4.5、ある魔女の断章➁※
【ある魔女の記憶-火種2-※】
私の家は、それなりに一般の家庭よりは、裕福だったように思う。銀食器のローバリースといえば、その道では有名で、昔一財築いたほどの家だったらしい。ローバリースは、代々、銀食器や銀の法術器を扱う家で、私の父はその家の長子として、会社を受け継いだ人物だった。ローバリースの銀製品は、大衆向けより、貴族や一部の裕福な層との取引を中心としていた。もとは、貴金属の製錬にたけた一族のものが、権力者に融通し、富を築き起こした家柄であったのだという。
悪徳商人というほどではないけれど、貴族を相手に売るのだから、それなりには羽振りが良かったのだろう。
もちろん、そうはいっても、時代の流れと共に銀食器の流れは変わりつつあり、有力な貴族も少しずつ廃れ始めていた頃だった。父の代には、最初に成功した家のものほどには、潤ってはいなかったとおもう。
しかし、食べるものに困らないこと、医療に困らないこと、そういった意味では、裕福といっていいのかもしれなかった。
生活できるほどの富、父も母もそれを望んでいたし、幼い私も、それで十分だった。
誕生日にくれる贈り物、死が狙ってこないように冬だまりの日に飾るトゲのついた飾りを家族でつくること、暖炉の前で飲む蜜入りの甘いお茶、そして綺麗な花瓶のお花、全部全部大事でそんな日々があれば、たくさんは望まなかった。
それだけで幸せだったのだとおもう。
けれどそれがどれだけ贅沢なもので、家族のある子どもが与えられる幸福が当たり前ではないものだったのか、戻らない花瓶を知ってから、私は理解したのだった。
家族とは贅沢だと。
私の父は、タレ目で、いつも疲れているように見えるそんな瞳が、印象的な人だった。気の良い仲間にはそんな顔をみて、からかわれていたのをきいたことがある。悪くいえば覇気がない、よくいえば柔和で優しい、そんな父だった。一つの組織をまとめるものとしての威厳はなさそうだなんていう人もいたが、それでも、娘としてはそんな優しい父が好きだったように思う。
母は、そんな父の苦労を知ってか、できるだけ、いろいろと悩みがあるときも溜め込むタイプだったと思う。しかしながら、あまり心を乱すこともなく、穏やかでいつも、静かに微笑んでいる、私が悪いことをすると怒ると少し怖い、でも喧嘩をしたりすると最後に抱き締めてくれる存在だった。そんな母の焼き菓子の|マルロートの焼きづつみ《リンゴパイのようにマルロートという黄色い果物を包んだお菓子》が大好きだった。本をいつも寝る前に呼んでくれるのが大好きで何度も読み返すのをねだった。その度に困ったようにあと一回だけねといってくれるのだ。庭に咲く、素朴な美しい花のような人だった。
父は仕事で、忙しく家になかなかいなかったせいで家のことは多くが母がこなしていた。その頃の私は、お転婆で、いつも、母に心配をかけていたようにおもう。
それでも、二人が揃っている日は何より好きだった。
ある日父が早く返ってきた日があった。
「ただいま、エクメア、ほら、綺麗なお花だよ、お得意さんからもらってね」
父のたれた目がへにゃりと笑って、胸いっぱいに抱えた花を私に渡してくれたのを覚えている。ずいぶんその日は早く帰ってきてくれて、私は浮き足だって、父の身体に抱きついて頬擦りをした。父も花束ごと私を抱き締めてくれた。
「あ、お花がつぶれちゃうわよ」
そんな様子を微笑ましい様子で母は見ながら、ハッとしたように気がついてそういった。
「わぁっ!? そうだった、ありがとうお父さんっ、大きな花瓶あったかな」
幼い私は、花をテーブルにおいて花瓶を探し始めた。台所の上の棚にしまってあるはずだと、椅子にのって、中を見回してみる。
「エクメア、私がだしてあげるわっ、椅子に登らないのっ危ないわっ」
母が私を心配する声がして、慌てふためいているのがわかった。でも、母が心配してくれていることが、子どもというのはそれなりに嬉しいもので、心配させるとわかっていてもやってしまっていたのだと思う。
それに何より、人生の失敗が大きなことに繋がるなんて思わない年頃だったのだと思う。自分は出来る、いや、そもそも出来ないことを考えられない向こう見ずさがあった。それに、褒めてもらいたいというありふれた欲で行動できたのだと思う。
幼さが武器になることもあるのだろう。
昔の自分を羨ましくも思った。
