはない。
「寒い……」
あの母が自分を、おいていった時のように寒く、そして、それ以上に心が凍えていくようだった。
「ぁ……あ、あぁっああああああああっ」
握りしめた拳に、あの日全てを失ったとおもっていた心が、慟哭が心を打ち震えさせた。声も涙も、ただ枯れるまで泣いた。
ーー父母の世界が壊されてから、あなたは、私のすべてだった。
ただ、その日から当たり前に働いた。館に戻るまでの記憶はあまり覚えていない。どんな顔をしていたかはわからないけれど、酷い顔だと言われた。姐さんたちに気遣われたけど、きっと見ていられないものだったに違いない。
そうして、数日して、ただ仕事をこなし続けて、姐さんのくれた花を抱き締めて眠っては何度か朝がきた。そしてふとおもう、あの騎士たちの噂が本当なら、姐さんは殺されたのではないかと。
なら、私が……。
いや、そんなことをしてどうなるというのだろう。危うい思考に走りかけていると、女主人からまた呼ばれた。館の応接室に、よばれると、小さな包みを渡された。
「ほら」
疑問に思いながら開けると、小さな白い欠片があった。
「あの子は、嫁いだ場所に骨を埋めさせてもらえず、名前だけ形として掘られることになる、娼婦上がりだと毛嫌いされていたから、どういうあつかいになるものか、おそらくは海にまかれて、跡形も残らなくなる予定だったんだろうさ……」
つまり、これは、姐さんの遺骨だ。
「他種族なかには、親族の骨を飾りとして身につけて守ってもらうという風習がある、だから、そういって、無理を言ってバレないよう、一欠片だけだ」
小さくなった姐さんの、白い骨をそっとにぎしめる。
「別に今さら人らしいことをしてやりたいとおもったわけじゃないさ、こんな仕事で全うな死に際がくるとおもってない、ただ、なにも亡くなってまで酷な扱いをされるなんて、怨まれそうじゃないか、あの子のことだ」
そういいつつも、どこか主人の顔は、いつもと違って見えた。怖がっている人のそれではない、ただどこか無慈悲なものを悔やむような。そして、それをどうしようもなく、ただ淡々と受け入れ続けるような。そんな様子だった。
「姐さんならそうします」
「そうだろう?」
少しだけはじめて、その言葉に、久々に笑えた気がした。けれど、フルヒリ姐さんの死は、まだ、受け止めきれていない。何故あんな死にかたをしなければならなかったのか。だから、これがあまり喜ばれることじゃないとしても、悩んだ末にこうきいた。
「主人、……姐さんは、殺されたんですか?」
「"それを"聞いてどうするんだい?復讐でもするかい」
「復讐ということは、やはり関与したひとがいるんですね」
「ったく、なまじフルヒリが賢くしてしまったばかりに、さぁ、ぜんぶあたしもしらないよ、ただ普通の死にかたなら、あんな送られかたは少なくともしないだろうさ」
「あの姐さんが、私を突き放した時にきていた客と、関係していますか?」
「さぁねぇ、知らないといっているだろう?復讐なんて考えてるなら、おやめ、この館に迷惑なんてかけるんじゃないよ」
「そんな出来るような立場じゃないのくらいわかってます、でもっ、でも、姐さんは、なにも教えてくれなかった、だから」
「……身請けがきまったとき、フルヒリから、自分に何か起きたときは、お前になにもつたえないようにと、いわれたんだよ」
「姐さんが……?」
「あの子に託したのが正解だったのか間違いだったのか、フルヒリが人のことを気にかけるだなんて、空から金でも降ってくるかとおもったくらいさ、あんただけには何もいうなってね」
自分のことをそんなに嫌っていたから?
いや、そんなはずはない。
じゃなければ、あの花も手鏡も、残すはずなんてない。自分だから伝えなかった。巻き込んでくれなかった。きっと、自分を関わらせないようにするために。そう思うのは、夢を見すぎだろうか。
「勘繰れば勘繰るほど、フルヒリの望むところではないってことさ、それに、あんたをまだ死なせる気はない、もとをとってないからね」
「……はい」
「話はそれだけさ、これ以上は、口を滑らせちまいそうだからね、さっさと、行きな、怒らせるんじゃないよ」
「あの、姐さんを、持ち帰ってきてくださってありがとうございました」
「ふん、せいぜい怨まれないようにしとくれよ」
「はい、失礼します」
主人に頭を下げて、部屋に戻ったあと、姐さんの遺骨を抱き締めた。これ以上関わると、いずれにせよ、ろくなことはないと、姐さんは知っていた。だから自分を遠ざけて、何一つ置いていってはくれなかった。最後の日まで、私が追えないように。
けれど、あの騎士の話を聞く限り、姐さんが自分を関わらせないようにしたのは自分を守るためなのは確かだとおもった。
それなら、生きているうちに、ただ一度だけでもその、優しさを目の前でくれたら良かったのに。
ーー姐さん、姐さんっ。
きっとそんなときですら、利己主義な姐さんのことだ、そんな優しさは不慣れだから、これは私のためにしたことだといってごまかすに違いない。
手のひらに包まれた、白い骨は、こんなに小さくなってしまったというのに、どうして、これほどまでにあなたの存在はずっと、心に大きくあり続けるのだろう。
もう、刻まれたあなたの形だけはもどることはない。
父母に捨てられた時の喪失ともちがう。
死は、心に二度と戻らない隙間をつくることなのだと。
もう涙も怒りも悲しみもどこかにおいてきたと思っていた。けれど、あなたは、私にそんな厄介なものを、また心の中においていってしまったのだ。
もう二度と戻れない、戻らない。
劇では何度となく聞いた台詞。
けれど、あぁ、それしかいいようがない。
喪失とはもう、戻らないことなのだ。
たとえ、大切だと気がついたときにも。
ーーフルヒリ姐さんをそうして、自分は失った。
それからしばらくして、溜めていたお金で、姐さんの骨を入れる箱を買った。姐さんは、華美な装飾をまとうことも多かったけれど、なぜだか、姐さんに似合う気がして、静かで上品な簡素な箱を選んだ。
いつもは、大事にしまっているけれど、時おり、無性に、話したくなるときは、箱を撫で。なにもいわずに想いを馳せた。
物語のように、姐さんを殺した犯人に、自分は復讐することなんて出来ない。探せば探すことができたのかもしれない、姐さんたちやお客様の伝をたどって。けれども私は、ただこの館の商品にすぎない。
探してみつけたとて、自由は限られているし、そこにいくことすら適わない。日々のなかでも、簡単に出ることすら出来ないのだ。それに、フルヒリ姐さんほどではないが、この館の可愛がってくれた姐さんたちに迷惑もかけることも出来なかった。
だから、そこで、無理矢理、姐さんを殺したものへの憎しみをその時は閉じることにした。深い心の水底の、箱のなかに。そうして、現実は非情で、ただたんたんと、日々は姐さんを失って過ぎていった。
悲しいかな、姐さんの喪失によって、心の蓋が閉じられたからだろうか。どこまでも心にもない打算的な笑みを、つくることができるようになった。感情からうまれたものではなく、ただ表情の仮面を身につけたのだと思う。
父母から教えられたのは、人の顔色を伺うこと。そして、姐さんが死んで皮肉にも、得たのは心にもない作った笑顔だった。
そうして、月日がたち歳を重ね、自分が、はじめて客をとる日がきた。姐さんたちは、便利な自分を使えるままにしておきたかったのだろう。このままでいいのではないかといってくれたけれど、それでも主人はこのために自分を姐さんに仕込ませたのだから。
はじめて客に手を伸ばされた時、恐怖が一瞬よぎった。けれど、フルヒリ姐さんに教えられた通りにこなした。ただそのことを意識すると、自分がどこかに居なくなったような気がして、遠い世界を見るようにやりすごすことができた。
はじめてとる客は、年若い青白い不健康そうな男だった。どこか、おどおどとしていて、まるで自らを傷つけないような女を伺いながら、自分を選んだようだった。
「今日はよろしくお願いします」
「あ、ぁ、あぁ、よ、よろしく」