「大丈夫、大丈夫だからっ……わぁっ!?」
それでも、大きな花瓶を支えきれず、案の定私は、椅子から転げ落ちた。母は、息をのみ、慌てて父がかけよってくる気配がする。
「おっと」
目を閉じて、落ちる痛みを想定していたが、一向に痛みは来なかった。父が、落ちそうになってよろけた自分を、花瓶ごと、抱き抱えてくれたらしい。そうして恐る恐る目を開けると、父と視線があって、しばらくして、怖かった気持ちと、安心と色々な気持ちがわいてきて、よくわからず笑ってしまったのだ。それをみて、お父さんも、つられて笑いはじめた。
「もうっエクメアっ、笑い事じゃないのよっ」
「ごめんなさいっ、お母さんっ」
「嬉しかったんだもんな、エクメア」
「だって綺麗なお花だよ、いいにおいもするし、嬉しくなっちゃうよ」
「うちのエクメアは本当に可愛いなっ」
「あなたったら、もう、甘やかしてっ」
「でも、今度お父さんとお母さんがいるときは、危ないから、どっちかにとってもらいなさい、可愛いエクメアが、傷ついたら大変だよ」
「はーい~」
「もう、ちゃんと反省してるのかしら」
「してるよー」
そういえば、こんな穏やかな家庭の日々もあったのだと思う。もう、忘れかけていたけれど。あまりに……眩しい。まるで槍のように心を突き刺すほどに。
「エクメア、水を汲んできてくれるかい?お父さんはお母さんと大事な話があるんだ」
「難しい話?」
「仕事の話だよ、難しい話さ」
「お父さん、お仕事の話しばっかり、全然わかんない」
「ごめん、終わったら本を読んであげるから」
「約束だよっ」
「気をつけるのよっエクメア」
父と母は食卓に、ついて、何か厳しげな表情をして、話をはじめた。今おもえば、銀食器の事業の不振が始まっていたのだろ。
「すまない、売上が芳しくない」
「……やはりそうですか」
「従業員を、切らないといけないかもしれないっ」
「議会で貴族位縮小の、新生法は通ったのですかっ?」
「まだだ、でも、確約に近い、貴族位の解体化の推進が、議会で叫ばれていて、大荒れだ、だが、簡単には有力貴族は消せないだろう。しかし、そうはいっても、得意先の家々は縮小してきているし、資産逃れとして買ってくれていたものたちも、家財を売り払って、銀の値段が暴落してきている」
「そんなっ」
「辛うじて、法術器の事業がもっているから、回せているが、限界が近い……」
「新しく開発しているといってた、あの商品はどうなんですかっ?」
「新しい軽量銀の流力電動率のいい法術器の開発に乗り出して完成はしそうだ……国にも売り込んで、軍の流術士の認可が通れば、また舞い込むはずだ、だが、最後にまだ課題が残っていて……それを改良するための開発費がつきそうになっている」
やはり父と母は難しい話をしている。あまり、良い、話ではないことは子供ながらにわかった。厳しい大人の顔つきに、子供は敏感だ。そしてもれなく、それはその当時の私も同じだった。
子供というのは、聞いていないようで聞いているものだ。聞き耳を立てていても内容は詳しくわからなかったが、それでも、不穏な雰囲気が漂っていることだけはわかった。幼い自分にはわからない話、幼い自分には、手も足も出ない話、それがなんだか悔しかった。でも、それでも、父と母、二人には、そんな険しい顔ではなく、笑ってほしくて、出来ることをしようと思った。
「お花飾らないと」
あんなに綺麗な花なんだから、見れば二人は笑ってくれるかもしれない。安直な発想ではあったが、年を5つ数えたばかりの、幼い子供には、それが精一杯だった。子供の時分には、陶器の花瓶をもつのはそこそこに重く、さらに水をいれればもっと重くなる。軽い容器に、うつして、少しずつ花瓶に水を移せば良いのだが、その時はその二人の険しい顔をみて、気が削がれていたのだと思う。
外にある水汲み場から、家までの距離はそう遠くなかったが、子供にとってはそれなりに長い距離だった。
「んしょっ……」
懸命に引っ張って何度か転んでいたような気がする。水も揺れる度に漏れていた。そして、途中で、躓いて、水がこぼれた。膝からは血が出て、みっともない気持ちになったが、それでも、水を組み直すと、また一生懸命に引きずった。
部屋に戻ると、それに気がついたのか、母は、慌ててかけよってきて、ごめんなさいといった。
「重かったでしょう、話に夢中になって、水をいれれば重いものねお母さんバカね、エクメア、ごめんね」
「大丈夫」