夜中、歳を重ねるたび、理解が追い付くと、生々しい声に、耳を塞いで閉じこもりたくなる時もあったけれど今ではその場所に自分がいる。
こんな場所に居ても、フルヒリ姐さんがいたことで守ってくれていてくれたのかもしれない。それでも、だんだんと感性は擦れていく。
諦めはあった。
いつかくるだろうと。
それでも、まだ僅かな希望のようなものを失わずにいたのは、そんな経験をまだ、していなかったからだ。
けれどその時がくる。だが何故だろう、姐さんの客に手をだされそうになった、あのときより、怖くない気がした。
客の男の雰囲気もあるからかとおもったがそれだけではないようだった。たぶん、もう、思慕を寄せた相手を失った今、ただなにもかも、喪失を埋めてくれる誰かに過ぎなかったのかもしれない。
普段は簡単に入れない香油の湯に通され、化粧をして、着慣れない衣装を着てきていると鏡の前の自分は、別人のようだった。
私より後に入ってきた幼い子が着付けを手伝った。
男は席に腰かけ、視線をさ迷わせながら、緊張しているようだった。会話をしながら、神経質そうで青い顔の青年の話しに相槌をうち、緊張を解きほぐす。酒を傾けるうちに、気分が高揚してきたのか、相手ものりが良くなっていった。素直な初々しい反応をしてみせると、そうすればその客は喜んだ。
青年は、純朴な少女にしか、恋ができぬような反応を見せるからそう振る舞った。
その客とはじめて、接待のような会話をした。緊張はあったが、姐さんの客とのやりとりで経験はしていたから、焦りはなかった。
酒と料理でほぐれた男の口からは、ポロポロと弱みがこぼれた。その姿が自分の歳より上だというのに、愛らしいと思った。
否、愛らしい、愛らしく思わなければいけなかった。
この感情が何かはわからないけれど、思慕をよせた人はもう愛することは叶わなくなってしまった。失った後で、ここに残された気持ちを、客に覚らせてはいけない。今は目の前の人物が全てなのだから。
酔った勢いで、不慣れな手つきで寝床に押し倒されて、そうして自分は頷く。
自らは商品としての花、あの人に寄せた叶わない感情は奥底にしまおう。目の前の自分の客に花として振る舞う。
しなだれる身体の重みに、すべてを委ねた。
熱に浮かされているのに、甘やかな言葉を吐きながら、心は冷えきり、どこまでも、演技がバレないように恐れる後ろめたい罪人のようだった。
宙空に浮かぶ小さな羽虫を眺めながら、内側に滲んだ痛みが、ただただ、自らの幸福の可能性が潰えてしまい、遠ざかったようなそんな気がした。
姉さん達が、こういっていたのをおもいだす。1晩愛し、慈しまれている間は花になったように夢をみると。そうして、まるで知らない世界のように、意識を飛ばし過ごす。
けれど、そうしている内に心の奥底で絶望が掠めるのだと。ああその通りだと、おもった。
一晩燃えて、朝には熱情が灰になるように消えるのだ。
苦痛な消えず、絶えず毎朝なにかがすり減っていく。
自分はその人から、姉さん達のいう、いやというほどの朝の絶望を知ったのだった。
そこから、その客が何度か訪れて顧客が着くようになった。
自分は長らく栄養が少なかったせいか、発育が遅いため、童顔のものを、好むような似たような客がよくきた。どこか内面が幼いような、しかし、安心して歯向かわないような人間に飢えているようなものが多かった。だからそう振る舞うのが得意だった自分には、都合が良かった。
初めての客は自分をもう何度床をともにしたのかわからない。でも悪い客ではなかった。乱暴には扱わなかったからその分は、嫌いではなかった。
他の客は、そういう手酷さをもとめるものも、いて、翌朝痛みで起きあがれないものは出来るだけ避けることを覚えた。女主人につげて、商品に傷をつける客をやんわりと、遠ざけるのが上手くなったのだとおもう。
そうして客をとることを覚えてから二つ年がまたいだ。今なら膿んだ瞳で、悲しみを宿らせた青い瞳の意味を理解できるような気がした。今朝も、客が来る前に、あのフルヒリ姐さんのくれた花を眺めていた。そのせいだろうか、まるで示し合わせたかのように、あの時の客がきた。フルヒリ姐さんが、自分を突き放した時の客だった。
童顔を好む客ばかり自分をとるのだから、同じような客は、狙わずして同じような客を引き寄せたのだろうか。それとも、今朝姐さんのことをおもっていたからだろうか。
まるで、もうこの店にこないといったことを、忘れたかのように、フラりと訪れた。その男が、酷く酔っていたこともあるのだろう。他のベテランの姐さんたちが、案内するように手配したが、客は、酔いながら品定めしたあと、自分に目をとめた。
ニタっと、不気味な厭らしい笑いをみていたのを見逃さなかった。
「こいつだ、こいつに、してやるっ」
「お客さま、ここの出入りは、お断りしているはずですが?」
珍しく金にがめつい女主人が、強気で断った。金になるならば来る客を拒まないのが女主人だというのに、やはりなにかあるのかもしれない。
「いいだろう?喪なんてとうにあけてんだ、うるさい父上も、あの女もいなくなったんだ、祝いの日じゃないかっひっく」
「おひきとりくださいっ」
「いいのか?俺が次の当主になるのなんて、確定だぞ、軍閥のお偉方にも、顔が利く、ここにきてるやつらもとめることができるんだぞ」
「っ」
「主人、大丈夫です、私に任せてください」
「いいのかい?」
なにか迷ったような表情で女主人はこちらを見た。まるで後ろめたいことがあるように。ちょうどいい、この男がきたなら、聞きたいことがあった。そちらから来てくれたならば、私は、遠慮することはない。この館の外には安易に出られないが、中では、私は客と花としてある程度の裁量は委ねられている。
「では、行きましょう」
「ひひひ、さっさと、そうすりゃあいいんらよぉ」
組みたくもない腕を組んで、自分の部屋に連れていくことにした。酒臭い、息をふきかえられながら、ニタニタとわらって、身体に触れられるが、そんなことはどうでも良かった。やっと確かめられる時が来たのだから。
「随分、お酒がまわっていらっしゃいますね、良いことがあったのですか?」
身体をよせながら、飲みやすいが度数が強いお酒を持ってきて、お客にあおらせると、客は「まぁまぁ、うまいな飲んでやる」といいながら気分良くあおった。とっくに顔は真っ赤だ、呂律もまわっていないようだった。
「はは、宗教で2年は女と関係をもってはいけないってあるだろ、口うるさく喪に服せといっていたのがやっとおわっらんらよっ、それだけじゃなく、続くように父上とあのうるさい異母が、滑落事故であの世行きだっ、俺は運が良い、なんて運が良いんだっ」
「お父様やお母上がお嫌いで?」
「なんだ、嫌いで悪いかっ、あんなの母でもなんでもない父の力に擦りよるだけの、狡猾な女だっ、あの女も、息子じゃなく跡継ぎとしての価値だけしかみてない、ひっく、父上も、好ましくおもうわけがない、酒がまずくなる、この話はするなっ」
まるで、大きな子供を相手しているようで、想像しているより、御しやすかった。
「申し訳ありません、父母に私も、捨てられたもので、憎んでいるため、似ているなと……あ、あなたさまのような高貴な方と似ているなど、失礼でした、もうお話はいたしませんので」
こういう人間は自らに、阿るものや共感を誘うとそれなりに悪い反応は見せない。
「ほう……お前も父と母が嫌いか、見た目も好ましいが、気まであうようだなぁ、悪くないっ、ひっく、ならお前も祝え、俺の天下がきたんだ!めでたい日だろう!」
「ええ、それでは祝杯をあげましょう、飛びっきり良い酒をおもちしましょうか」
「ああ、なら、酒をいれてやるっ、おれにもっれ、こい」
切れ目なく、酒を飲ませると、向こうも脱力して、ぼんやりとした目をするようになった。そろそろ、聞いても口を滑らせてくれるだろうか。
「そのような目出度い日に、立ち会えて、光栄です」
「まったくだ、そうだろう、そうだろう、もうすぐ、地位も家も俺のものになるんだ、敬う立場になるというのに、他のやつらは、陰口を叩くばかり、だというのにお前はかわいい女だな……前の婚約者と大違いだ」
「あら、あなた様のようなお方になびかないなんて、随分と、みるめがない女性だったのですね」
「あぁ、見目は、とても美しかったから、もってる俺の財としては悪くなかったが、いかんせん、俺の好みはお前のような愛らしい子だ」
「あらまぁ、うれしいですわ」
「そうだろう、あの女もそうやって素直にして喜べばよかったんだ、あの女は、口うるさくて敵わなかった、異母と同じだ、父上に頼まれたため断れないといっていたが、おれに様々指図してきた時点で、面倒のなにものでもない、俺のほうが立場が上だとわからせてやるために、躾を何度もしてやったが、聞かなくてな」
「そのような躾をうけてまで理解できないなんて、それは相手の頭が悪かったのでしょう、当然のことです」
「まったくだ、良くわかってる、そうだ、どうせ高級とはいえ、娼婦あがりの女だったんだ、大人しくしていれば、貴族の後妻になれるだけで有り難がれば良いものを、なぁそうおもうらろ?げふっ」
その言葉ですべてが確信がいった。ああ、この人が、やっぱり、この人が姐さんの、婚約の相手だ。なら、やはりこの人が。
ーーこの人が、姐さんの、幸せを、壊した人間だ。
笑顔を張り付けて、さらに口を滑らせるのを、待つ。まだ姐さんになにをしたのか、確定的な証拠がない。
「そのような栄誉を賜って、その方は何が不満なのでしょう、同じ娼婦の身である、私なら、ここを抜け出せるだけであなた様に感謝し、喜んで大人しく従いますのに」
「本当にその通りだろうそれが当たり前だ、だというのにあの女はっ、俺はなぁ、俺はっ、口うるさい女は嫌いだ、金遣いのあらい血筋だけ良い異母のようだ、ムチで俺を叩く、あの女も床くらいしかいいところがなかった、その点お前は、愛らしく、俺に逆らわない、気に入った、娼婦にも差があるらしいなぁっ」
姉さんのことを何も分かっていない。あの人の悲しみを、あの人のあり方を、私ですらすべてしっているわけではない、けれど、けれど!
ーーそれでも、それでも、こんなやつにっ!
「あら、まぁ、嬉しいですが、娼婦あがりといえば、私も賤しい身分、高貴なあなた様の奥方なんて、その女は、思い上がりも甚だしいですわね」
「あぁ、そうだあの女は思い上がっていたんだ、何事かあっても娼婦ならば、隠して使い潰せると父上がつれてきたんだが、社交場に出る教養をもってるとか、見目がいいとか、子供をもうければ、万々歳とか、父上は、俺がバカだとあの女をつけさせたんだっ」
死亡した届けの姐さんの名前は変えられていた。フルヒリではなかった。社交場にでるのが都合が悪かったのだろう。この当主の息子をどうにかするために、フルヒリ姐さんを、身請けしたことはこれで会得がいった。
「聡明なあなた様を見下すなど、お父上はなんて浅はかなのでしょう、そのような、傲慢な女をめとらせるなんて、その方はどこの娼婦だったのですか」
むしろ、父親のほうが、姐さんをみる目があったのが、このようなことになってしまったのが憎らしい。
「あぁ、ひっく、確か、そういえば、ここで、働いてたっれ、いったか?昔はフルヒリっていってたな、たしか……あんな高い見受け金払って、いるってのに、ましな女じゃなかったじゃないか、父上は馬鹿だ、おれが何度躾ても、いうことを聞かない女をよぶなんて」
高い地位の軍人の相手や、そういった場にも呼ばれて出張していた、姐さんのいうことを聞いていれば、この先社交界の駆け引きで立ち回りを困ることはなかっただろうに。こいつは姐さんの能力すら見抜けていなかった。
「でも、喪に服すということは、亡くなられたのでしょう?なら、もう、その女性に、とやかくいわれることはないですね」
そうだ、もうフルヒリ姐さんが、害されることはない。
「ああ、そうだな、まったくだ!まぁ誤算だったのは、あの女を躾てる最中に、動かなくなった時は、隠すのに手間取ったが、それを知る五月蝿い父上も、異母も、いなくなった、当主になるのが都合が良い軍閥や親戚の連中が手を貸してくれたんだ、良いだろう?俺の手足のように動いてくれる、金を握らせればな」
愚かな人だ。父母を殺めたとしても、酔って酩酊した勢いで、自分の罪をすべて、私に話しているのだから。少しばかり薬を混ぜたがこれ程効くとは。気分が乗らない客をのせための薬だが、それを混ぜんこんだだけでこうなるのだから。もとより、顕示欲が強いのかもしれない。
罪というのは、押し潰されて話したくなるか、自らがしでかした高揚の味を話さずにいられないやつがいる。大金を盗んだ、身分のあるやつを騙した。そういったようなやつは、珍しくない。
それに、害になる薬ではないが、酒に混ぜると高揚が強くなる薬だ。勢い良く飲ませたから、効きも速かったのだろう。
お陰で、このようにペラペラと話してくれた。明日には話したことすら忘れていそうな勢いだ。
あぁ、本当に憎らしいほどに、単純な人間であることに感謝したい。
「あら、あなた様が?ふふ、悪いお方、ではこれから、あなた様がのしあがって、私をたくさんかってくださいますわね?」
「ん、あぁ、そうだなぁ!!栄誉をあたえてやろう」
あぁこのときばかりは、姿の見えない神に感謝したいくらいだった。お陰で、姐さんを痛め付けたこの人が、自ら懐に飛び込んでくれたのだから。
「じゃあ、夜もふけこんできましたし、楽しいおしゃべりもほどほどに、寝台に行きましょう」
「おぉ、そうしようそうしよう、そういえば、ふふ、あの娼婦が、俺と婚約するまえ、お前みたいな子を面倒みていてな、愛らしかったから手を伸ばそうとしたら、あの女が私にしろと癇癪を起こしたんだ、その子を身請けしようとしたらその女と父上が……その女にしろって、結局ろくなことがなかった」
自分も身長も少し延びたし体格も変わっている。何より化粧をしているし、この男は数年前のことでおぼえてもいないのだろう。その相手が自分だと。
あぁ、なんてことだろう。
こんなときになってわかるなんて。
姐さんに単純に面倒で、嫌われているとおもった。たまたま役に立つやつを見つけて、気分が良くなる程度の関係だと。でも、あの浴室でのことは、ただ自分が館で育てたからではない、それ以上には気にかけてくれていたのじゃないかと欲目を見た。
けれどあれは自分の一方的な夢じゃなかったらしい。
姐さんの演技は私より上手だ。あのときも、自分の客をとったから、フルヒリ姐さんが怒ったのだと。機嫌を損ねたのだと。
ーー姐さん、笑顔一つ作れなかった、自分にそんなの、わからはずがないじゃないですか。
ただ、本当は、姐さんが、身請けされるはずではなく、自分をこの男は身請けするはずだったのだ。そうなっていたらあの遺体安置所に、横たわっていたのはもしかしたら、自分だったのかもしれない。騎士たちは三人目だといっていた。この男のしでかしてきたことを。
ーー姐さんは、私をあの時から……。
「……」
「ひっく、どうした、余計なことを考えるな、俺を楽しませろ」
「申し訳ありません、つい、あなた様のような方と朝まで過ごせることに喜びをおぼえて」
「それは、それは、愛らしいなぁ、俺が……」
ーー姐さんと過ごしたあの朝と似ても似つかない。
あのはじめての客とも違う。この感覚はなんだろう。触られると不快感が催されるのに。しかし、ただ、ただ、この男の前にいる自分が、今嬉しかった。
ーーこいつを私は、今殺せる。
相手を喜ばせるふりをしていると、よほど酒を飲んでいためか、薬が回ったのか、途中で崩れ落ちるように男は意識を失った。効きは良いが、高揚したあと、副作用で眠くなる薬だ。脱がされかけた服をもどして、寝台から立ち上がった。あんなに飲んでいれば、朝まで、起きないだろう。寝ているのを確認し、果物やツマミを切り分けるためのナイフを、手に持った。
ーーこの檻から、簡単にでられない自分のもとにこいつは、転がりこんでくれたんだ!神が本当におわすならば、私がすべて、断罪しても、仇をうってもいいとおっしゃっている!