お母さんは、すぐに水で傷をあらって、緑の嫌いな臭いのする薬をつけようとした。
「放っておけばなおるよっ」
「だめ、エクメア、悪いものが入ったら大変なのよ」
「これ滲みるし、臭いもんっ」
父は、険しい顔で集中して書類をみていたのか、こちらにようやく気付いて、書類から顔をあげて笑って見せた。
「そうだな、その薬父さんも昔嫌だった」
「ほらー!」
「でも結構効くんだよなぁこれがー」
「えー!うそだよっ」
「ほらやってみたら、嘘かどうかわかるだろう?」
そういってぶすくれながら逃げ出そうとするのを、大きな父の手で捕まえられて、無理やり母にあの薬を塗られてしまった。
「いだいっ、滲みるっ」
「これではやくなおるぞ、ほらエクメアが水をいれてくれた花瓶にお花も飾ってくれたぞお母さんが」
「だまされないからねっ」
「はははこりゃ手厳しい、エクメアは頑固だな」
「誰に似たのかしら」
「おまえじゃないか?」
「あら、あなたじゃないっ」
今おもえばあのときは、辛いときだったのに、父も母も、健気に自分を苦しませないように笑ってくれていたのだろう。まだ、堰が壊れるまでは……。
その晩のことだった。
ドンドンドンドン、けたたましく家の扉をノックする音が聞こえた。小さな私は目を擦りながら、起き上がり、それをみた母が抱き締めて、寝ているように大丈夫と促した。その日の夜は雨が強く降り注いでいて、外は、暗く、人が出歩くような天気ではなかった。
向こうの部屋から、いぶかしげな父の声が聞こえてきた。ノックの主が誰か確認しにいったのだろう。その後をおうように、母も私にここにいるように諭し、蝋燭に火をつけて、父のもとへと向かった。
こんな荒れた夜だから、悪いものでも出そうで、一人にされるのは怖かった。扉の向こうに悪いものがいて、父母を連れ去ったらどうしようなんて、幼い私は考えていた。
「夜分遅くにすみませんっ!」
けれど、それは杞憂にすぎなくて、扉を叩いていたのは、父と一緒に働いている従業員の人の声だった。家に何度かきていたので、記憶にあったのだ。
「社長、大変ですっ」
「話は聞くが、先に中に入れ、酷い雨だ、さぁ」
よほど、急いでいたのだろう、従業員の人は、肩で息をしながら、扉をくぐり座り込んだ。母はそれをみて、塗れた身体をふくものをと、あわてて走っていった。
「すみませんっ、げほっげほっ、いきが」
「息を落ち着けてからでいい、なにがあった」
「か、開発中の法術器が……設計図が持ち逃げされて、横流しされ、他社に売られました、軍の次の汎用装備法術器は、それに決まったそうですっ」
「なぜ、なぜそうなった!」
「……経営が傾いていたところを、従業員の首を切る話がまわりはじめていて、それで、工房の一人が、他社にそそのかされて流したようです」
「誰が」
「恐らくは……」
それを流した人物の名前を告げられた、父さんの顔は悲痛なものだった。それは、古くから近くで、父と働いていた、酒も酌み交わすほどの相手の名前だった。
「くそっ、くそっ、くそっ!どうしてっあいつがっ」
「家族がいないものや、勤続年数の長い年長者から募るという噂が流れたからでしょう……もしかしたら、あるいは金をつまれて、会社の席を用意されたからかもしれません、調査しなければ憶測にすぎませんが」
「……だが、だが、あいつを俺は……」
「……あなた」
「すまない、エクメアを頼む、俺は、いますぐ社にいくっ、知らせてくれて助かった、おまえは少し休んでから」
「いえ一緒に行きますっ」
「すまないな」
幼かった自分ではわからなかったが、後に魔女になって調べて知ったことは、ローバリース、うちの家は、ノウンベル皇国軍の軍用品評会の展示品としてまず広めるはずだった商品予定のものを、先んじて、盗まれたということだった。先に、まったく盗まれた設計図からほとんど同じ模倣品を作り、軍に横流しした社があったらしい。それで、発覚したのだという。
父とその横流しした従業員の会話は、幼い自分には会社に出入りすることを禁じられていたため、知るよしもないが、その日の父の顔は、憎悪、悲しみ、いや、もっと、全てを落としてしまったような、深い喪失の顔をしていたと思う。
その後、その法術器の、一部内部構造の特許は、法律上こちらのものだと認められ、一部巻き返せたものの、他の部分においては、主張を許されず、結果として、軍に汎用装備される銀法術器は、他社のものとなった。