父母に捨てられ、売られて、何もかも壊れた人生を、フルヒリ姐さんが与えてくれた。姐さんは父母よりも私を世話し、私を庇い、傷つき死んでいった。あんな利己主義な姐さんが、私になにもいわず、最後まで自分のためにいきればよかったのに、馬鹿なことをして、自分をかばって死んでいった。
ーーこんなやつのせいで……。
「くっ、あはっ?、あははっひひっあははははは!!」
悲しみなのか怒りなのか、憎しみなのか、その笑いは、狂気をはらみ、ギラついたナイフが、今この男の息の根を止めることができるのならもうなにも、これから先の人生がいらないとおもった。
「死んでよ、私のために、姐さんを奪ったあんたが」
ナイフを男の首に、強く振り下ろそうとしたとき、扉を叩く音が聞こえた。何故だろう。何故こんなときに叩くんだろう。今じゃなくてもよかったはずなのに。男は深く眠っているため、ノックごときじゃ起きることもなかった。しぶしぶ、服に、ナイフを隠した。
そこには、他の姐さんや、他の館で働くものでもなく、女主人が、たっていた。このようなところに女主人はなかなか来ないはずなのに。
女主人は、男の寝た姿をみて、さらに私をみて、顔をしかめた。そして、ため息をついたあと、こっちに腕を強く引き寄せ、部屋から自分を出し、扉を静かに閉めた。
強く自分は、引き寄せられたせいで、隠していたナイフを取りこぼし、ナイフを床に落とした。
カシャンと、音がして、さらに、女主人は顔をしかめた。
「それで何をしたかったか、察するにあまらあるがね、館のものから薬を運ばせたときいて、悪い予感がしてね、ついてきな」
女主人が顎でくいっと合図をして、ナイフを小鼠顔の男に拾わせてしまった。それをとられまいと、手を伸ばそうとした所で、革のいれものにいれられて懐に隠されてしまった。
奥歯を噛んで歯噛みをする。そのまま、応接室まで暴れても引っ張ってこられた。足が悪いぶん手の力が、この男は強いらしい。
「ここで刃傷沙汰を、起こされたら困るというのでしょう?」
「その通りだよ当たり前だ」
「あいつを殺したら私を、ここから、追い出せばいいんだ!!さっさと騎士に付き出して!!なにもなかったように、姐さんの亡骸を他人のように、みないふりをしたように!!あの男のせいで姐さんは死んだのに!!あの男のせいで!!私をかばって身請けされたのに!!どうして止めるんだ!!!!」
「そうかい聞き出したかい、あんたとフルヒリを引き合わせたのは間違いだったかもね」
口から、煙を吐き出して、まるで他人事のように、女主人はいった。
「主人が面倒を見ろと姐さんにいったんだ!」
こうして、今自分とあの人引き合わせたことを、まるで間違いだったかのように、気軽にはなすこの女が憎たらしかった。
「はぁ……あの迷惑な客が、起きたら面倒だ、泥酔してるようだから、朝まで起きないとはおもうけどね、他の手があいてるものに部屋の前で監視させな」
「わかりやした」
二人きりになると、静寂が少し訪れ、しばらくするとため息をついて、女主人が、手紙のようなものを小さい箱から取り出し、机に置いた。
「あんた宛だよ、フルヒリが、身請けするときもし自分に何かあれば、あんたが、依存先を失って変なことをしでかしそうな時はこれを渡してくれってね」
手紙の裏に書かれた名前は確かに、達筆なフルヒリ姐さんの字だった。恐る恐る、封を開けて、中から手紙を出した。去り際にもらった手紙とは違い、ずいぶんと何枚も、力を込められて書いていたのか、筆圧で触ったときに凹凸が感じられる。その凹凸をなぞると身体の奥底から、言語化できないような感情がじわじわと溢れてきた。
ーーあれで手紙は終わりじゃなかった。全部、姐さんは見越してたんだ。
はじまりの一文は、姐さんらしい一言だった。そしてそれと同じくらい姐さんらしくもない一文でもあった。
『エクメア、私はね、はじめてあったときから、あんたが嫌いだった、だって、あんたは私にそっくりだったからね。そんなあんたが、この手紙を読んでるってことは、私そっくりに、なにかしでかしたんだろうね、馬鹿な子だね』
その言葉に、姐さんの数々の悪態がよぎる。けれど、それが、でも、自分は嫌いじゃなかった。なにかしでかしたということが、主人からきいた、父母に刃を向けたことを言っているのならさしてかわらない。自分だって今もあの男を殺めてやりたいとおもっている。この手紙を読むことで決意が鈍ったら、自分はどこにいけばいいのかわからなくなってしまう。けれど、読まずにはいられなかった。
『同族嫌悪ってやつなんだろうさ、人の顔色ばかり伺ってきた目をしていた、年相応の、顔じゃなく、子供でいられなかった膿んだ目で、大人をこれっぽっちも信用してないくせに、愛ばかりほしがる、そのくせ、誰のそばで安堵なんて一つもおぼえやしないんだ、それなりに、こずるい所もあって、本当にムカつくくらい、昔のあたしに似てたよ』
昔の姐さんは、ああじゃなかったと、女主人がいっていた。自分を教えているときは、利己的で、私のことだって煩わしいって顔をしていたというのに。想像がつかなかった。
『でも、似ているってことは、憎たらしいくらいに、放っておけないってことさ、同族嫌悪で憎たらしいのに、幼い頃の自分を捨てた大人のように、お前を捨てることだけは憎くて出来なかった、
お前を見れば苛立つから離したいのに、お前を放置したくそみたいな親たちのようになるのもいやだった、
だからお前にあんな態度をとった、もちろんあれは私の素だし、手加減なんてしてやらなかったけどね、まぁ他の子を教えてもあたしのもとでは長続きしなかっただろうけどね、
そもそも、あんたには特別厳しくして罵られてもあんたは恨まずついてきたけど、そこだけはあたしと違ったね、あたしはそもそも、怒られないようにする器用さはあったから』
それは言いすぎだ。姐さんの事細かな、指導で値を上げないやつがいたら、見てみたい。確かに姐さんだって、器用だっただろうけど、今の姐さんが昔の姐さんに指導したら、怒られたはずだと少し心の中でごちる。
『だから根を上げるのをまってたのに、次にああしてやろうこうしてやろうなんて、いって考えてたら、だんだんいびるネタすらなくなってきて、しだいに、あんたを否定できる所も減っていくものだから、とうとう、本当は困り果てたんだよ、最初はムカついて見るのもいやだったお前が、こなすものだから、まぁそのうち離れていけばめっけもんだとおもってたのに、つくづくあんたは依存して離れないんだから』
確かにフルヒリ姐さんの指導は厳しかったし、ろくな扱いではなかったとおもう。それも、やはり狙っていたらしい。しかし、途中から、いびるネタがなくなったというのは意外な話だった。
『そのうち、ここで過ごして、日々を生きて、客を相手していくうちに、今の自分の姿とお前を比べるようになって、まいったよ、あぁ、こうして壊れて崩れていった時間をまだギリギリ失わずにいるお前を、羨ましく妬ましくおもうくらいにはね、そのたびに自分が、惨めになったさ、それと同時に、この館でしか力のない自分でも、あのときの自分を守れなかったかわりに、お前を守れば、ずっとみないふりをしていた己の空虚さが、和らぐんじゃないかって、代替行為さ、馬鹿なことを考えちまった、魔が差したんだろうね』
魔が差したといっているくせに、自分が大好きで、利己主義な姐さんからこんな言葉を聞く日がくるなんておもわなかった。きっと、それも、身を守るために、そういきることを選んできた姐さんの術だったのだと何となく今ならわかる。けれど、姐さんは、自分に己を重ねてしまった。
『あたしは、妾の子供で、使用人より酷い扱いをされて育った、酷いときは忘れられて真冬に納屋にいれられて凍え死にそうになったときがある。
けれど、いつか親が助けてくれるんじゃないかって、ずっとまってたさ、けれど、誰も来なかった。
そのうち、使用人が哀れにおもって時おりあたしに食事や衣服を恵んでくれたけど、その人が解雇され、飢えるようになった。
生きるためにはしかたなかったから、父と母の様子をみて、風聞を流した。妾の子がいると、貴族はメンツを大事にする、すぐに自分をどうにかしようと躍起になった。
そこで育ての母親から、憎々しい目でみられながら手習いの楽器やいくつかの言葉を習った、けれど愛されたことはなかったし、酷い言葉も手も上げられた。
私がだんだん邪魔になってくると、口べらしに自分を消す算段をしているのを聞くようになった、私は、歯向かう方法として、恐れから、両親にナイフをむけた。
自らを謗る親たちをうらんだ、生んだ全てを憎んだ。
この世を呪った家族で過ごす穏やかな姿を町でみても、それとはかけはなれ、なぜ自分がこんな苦痛を味わうのか、全てが憎かった。
憎くて憎くてその元凶を壊してやろうと思った、そしてナイフを向けた。
けど、そのときただ、私に食事と衣服を渡して解雇されたあの人の姿がよぎった。こんなことして喜ぶような人じゃなかったから、だから殺せなかったんだろうね。
見知らぬ誰かに殺すのなんていけないと、諭されていたら、微塵もききやしなかっただろうけど。
けれど、憎しみと悲しみと怒りは消化できなかった、そして売られて、この館にきても同じだった。憎しみと理不尽への悲しみは消えず、燻り続けきっと書いている今も心の底に居座っているのかもしれない。この館にいる全ての人間はただ自らを商品として売るだけの他人だったからそれを満たし合えるものはいなかった、けれど、そのぶんそこに触れられず助かったのかもしれない。
ただ、この商売ではそれが助かった、きっとどこかで飢えていたんだらう、身請けされない限り、病んで死んでいく自分が、誰かを、大切に思うことなんて永遠にないまま死ぬんだと。
愛も、幸せも、あの劇をみた時のように無味乾燥に消え失せるままいつか死ぬとね。
だけど、親鳥についてくる小鳥のように、あんたはどれだけ貶されても、突き放しても戻ってきた、だから、どんどん否定しても、あんたを無視できなくなった。
このままあんたが、客をとるところを、みていたらあたしは、きっと、気が狂っていたかもしれない。
この手紙を書いているときには嫁いでいるから見ずにすんで良かったよ。
魔女は子供をもてないっていうだろう、昔は男に抱かれようとも、なんの心配もしなくていいなんて魔女をうらやましいと思ったよ、だけど、それが今なら空しいことだとわかる。
いままでは、最後まで己のために死んでやろうっておもって全てを蹴落としてきた。刹那的に贅沢をして、だけど、まさか自分がこんな馬鹿なことをしでかすなんてね。
昔の自分なら考えないだろうね。
さて、これをあんたが、きっと読んでるってことは、あたしはもういないってことだろう、なぁ、エクメア、こんな掃き溜めに幸福なんてないよ。
それはきっとかわらない。
でも、でもだ、たった一つの温もりをもたずに死ぬ人間と、もって行った人間なら、きっと後者の方がましな死に方だって、思いたいんだ。
あたしたちは、病にかかっていつかは死ぬさ、それを考えても今までは怖くなかった。失うものも失いつくしてここにきて。
もっていったってどうしようもないものばっかりだったから。
けれどいまは違う。
あんたは人に縁をみいだして、寄る辺を求めないと生きられない子だろう、だから今は少しあんたを置いていくのが心残りだ。
でも、でもね、あたしを、あんたを捨てた大人のようにだけはなりたくなかった。
いい人ぶるはつもりはない、実際に最低の女だあたしは。
でもあたしが、心奥から自分のために、そんな大人にそうなりたくなかったんだ。
娼婦風情が、落ちぶれた末路だと笑われながらも、意地っ張りに、貴族様に反抗したん。
きっとそうだ、今さら気がついた。
だからさ、あんたが、もしあの男にあたしが殺されても、あんたが、負い目を負うことじゃない。
復讐だってしなくていい。
あんた庇ったわけじゃない、だからあの男を殺さなくても仇を打とうとしなくていい、あたしが他の女も殺したあの男を、引き連れていくんだからね。
あんたは、娼婦の私を見ているのに、あたしに抱かれる人は幸せだといってくれたね、エクメア、私からすれば、どれだけ身体を交えても、朝を迎えても悲しみと虚しさが残っていたよ。
なのにね、その言葉だけが、何故か狂おしいほどに心に残っているんだ、そして、どんな人よりも、ただお前と一度重ねた唇のほうが、悲しいほどに温もりがあった。
私のクソみたいな人生で一番ましなものを、くれたから、だから、そのまま、その温もりを覚えたまま、あたしは、逝くよ。
すぼらしい娼婦の亡骸だと燃やされるかもしれない。
けれど、あんたには心を少しだけ置いていく、あんたはきっとこれから逝くまで、たくさんの不条理にあうかもしれない。
ろくな人生じゃないのかもしれない。
けれど、私にただ一つだけもってきたいものを、あたえてくれたものが、憎々しいあんただったことだけは、光栄におもいな』
その手紙の中身が、ただ、この世で一番人生で尊く、何者にも、穢されないこの人の心なのだと強く抱き締めた。
ーー最後まで、自分のせいにはしてくれなかった。最後まで少しだけ偉そうだった。最後まで、私にこの人は、残酷だった。
こんなにも、ただの世話係より、深く、自分を見つめていたことを打ち明けず、ただ、置いて逝くんなんて。あまりに、酷い。
「ぁぁっ……ぁっあっっ」
声にならない嗚咽がこみあげ、涙が、流れ落ちた。泣いてもないても混み上がる感情は、つきてくれず、喉が熱くなり、突き刺すような痛みと共に、心が締め付けられた。
ーー姐さんは、私に仇も打たせたくれないっ。
「……っ、ぅっくっ、フルヒリ、姐さん」
「文面は見てないよ、それでもフルヒリがどう望んだかは、察するさ、それでも、あんたがあの男を殺すなら、あたしたちもそれ相応に対処しなければならない」
「……最後まで、あの男すら、姐さんは殺させてさえくれなかった……こんなの、見せられて、殺したら、姐さんに、私は、恨まれてしまう」