ローバリーは、法術器の一部わずかな特許のみ、お金を手に入れたものの、開発費や銀食器事業の、赤字を、消すことは到底出来なかった。
そして特許で得られた、それらは、首を切る従業員と、会社をたたむ費用に当てられることになったのだった。
「どうしてこうなったんだっ」
「あなた……少し休んだほうが」
「うるさいっ!」
父の拳を振り上げられた振動で、机の上の銀食器が、ガランガランと鳴った。怒ることはたまにあったが、これほどの剣幕で怒鳴った父の姿は、見慣れず、びくりと母と、自分は肩を震わせていたことを覚えている。
「……っ!? すみません……」
「あ、いや、っちがうだ、いや、悪い、すまないっ大丈夫、大丈夫だ、大丈夫にしないとっ」
父は頭を抱えて、髪を掻き、机に突っ伏した。母はそれを抱き締める。
その頃にはあれほど美しかった花瓶の花は、枯れはじめていた。
債務整理に、教われるなかで、父の白髪はどんどん増えていった。
そして、貴族追い討ちをかけるようにノウンベルト皇国で、貴族位の縮小の新法が制定され、銀の価値はさらに暴落した。資産の計上を逃れるために行っていた、貴金属の商品である、銀食器は、当然、売り叩かれた。
またその頃に、ともない隆盛した、民間の 大量生産かつ、民衆に響く食器の流行により、さらに、銀食器事業は低迷していった。
そしてローバリースは、会社を完全にたたむことになった。
全てを売り払い、家も売り払い、差し押さえられ、そして、父の肩に借金だけが残った。
父は、払いきれるつもりだったのだろうか。今となってはわからないけれど、母は内職をはじめ、父は外に出て出稼ぎをするようになった。
「……」
日に日にやつれていく虚ろな目の父と、笑わなくなった母……。家庭は間違いなく坂を転がっていっていたのを覚えている。自分で後から俯瞰してみてみれば、絵に描いたような没落ぶりだと、失笑してしまったほどだ。
父は、ローバリースのかつての経営者であった祖父に、長子として、厳しい教育をうけていたらしい。ローバリースの栄光を取り戻したい懐古主義な祖父は、優しかった父にそれこそが己の価値だと言い聞かせて育ててきた。父が会社を受け継いだあとも、祖父とは度々確執を起こしていた。
それでも、父は祖父に反感を抱きながらも、自分の代で銀食器事業を廃業させないために、努力しつづけてきた。けれどその会社もなくなり、古くからの従業員に裏切られ、きっと父は限界だったのだ。設計図を盗んだ従業員がもちろん悪い。けれど、父はきっと冷徹になれない人だった、優しすぎたから狂ってしまったのかもしれない。
祖父や会社から本当は逃げてもよかったはずなのに、父は逃げることが出来なかった。
父は、会社の経営者として、優しさを膿まされて、育てられたのだろう。それゆえに会社と自己価値が結びつき過ぎていた。そうして、倒産をきっかけに、心が崩れ落ちていったのかもしれない。
父は自分の価値を見失ってしまった。そもそも、価値など、人に定められるものではないとはいえど、あまりに喪失として、父を構成する要素としては大きすぎたのだとおもう。
もちろん、私は、父ではないから、父の心なぞ、真実、全てわかるわけではないけれど。
それでも、確かにあの時父の心は、病み、亀裂が入ったことだけはなんとなくわかった。
別に人の心に亀裂が入ることは珍しいことではない。立ち上がるのも億劫なくらいに。けれど、そこからあがれるかは、巡り合わせや運や時やさまざまなものが関わってくる。自分が、どれだけ歩き続け堪え忍んでそれらを待てばよいのか、きっとそれを待つ間に、人は疲れはててしまうのだろう。疲れて絶望に追い付かれたときに、暗闇に呑まれるのだ。現にあの時はもう、父も母も疲れきっていた。壊れていく家庭で、口論が増え、ため息が家のなかに滞留しているかのようだった。
正気ではいられないくらいに疲れた末に、人は何でもすがりたくなる。自分はそうではないと思いながらも、飲まれていくものなのかもしれない。それが信仰か、あるいは、即物的な快楽か、薬か、人か……。
そして、父は酒に逃げた。酔っていれば、現実を直視しなくてすんだのだきっと。父は、現実にのまれないように、酒浸りになり、戻れなくなった。
そして、大量の酒を飲んだ父は化け物へと夜に姿を変えるようになった。まるで、抑圧された祖父からの姿を生きうつしたかのように。