「そうかい、なら、あの男はこっちでどうにかするよ、頭がいたいがね、もう少しお偉いさんにかけあってみるさ、まぁ……先程のことだけはみないふりをしてやる、そんな顔で客の前にでられると迷惑だ、外にでてきな」
客を殺そうとしたことには目をつむる。本当はそんなことは許されない。けれど、ここはそれが見過ごされても、透明化する場所だ。貴族の罪が、姐さんを殺したら罪が消し去られたように。
自分は静かに頷き、頭を下げると、頭を冷やすように、その日ばかりは館から遠ざけられた。
もどってくる前に、客は癇癪を起こしたらしいが、泥酔した、客の方に落ち度ある。それに、さすが二日酔いもあったのか、仕方なさそうに、舌打ちをして酒代だけ叩きつけて、出ていったようだ。顔を会わせたら、きっと、また怒りがこみ上げて耐えることができるかわからなくなる。だからこれでよかった。
またあの男は忘れた頃に、来るだろうか。けれど、少しだけ疑問におもう。フルヒリ姐さんは亡くなった。ただ、やられるような人じゃないと私は思う。なら、女主人が手をださなくても、もしかしたら、何か仕込んでいたのではないのだろうか。
自分がつれていくといった、姐さんの言葉が少しだけ気になった。
あれから、数ヶ月、自分は相変わらず娼婦であることには変わらない。ろくな人生ではないことは確かだ。客を相手して、そうやって、日々気だるげに毎日が過ぎていく。ただ、あれからあの姐さんをいたぶった婚約者は来なくなった。またきたら、あの男をつぎこそ、どうにかしてしまいたくなるから、それだけは助かった。フルヒリ姐さんの望みを裏切るわけにはいかない。だからあの男が来ないことに少し安堵していた。
そうしていたら、訃報が入った。
女主人から聞かされた。
私は、あんなことがあったから私ではないかと、一応確認された。館から出られていないので、もちろんそんなことはできなかった。
どうやらあの男が死んだらしい。
これは、明らかに作為的なものを感じ、故意であることは確かだった。女主人も口にはださなかったが、察している顔をした。
全容はすべて把握したわけではないけれど、権力で叩き潰そうとしたものは、逆に巻かれたということなのだろう。あの男を良くおもっていないものはたくさんいたということだ。
あの男の、一人目の婚約者である、貴族の娘は、殺されたのではないかと、両親が探っていたらしい。それゆえに、対立する軍閥の家系のものや、二人目の婚約者の養い子の両親をそそのかし、あの男を自然死にみせて、殺したのだ。
後から聞かされた情報から推察にするにそのように当たりをつけている。
おそらくは、フルヒリ姐さんも、そのかつての客だった軍閥のお偉いさんや、その家族に、手を回していたのだとおもう。
だから、いつかはこうなることをしっていたのかもしれない。フルヒリ姐さんはそういったことにたけた人だったから。
その訃報をきき、あぁ、最後まで、姐さんに、自分は守られたのだということをしったのだった。
もう会えないあの人が、ただただそのときは恋しかった。
それから代わり映えがなく、歳を重ねて、客の扱いになれたころには、ここにきてからいくつか、年がめぐった。身請けのはなしもあがっては二度ほど消えた。終わりがなく、客を取り、最初に自分をとった客も、自分が肉付きが良く女性らしくなると共に遠退き、見知った顔もいなくなった。私を可愛がってくれていた姐さんたちの一人は身請けされ、一人は客との口論から手を上げられ亡くなり、一人は病でなくなった。
慣れることはなかったけれど、フルヒリ姐さんの死があったから、覚悟ができていたのかもしれない。
病の姐さんの面倒を見たとき、こうやって死んでいくのだろうとおもった。けれど、この人を一人で寂しく死なせてやりたくなくて、手を握った。わたしが、フルヒリ姐さんから温もりをもらったように。手を握ると、その姐さんは嬉しそうに笑って、抱かれている時よりあったかいよ、といった。そうして、静かに息を引き取った。
そうして、そんなことを月日のなかで、立ち会いながら、娼婦としてすごして、この館にいる自分は、いつのまにかそれなりに古株になっていた。
姐さんの温もりを頼りに、薄暗い道を寄る辺なく進むように生きていた。
いつか、姐さんは迎えにきてくれるだろうか。
もうあの時唇を重ねてくれたときみたいな自分では、いられなくなってしまったけれど。
そんなことを、窓越しにぼんやりと考えた。
その日は、珍しく休みだった。寒くなってきて客足が遠退いている。雪が積もれば、当然、店へと足を延ばすものへるのだ。けれど、商売があがったりになる反面、身体を酷使せず、娼婦にとっては休める安らぎの日でもあった。
契約書があるかぎり、魔言で縛られ、逃亡なんて、出来ない。必ず戻るように決められている。だから安心して、申請をすれば、館のものは送り出す。つかの間の休みでも、その寒さがありがたかった。あの館の、香りのなかにいるよりなら。
そうして着こんで外にでて、めっきり冷え込んできたから暖かい肩掛けでも見てこようとした日のことだった。
市場で、見知った人間の姿をみた。
かなり痩せていて、前より見る影もなかったが、確かに父だった。声をかける気は毛頭なかった。しかし、そもそも、父は成長した私ではなく、別の意味で、私に気付き注視したようだった。
「その手、娼婦だろう?」
どこか微かにましな言葉がかえってくることを期待していた。けれど、その顔はもっとも見たくなかった下卑た顔をしていた。
雪で濡れて、たまたま手袋を外していた所をみられてしまったのが良くなかった。
確かに自分も、成長した雰囲気も変わっただろう、しかし、もう、実の娘の姿すらわかられなかったことに、乾き、くたびれた笑いが漏れた。
これ以上関わらないこともできた、ただ、自分の娘すらわからないこの父親に仕返しをしてやりたくなったのかもしれない。
「お客様としてならうちの館におこしください、いまは買い出しにきているので」
自分のことすら覚えていない父だ、他の娼婦でも、良かったはずなのに、なぜばったりとあった私に目を向けたのだろう。
「ああわかった、前々から時々ここで見てたんだ、どこの娼婦かわからないから声をかけたんだ」
私を知ったのはこれがはじめてじゃないらしい。それでも思い出さない父親が憎たらしくもあった。
「うちの館はそれなりに高いお値段を要求する店です、お客様、失礼ですが、その、懐は」
それをいうと、かっとなったのか、赤らめて「バカにするな」といまにも口にだしそうになったのを抑えたのがみえた。その姿が、幼い頃父が酒を飲んだときのようで、不意に少しだけ身体が硬直した。
「か、金なら工面する」
「外での勧誘はうちの店はあまり許されておりませんので」
のらりくらりとかわして、他のすれ違う人に紛れて、捕まれた腕をほどいて走り去った。一瞬わたしの人生をこうした父に仕返しをしてやりたくなった。けれども、考えてみれば、こんな人生を歩んでいる自分の姿を父に