借金がたまに滞ると、催促に来る人に、酒でよった父が暴れ、たびたび、問題が起きるようになった。酒で酩酊して、何度か、母や私が父の職場に呼び出されることすらあった。そして、もうくるなと、本人に伝えろと、首を切られたこともある。仕事はあれから何度か変えざるを得なかった。それゆえに借金の支払いも、安定しなくなっていた。
このままでは、母は今いる場所にすらいられなくなると思ったのか、決意したように、ある日こう言った。
「このままじゃ、おうちが困っちゃうから、働きに出ようと思うの」
父に殴られ、それでも、健気にそういう母の姿が苦しくて、不安になり服の裾を引いたのを覚えている。父が会社をつぐまえ、祖父の紹介と見合いで、母と父は結婚した。それなりにいいところの家柄の娘さんだったのだとおもう。だから、働いたこともあまりないような母だった。少しの傷といえば、家事で水仕事のあかぎれぐらいのものだったのだろう。そんな母が、本当に仕事ができるのか、今おもえば信じられなかったかもしれない。それでも、懸命に、母は、仕事を探し頭を下げて、飲食店の給仕の仕事を見つけたらしい。父は当然ながら反対した。
「男に色目を使うつもりかっ!?」
会社のものに裏切られ、疑心暗鬼になっていたことも相まって、父は心を疲弊させていった。本心からというよりは、もう擦りきれたはてに、限界だったからついてでた言葉だったに違いない。とっさにぶつけた言葉に、人はしまったと思うことがあるように。母のことはもちろん事実そんな色目を使うなんて、おもってもいなかったはずだ。
だが、母は酷くその言葉に傷ついた顔をしていたのを覚えている。
父のために私のために家庭のために、耐えてきたものが、揺らいだのかもしれない。
それでも、母は言われながら家計のためですと押しきり働きに出た。
幼かった私は、父の変容を許容出来なかった。なぜ変わってしまったのか理解できなかった。
ただ懸命に働こうとする母にどうして、そういうのだろうと、心のなかで思っても口をつぐんだ。また殴られるのが怖かったから。
そんな日が続くにつれ、家庭には三人がそろう日がほぼなくなっていった。
そしてある晩、私が本を読んで欲しいとせがむと、母は急に私を抱き締めてきた。母はなにも言えないような、声に出来ない声で、呻き、くぐもった声で、涙をこらええていた。そして、やっとこらえていた涙がこぼれたときに、ようやく母から出た言葉は謝罪だった。
「どうして泣くの?」
「ごめん、ごめんね」
母は最後まで理由を言わなかった。
そしてその、次の雪の日、母は、少しの荷物をもち、書き置きだけを残し、一人で家をでていった。
色目を使ってなんて、父がいっていたけれど、相手がいたかはわからない。父のいっていたことが正しかったかどうかもしらない。今となっては母の心意などわからないけれど、ただ、苦しみに耐えかねた母にある日限界がきたのだろうと思う。じわじわと削られていた心の支柱が、耐えきれずポキリと、折れたのだと。
消える日の前に、泣き続けた母は、最後に、虚ろな目でこういったのを、覚えている。
「エクメア、お母さん、もう疲れちゃった……」
幼い私は、わけもわからずにいたから、母に早く寝るようにいったけれど、どれだけ眠ったって心の疲れは、簡単に消えることはない。疲れてしまったら全て手放してしまえば良いのに、人は簡単にはそれが出来ない。けれど母は、ここから去ることでそれらの疲れを全て取り去ろうとしたのだろう。
母は私という存在を置いて、一人いってしまった。私は、母にとって、疲労の種だったのかもしれない。
そうして、母がいなくなった最初の数日、父は癇癪をおこしながら、どうせ戻ってくるだろうと悪態をつき探さなかった。あいつにそんな一人でやっていける力なんてないと。けれど自分だけは何日も母を探し、何日も母を待った。雪が睫毛に、降り積もり、手足が霜焼けになっても待ち続けた。
それでも、母は帰ってこなかった。
大人になって、俯瞰してみれるようになったあと、母も、本当に限界だったことはわかる。
外に行き、閉塞した世界から、抜け出すことが、母の心が終わらないための、あのときは最善だったのだろうとも。
それでも、子どもである自分は、あの時の自分はただ、母が恋しくて仕方なかった。どうして置いていったのだろうと怨みたかった。
例え理由があったとしても。受け止めきれないものだった。
ーーどうして……どうして……どうして!
ただ何もかもがわからなくなり感情に潰され、ただ毎晩泣き続けた。
あとになって、母が、飲食店で出会った人と、また再婚したことを、風の噂できいた。そして、そこに父が追いかけていき、乱闘沙汰になったことも。
再婚の条件は、子どもを、つれてこないことを願っている相手だったことも知った。
乱闘沙汰になったあと、その日のうちに母は、その相手と逃げたらしい。足跡は追えなくなっていた。
「やっぱりあの女、そとに男がいたんじゃないか」
そういって、怒鳴り散らした父の姿は、子どもながらに痛々しいほどに憐れだった。それでも、父を慰めることも何故だか違う気がした、父が招いた結果だから?そういうだけじゃない気がした。きっと幼い自分が、慰めてほしかった気持ちを、誰も慰めてくれず、一人立ち尽くしていたのだと思う。どうにか、母の喪失の苦しみを、心の奥底にしまうので精一杯だったから、わめく父が遠くに感じたのだ。
何より幼い自分にとって、母の世界には、私がいなくても良くなったのだと、いうことが、心に亀裂が入るほどに、痛んだ。じくじくと、心から血が出て、膿んでしまうほどに。
あれほど幼さを盾に爛漫にいられた自分の姿は消え去った。強く抱きしめてくれた母は、虚像だったのだ。
母にとって、私はいらない、とってかわる何かだったのだと。
そして数日して、母の喪失と共に、父の怒りの矛先は私に変わった。
「ちゃんと家事をやっておけって、いったよなっ」
「っごめんなさいっ、こぼしちゃった……ごめんなさいっごめんなさいっごめんなさいっ……うっ」
私に平手打ちをしたあと、はっと我に返ったように、父は謝りだした。
「っ……すまないすまないすまないっ俺が悪かったエクメア俺がっ」
母がいなくなったあと、父の心はさらに支えを失い、壊れていったように思う。夜にだけ現れる化け物が、昼間からあらわれるようになった。乱高下し暴れる姿は幼い自分ではもちろん抑えられるわけがなかった。必ず殴ったあと父は謝るのだ、悪かったと蹲って。そうして泣き続けて、弱り果てた父を、母の変わりに大丈夫だよというのが私になった。
母の世界に私はいなくてもよかったらしい。だったら、自分がいてもいい世界を望んでくれるのは、父だ。まだ父はこの世界で、自分を必要としてくれている。そんな幼いながらに歪さをただ抱えて父に執着した。父は、まだここにいていいと思ってくれていると。それを欲する心が、そうして、磨耗した父との唯一の家族の残された絆になっていっていた。
7つになったら、教育機関で、読み書き算術を、覚えなければならなかったが、外に出ようとすると、父がそれを許さなかった。だからあのときは、まだ文字も数字も理解できなかった。
今おもえば、逃げることもできたのだと思う。しかし、逃げることすら私には考える選択肢が消えていたのだろう。心の弾性が失われていたのだ。
10歳ほどになったころ、やけに、機嫌の良い父が、花を抱えたぬいぐるみをもって帰ってきた。
やけに、機嫌が良いから不思議で怖かったけれど、それでも花をかってきてくれるだなんて、それを覚えてくれていた父の姿に久々に心が浮き足だったことを覚えている。
「父さん良い仕事を紹介してくれるって人をみつけてな、これで、借金かえせるかもしれないんだ、これから、長く遠出しないといけないから、エクメア、おまえを面倒みてくれるひとを紹介するよ」
「お父さん、エクメア、必要なくなったの?」
「なにをいうんだ、エクメア、借金をかえしたら、前みたいに生活できるかもしれないんだぞ」
「……本当に?」
「あぁっ」
「……迎えにきてくれる?」
「もちろん」
「……わかった」
父が恐ろしかった。口答えすれば、殴って支配しようとする父が。けれど、もっと父に、必要ないと捨てられるのが、恐ろしかった。だから、その時は、必要としている、必要とされるためにいうことを聞くということを選んだ。
「いい子だ」
それからその人がくるまで、父はただただ、優しかった。まるで、昔の父に戻ったように。このまま時が止まれば良いのだと願った。けれどそれは、むなしいあの日のごっこあそびにすぎない虚像だったのだろう。けれど、それから、ずっと大人になっても、その虚像を何度も繰り返し好む空想のように、抱き締めて、居続けているのだから、本当な自分は愚かだったと今なら思う。
「エクメアだね、今日からよろしくお願いするわね」
「お願い、します」
「礼儀正しい子だ、ちゃん"しつけ"られていそうだね」