みせて、どうするのだろうか。そう思い直して、自らを売りはらった父から離れた。裏路地で、巻いたらおってこなくなった。
ーー当分ここには近づかないようにしよう。
そうしているうちに自分のことなど、忘れるだろう。
しかし、そんな甘い考えなど裏切られることが起きた。
数日後、父は、館に来てしまった。
どうにか自分を探して館に、訪れたらしい。私の父のことを知っている女主人も、女主人の遣いの男もその日は出掛けていた。そういう店の会合のようなものらしい。故、他の店のものが通してしまったのだという。
諦めが悪くここを探しだした父が憎たらしかった。売った娘のこともわからず、今さらなんだというのだ。
「あの、お客様が、きていて」
「あんた顔色が悪いけど大丈夫かい?」
他の姐さんたちに声をかけられたけれど、大丈夫だとそのときはいうしかなかった。
「良くおみつけになられましたね」
「なにか粗相をしたのか、逃げられてしまったからね」
それは、娘なのだから当然だろう。
「ではお部屋にご案内します」
館で働くものに、女主人が帰ってきたら、私を売った人間がきたことを言付けてほしいといって、部屋に案内した。
二人きりになったら、ばらすつもりだ。しかし、なんといってやろうか、部屋に通して、苛立ちで奥歯を噛み締めながら、接待をする。
こんなところに来るような余裕なんてなかったはずだ。ここは、下級の娼館とちがってそれなりの値段なのだ。ならば、借金は返しおわったのだろうか。視線をバレないようにむけて、今の父の様子を探った。いやまだ途中なのだろう、服装や衛生状態、身なりは良いものでは無いようにみえた。
部屋に入ると、すぐに娘だと口にしようとしたが、父は態度を変えてギラギラとした目で自分を寝台に押し倒した。あの時の父よりも、もっと、危ういような、死と隣り合わせで、やけになったような。こんな場所では何度かみたことがある。娼婦にいれこみ、金が払えなくなった客がこんな目をしていた。父は明らかにあのときよりもう、だいぶ、壊れていたのだろう。
ーーまずい。
本能的にそうおもった。いまから生命が脅かされるかもしれないと。だが、動けなかった。幼かった自分が心のどこかで、残り続けていたためなのかもしれない。硬直し、ただただ、恐怖で言葉がでなくなった。
そして、零したのは、逃げた母親の幸せそうな話と、自分の怒りだった。
「おと「あぁ、ようやくだ、ははははっ、前々から、通る度に見てたんだ、お前は、アイツに似てるってなぁ、あのアバズレ、いまごろ、ほかの男と家庭を築いて寝てるんだろうな……俺をおいて、ましな生活して……はぁ、むしゃくしゃする」
怒りと喜びとの間をいったりきたりして、不安定な様子に、狂気を感じ悪寒が走った。
父は、私がわからずとも、私に母の面影をみてここまできたらしい。それはもう恐ろしいほどの執念で母を探し歩いたに違いない。
けれど見つからなかった。
だから代替にされたのだろう。
父のギラギラと光り輝いた瞳が、手負いの獣のようで、いますぐこちらの首をかみちぎろうと狙っているかのようだ。
「や、やめってぅっお、、さ」
足掻こうとするが、細腕でも男性に押さえつけられれば逃れられない。
「ぅっ」
母に似た私で、家をでていった母への怒りが想起されたのか、父の瞳には母への怒りと、憎悪と、己への憤りがぐらぐらと煮えたぎっていた。逃れようともう一度足掻いたが、それをみて、父は拳を奮った。
「っ、ぁ!」
1回の殴打で、鼻血がでて、唇が切れる。
「逃げようとするなよぉー!また俺から、にげるのか、あんたまで、こんなはずじゃないのに、なのになんでうまくいかねぇっ、なぁっ!」
「っぅ……ぉ、さ」
「あいつは逃げて、幸せになりやがった、娘を売ってまで俺は借金まみれだ、あいつの顔に似てたから耐えられなくて売ったんだ!」
「っ……!」
2回、3回と殴られたあと、蹴られた。正式な客としてまだ、扱っておらず、立ち代りとはいえ、品である私たちに、あまりに酷い客は、流石に、うちの店でも連れ出されることがある。
音を聞けば助けてくれるはずだ。そう思っていた。
しかし苦痛から、声はあげられない、何度か殴られていると、意識が朦朧としてくる。
顔や身体をかばいながらか細い声で、父に声をかける。もうこの人は、もう、いまじゃ父とよぶのも、間違いなのかもしれない。この場所に、あなたが売った以上ここしか、私の場所はなくなったのだから。
「お客、様……どう、か、おやめ、ぅぐっ」
「そうだ、俺は、客だった、俺が客だ、おれが客なんだよ、そうだ、だからおまえがたえるべきだ、なんで?客、俺は?ああああああああああ!」
頭を掻きむしっている姿は、錯乱し、手に負えない。
ぼんやりとした意識のなかで一つ、そうだ、わかったことがある。私を殴って、この人に何らかの罪がかされようとも、この父だった男は、困らないのだ。
もう、この人はどうなろうが、もう未来を考えている目をしていなかった。
ただ今を全て呪いつくし、自分を殴っている。
生きることに、なんの希望も抱いていない。
この人には私と同じようにもう、先をみていないのだ。
はぁ、自分を売った男の不幸を見せられているのに、何故これほどまで苦々しく、痛み、哀れに思うのだろう。
幸福になっていても苛立つ。不幸になっていても苛立つ。不満だけが出ると思っていた。合ったら、こちらが自分を売った男に、怒りをぶつけてもいいとも思っていた。
このか細い弱い男は、どこまでも、それなのにただただ、哀しかった。
「あの女だ、あの女がいる、娘が、そんな目でみるな、そんな目でみるな!!」
殴られた反動でベッドから転がりおちた。
「なんで俺だけが不幸なんだ、こうなるはずじゃなかった、頭をさげるたびに見下してくるんだ、どいつもこいつも!お前もだ!」
「やめ、て、っげほっ、げほっ……やめて、がはっ」
蹴られた腹部を抑え、踞る。吐き出した胃液に血が混じっていた。庇った腕は、たぶん骨が折れている。昔もかなり殴られた時は痛んだ。けれどもうこの力は箍がはずれて、抑えなどしていない。
この男は私を道ずれにするつもりだ。
もう次蹴られたら、身体はこれ以上は耐えられないと理解した。だが、その瞬間理解しようとも、どうなるものでもない。だから、そのときは、奇跡など起こることもなくあっけなく訪れた。
バキと、ごぽ、という音が、どこからか、きこえたきがした。
蹴られた瞬間ベッドの足に頭がぶつかったのだとわかった。その瞬間頭が揺さぶられ、吐き気を催し、目が回った瞬間に強烈な痛みを覚えて、意識がとぎれていく。天井が回転して、視界が暗転していった。そして、男があばれまわると、部屋中のものを、投げ、そして、消え行く意識の中で、ガシャンと音がしたのがわかった。
壊れものはほとんどこの部屋には置いていない。唯一姐さんの、花瓶とそこにいけられた、結晶の花だけがあった。ならきっと壊されたのは、それだろう。
姐さんが私にくれた大切なものだった。