「それはもう」
ある日、恰幅の良い、派手な服を纏った、キツイ目つきの女性が現れた。女性は何かを吸い込んだあと、紫色の煙を口から吐きだし、それはもう退屈そうに、淡々と父とやりとりした。
そして、その隣に、手を擦って、愛想笑いを浮かべている慎重の低い小柄な鼠顔の男が付き従っていた。
「んっ、さっさと終わらせるよあたしは忙しいからね、ほら」
恰幅の良い女性に指示されると、鼠顔の男は、懐から何か紙のような巻物を出した。父はそれを、受けとって頭を下げた。
「じゃあそういうことでお願いしますっ支払いは」
「ちゃんといれておくさ、あんたほどおちぶれちゃいないからねぇ」
そうして、父が、何か書類のようなものになにかサインをしたあと、その女性に、手を捕まれた。
「いたっ……ねえ、お父さん、本当に迎えにくる?」
「なんだ、しゃべってないのかい?こっちに手間をかけさせるんじゃないよっ」
「すみません……そうさ、エクメア、いい子にしていたら迎えにいくさ」
「最後まで良い父親面かい、残忍に伝える覚悟もなしに、あんな金に手を出したなんて、ろくでもないね……」
「お父さんなにをしたの?」
「ただちょっとお金をかりただけさ、そう、ちょっとさ、ごめんなエクメア……」
「お父さん、どうして謝るの……」
どうしてあの日の母と同じような顔で、謝るのだろう。
「ほらいくよ」
恰幅の良い女性に指図されて、鼠顔の男が私の腕をつかんだ。細身なのにどこにそんな力があるのかというほど強く腕を握られて引っ張られた。きっと腕には青あざが残るだろうと思うくらいには、痛かった。けれど、もっと痛かったのは、心だったのだろう。嫌な予感がした。幼いながらにも、その予感はわかった。もう二度と父と合えないような気がした。永遠の別離がくると、そんな恐怖がよぎった。
「いい子にするから、一緒にいたいの、ねぇ、おとうさっ!」
「エクメア……ごめん、ごめんなっ」
謝らないでこっちを向いて、駆け寄ってきて抱き締め欲しかった。けれど、父はうつむくばかりでこちらを、向かない。
「こら暴れるんじゃないよっ」
鼠顔の男の腕から抜け出そうとするが、暴れないように羽交い締めにされて、抜け出すことは出来ない。
「しつけたなんて、うそっぱちじゃないかっ」
そのまま拘束され、無理矢理、引きずられていく。けれど、父は助けてはくれなかっ。
ーー痛い、苦しい、助けてよ。
「ごめん、ごめんエクメアごめんっ」
ーー謝らないで、助けてよ、ねえお父さん。
「お父さん、お父さん、お父さん!!!!!」
暴れる度に、面倒になったのか、鼠顔の男は、へらへらしながら、私を頭から押さえつけた。
「こら、顔に傷つけるんじゃないよっ」
「すいやせんっ」
決して父はどれだけ呼んでもこちらを向こうとはしなかった。項垂れたままの父の姿に、私は、父を求めて叫ぶ声が尻すぼみになっていった。心が抗う力を失っていったのだと思う。
「お父、さん……」
諦めのようなものが心の奥底で芽生えた。ああ抗っても父は自分の元に駆け寄ってきてはくれないのだと。そう、理解してしまったから。
「急におとなしくなりやしたね」
「よくあることさ、さっさとのんな」
抵抗するのをやめると、恰幅の良い女性に、捕まれて、車両に投げるようにして乗せられた。あまり満足に食事をとっていなかったから、投げられるほど、軽かったのかもしれない。車両は、メェクルや引き車みたいなものじゃなく、高級な、流力で走る珍しい派手な自動走行車だった。お金持ちの人しかもたないものだときいたことがあった。
これからこれに、乗って、どこにいくのだろうか、そんな不安はあった。けれど、それ以上に、心に穴が空いたような、空虚さが自分を襲ってきた。微かな希望をいだいて、もう一度父を窓からみようとしたが、それも考えてすぐやめた。だって、父は何度よんでも、こちらを向いてはくれなかったのだから。
「見ようとしても逃げようとも無駄さ、おまえさんはあの父親に売られたんだよ」
「売った……?」
「やばいところに金をかりてね、滞納してたのに、あてたらしいが、返せなくなって娘を担保に売ったんだよ、そこをまるめこんであたしらがさらに買ったってわけさ」
「……お父さんは、あいにくるって……」
虚ろな目で、恰幅の良い女性を見つめて、そう呟いた。約束した。そういったのに。
「嘘に決まってるだろう、最後まで父親ぶってこちらに面倒ごとはおしつけるんだから、最低な父親だね」
「……お父さんは、私を、必要とし……」
父は、私を必要としてた。最後まで、そばにいてくれって何度も言ってたのに。お父さんは私を必要、必要、必要、必要必要必要必要必要必要必要必要必要必要必要ってーー。
「ああ、そりゃそうさ、必要さ売り物になるからね、そして、その親がおまえをうったんだっ、たくっ、私を酷いと思わないでくれよ、こちとら商売さ、逆恨みするやつもいるんだ、覚えておきな、売ったのはおまえの父親だ、怨むならそっちを怨みな」
「……うそだ」
「うそじゃないさ……目の前でおまえを売るってかいた誓約書さ、ほら」
「……よめない」
「ん、あんた読めないのかい、これくらいなら習ってる頃合いだろうに、こりゃろくなもんじゃないのをかいとらされたね、ローバリースの娘というから、ましなもんだと思ったのに」
「とんだ買い物でしたね」
「まったくさ」
「うそだ、お父さんが売るはずない、お父さんが……」
「嬢ちゃん、いいかい、お前は私が買い取った商品になるんだ、これからは、私の言うことを聞くんだよ」
「お父さん、私を……必要だって、必要……必要、必要……必要……ぁ、ああああああっ!!!」
「心がやられちまったみたいっすけど、こいつ使い物になりますかね?」
「買い取った以上、商品の価値をあげないと割り合わないだろうっ、どうにかするんだよっ」
「すいやせんっ」
自分を買った人間の会話もだんだんと、胡乱なものになっていった。自分を、必要だといっていた父の言葉を繰り返す。
嘘だと思いたかった。だって自分が必要だと、謝って何度も名前を呼んでくれていたから。
ーー父が自分を売った?
そんなはずはないと、頭が拒否する。受け入れることは到底できなかった。混乱と、絶望が混濁して、心が悲鳴をあげていた。
ーー迎えにきてくれるっていったのに。
子どものようにわめいて泣きじゃくることも出来ず、現実だけが追い付いてくる。身体の奥が凍てついていくようだった。
そして売られたという事実を、信じたくなかったが、心が冷めていくと同時に、なぜか腑にも落ちた。
あの父の何度も繰り返していた謝罪が、あの日の母の謝罪と同様のものだと感じていた感覚は、間違いではなかったのだと。後ろめたさを隠す謝罪だったのだと。
信じたくなかった。けれど、あまりにも、全てが現実のまま自分の前に突きつけられていく。
ーー売られた…。私は必要、なくなった。
父が、借金が滞納しはじめて、危ない業者から金を借りて返金できなくなっていたことなんて知らなかった。その担保にされていたことも。
ああ、自分を買った主人のいうように、父を憎めば良いのだろうか。それとも置いていった母を怨めばよかったのだろうか。
ただ、もうあの日々以上の幸福は、二度とこないのだという絶望だけが残った。
なにもかも失った。
なにもかもが、もうわからない。
感情というのは、苦しみや悲しみが、溢れすぎると、まるで遠い世界のように感じられるようになるらしい。
感情が溢れて、感情がすべて涙になった。
母の世界から自分が消されたとき、もう二度と、心の苦しみは治らないと思った。だからもう一度、そんな苦しみを体験しなくていいように努力した。父の世界に自分を必要としてくれるように。
けれど現実は、自分がいなくても、世界は困らなかった。
幼かった自分の中で、これまで自分を必要としてくれたものが、虚像であり、砕け散ったことを理解した。
ただ涙だけが流れ落ち、そして、ただ疲弊した心が崩れていくのを幼いながらに感じた。
ーーああなんて父母はずるいのだろう。人間の顔をして、父と母は、私に謝るなんてずるい。ずるいのなにものでもない。 化け物であればいっそよかった。いやあれらは化け物だったのか?そもそも捨てるなら、何故私を産んだ。何故、何故、何故何故何故!
何故自分を生んだのか。大きくなってからも、人生の苦しみがある度に、何度も繰り返すことになる問いになった。呪いのように。
ーーなんで……。
ーー私はいらなかったんだろう。
ーー何が悪かったんだろう。
ああ、神がいるのなら私の罪を教えてくれと、子どもながらに乞い願った。
答えはもちろん返ってこなかった。神が答えないならば、父母が答えられるわけもない。
そして、世界は自分を必要としなくなったことを理解した。
ローバリースという、花瓶は、ひび割れ、エクメア・ローバリースという存在の、帰りを待つものは、誰もいなくなった。
淀んだ水なら変えれば良い。
けれど、入れる器すら壊れたら、戻るわけもないのだから。