姐さんが、私にくれた、温もりの欠片だった。
この父だった人が壊した。家族からもらえなかったものをあの人がくれたのに。一欠片のあの人の不器用な温もりを、最後までこの人は奪っていく。最低の野郎だ。でも、愚かなほど、弱々しいその姿が責められないなんて。なんてこんなときまで自分は愚かなのだろう。
「おい、なんだよ、だまるなよ、おい」
あぁ、視界がほとんど、欠けて見えない。鼻からみたこともない液体が流れている。血でもないすこし透明で黄色い。
どうなってるのだろう。
わからない。
それに、床に赤いものが広がっている。手に触れた液体の感触は、生々しい。ねばりつくような赤だ。
ーーあぁ、私死ぬのか。
いつかは、病で衰えて、死ぬと思っていた。それが寂しくもあった。でも、こんなに死は、想像よりあっけなく訪れてしまいそうだ。
ーーフルヒリ姐さん、もう少し、姐さんの歳までは生きるつもりだったのにごめんなさい。
「父、ゃの、くせ、して、……さい、ご、くらい、わかれ、よ……姐さ、私、ばか、だ、こん、やつ……姐さ、ごめ、わたし」
忘れていた、もう過去のものだとおもっていたのに。まだ、こんなバカな父が、こんなにも深く、強く、存在としてこびりついていたなんて。
どうして、自分の人生は、こんなにも愚かで、どうしてこんな人にまだ微かに何かを求めていたのか。父だとよべば、自分をわかるとおもっていたのか。
ーー人の身にある感情は、どうしてこんなにも、何年もこびりついて、心をエグり、死ぬむで地獄のように身体を焼くのだろうか。
「姐、さん、くれた、花、壊れちゃった、ばかみたい、じんせ、で、ぜんぜん、ろくに、おわれなかった、姐さん、ごめん、姐さん……姐さん、ごめ……」
傷んだ心は、槍で刺されたように私を蝕んだ。
最期までこれなのか?と声をもらす。
大切な一輪の花でさえ守れない。
他の人間が騒ぎを聞きつけて、ようやく部屋に入ってくるのを、歪む視界のなかで見つめながら私は死んだ。
そして一度意識が途切れた。
次に目が覚めたとき、私は炎を産湯に、生まれ変わっていた。
「くふ、ひ、ひ、ぁははははっ!!」
声にならない笑い声だった。まるで、世界に悲しみと絶望を振り撒くように、笑っていた。
それが自分の笑い声だったと気がつくまでまるで世界は他人事のように、ただ、遠くて、世界の観客のようだった。
この世に子供が泣いてうまれてくるならば、炎のなかで笑ってうまれ落ちた自分は何なのだろう。
魔女、その単語が頭をよぎった。
誰かが言っていた。
世界に魔女は二度生まれる、と。
「?」
目が覚めた時、娼館は火の海になり、私はその中心で佇んでいた。その側で逃げ遅れた父が、行きも絶え絶えに、死にかけている。父だった人の身体はあちこち酷い熱傷に苛まれていた。虚ろな目で、そんな父を見下ろす。今にも死にそうな重傷者だ、だがそいつはそんなことも、忘れて、まるで、恋をするような目でこちらを、見てきた。うっとりと、全てを終わらせてくれる救世主でも、見るような眼差しで。
ーーああ、姐さん、私はこんな人に怯えて、に依存していたのでしょうか?
親としての無償の愛への期待か?
いや、そんなもの、かすれきって、とうの昔に形を忘れていたとおもったのに。
愛を忘れるほどに、無慈悲に売られた。だというのに、どうして、こんなにも、この人をみると哀しいのだろう。
ーーこんなものが、子供のときすがりたかったものだったのだろうか?
遠くに握りしめて奥底に幼い私がみていたものは、こんなに惨めなものだったのだろうか。口は笑っていたのに、瞳からは涙が溢れ落ちていた。
溢れ落ちる涙が炎に落ちて、蒸発する。なにが起こっているのかわからなかった。けれど確かなことは、この炎は私から発生し、そして、父はその炎を求めているということだけだった。
ただただ涙だけが炎に散った。
生きて苦しめと言えれば良かった。
けれど、目の前の父だった男には、もう炎がうつり、焼けただれていく。青と赤の色の炎に包まれたこの人は、簡単には助からないことも理解できた。
こんな理不尽があるのだろうか。
苦しんで生きていてくれと呪うこともできず、娘に死に場所と救いをもとめる様をみせつけられるなんて。
あまりにも、悲劇は、喜劇のように、あっけないものなのだろうか。
世界とはこんなに、あっさりと、何もかもを奪い、変えていくのか。
悲しみと怒りとどうしようもない現実への笑いがまぜこぜになり、そして振り切った感情のはてに、うつむきこう思った。
姐さんがあの男をつれていったように、私も父をつれていこう。
あの人は、私の炎に焼かれようと手を伸ばしてきた。
憎々しかった。
一人だけ、諦めようとするその姿が。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!
勝手に私の炎の中に、幸福の幻覚をみてくる父が憎かった。
この陽炎の中には、そんなものなどなに一つないというのに。
「ああぁあああっ、ああああ」
その時の感情を言葉には出来ない。
ただ、泣きながら強くその人を抱き締めた。そうすると、父の身体を炎がすべて覆った。
心の虚に涙がながれていくようだった。
自らの身体の表皮よりも、喉の奥があつく、焼けただれるように痛かった。身体から燃え移り、強くなった炎が、父を焼いた。
炭化しはじめた、父の身体を強く抱いた。
そして、その中で微笑んだ父の姿が見えた。
ーーこの人は最後までっ、私のことを考えてなんてくれなかった。
奥歯を強く、噛んだ。
すべてが燃え尽き残った、父の灰の中で、花結晶の欠片が光った。掬い上げた灰の中に、花の花弁だけが、幸い綺麗に残っていたらしい。
花弁を掬い上げると、自らの手に纏っていた炎で、溶けてしまった。
もう姉さんのくれた大事なものすら失ったのかと思った。
けれど自分の周りを覆っていた炎は、花弁の形となり、私の周囲を火の華がまった。
父の灰は、燃え上がる炎が、舞い上げた風に、流れて消えていった。
もう、花瓶は、二度と戻らない。
収まる花瓶も花ももうどこにもない。
私だけが残される。
私だけがっ。
ーー死すら私を見放したのでしょうか。フルヒリ姐さんのところにすら私は逝くことをゆるされないっ。
いつか姐さんがいっていた、神様でもなんでも、金をくれるってなら、それでいいといっていた。
けれど、死すらも、私を見放した今、これほどの人生の苦痛を、神はあたえているのだろうか。こんなに残酷な世界で救ってくれないのならば、神はどこにおわすのだろうか。神の御前に、私は立つことすら許されないのか。
魔女は罪の象徴、信仰心に厚いだれかがいっていた。
そうならば、罪を犯すものをこの世に生んだものこそが、罪なのではないのだろうか。
「ぁああああああああっ」
激情が身体を駆け巡る。
そして感情と共に弾けるように、全てが炎に包まれた。
魔女として、はじめて、焼いたものは、父だった。
後編執筆のためすこしだけお時間をいただきます。




