0.5、ある魔女の断章①※
【ある魔女の記憶-火種1-】
(※DVなど、陰惨な描写があります)
幼かった頃、花瓶に生けた花の水を、綺麗なものに変えると、母が喜んでくれた。そんなとき決まって母はこう、教えてくれた。淀んだ水より、綺麗な水を汲み上げた花のほうが、美しいまま長く咲けるのだと。それをうけて、教えられた通りに、何度も水を変えていたような気がする。綺麗な花が好きだからと、理由を言って何気なくやっているようにみせていたけれど、本当は純粋に、母に褒められるのが好きだったからだ。
だってそうしたら、母は喜び、頭を撫でてくれて、それをみた父が褒めてくれたから。
それがとてもとても温もりがあって、自分がいていい場所で、帰るべき居場所のようで安心できたから。
けれど、時間は無情にもその居場所を、残酷に押し流した。
淀んだ水は入れ換えれば澄んだ水に変わり、花は美しく咲き誇るというのに、人の淀みはどれだけ注いでも治りはしない。
家庭というのは淀みすぎると水を変えることもできず、注ぐ水すらなく、散っていくのだと、私はそれを幼い頃に知ったのだ。
「お前はっ、俺をばかにしてるのかっ、いまにみてろ、必ず、必ず、金を工面して、失敗もちゃらにしてやるからなっ、そうしたら俺にお前は頭を下げるしかなくなるんだ、家事しかできない無能のお前とちがって、俺はっ」
世界のどこかにはきっとある、ありふれた家庭だった。ただ、そう、幸福より幾分か遠ざかっているような……。
私の家は代々銀食器などの銀製品を扱う、家だった。しかしある時を境に、端的にいうと、事業に失敗して、家が潰れたのだ。
父は時代の潮流にのりきれず、事業に失敗して、それゆえに酒浸りになり酒を飲み暴れるようになった。そしてそれをとめようと、何度も泣きながらアザを作る母、まるで絵に描いたような不幸に足をつっこんでいたと当時を振り返って思う。
坂を転がるようにという言葉が、これほど似合う家も珍しいくらいだった。
「どうかっお願いですから、もうお酒は今日はやめてくださいっ!」
母が、疲れきった声で泣きじゃくりながら懇願し、父に頭を下げて、お酒を取ろうとした。しかし、母の力では、父に叶うべくもなく、母はお酒を取り返されてしまう。そうして、母の身体は、足で蹴られ、台所のフロアのキャビネットにぶつかった。肩から背中を強く打ち付けて蹲った母は酷く苦しげだった。
それと同時に、ガシャン、グァングァンとものが落ちる音がした……。
蹴られて壁にぶつかった母の身体が、打ち付けられたと同時に、衝撃で銀のお皿が落ちたのだ。
「ぅっ……」
呻きながら母が九の字に床に倒れ込む。それを父は、酔って濁った眼差しで、ぼんやりと見つめてこういった。そして銀の皿が目に入ったとたん、さらに苛立ちがましたように、父は舌打ちをして、きまってこういった。
「っ、……っ、うるさいなっ、誰が食わせてやってるとおもってるんだっ、おまえは働かないで俺に食わせてもらっているんだろうがよ、仕事もしない女が偉そうに」
酒気が、部屋に蔓延して、まるで人生ごと酔ったかのように、父は、立ち上がり、横たわった母の胸ぐらを掴んだ。それと同時に、母の顔にまた怯えの表情が浮かんだ。
「っ、お願い、ですからっ、お、お酒はっ」
「なぁ、俺は、こんなはずじゃないっ、こんなはずじゃなかったんだっなぁ、わかるだろう!なぁっ!」
強い平手打ちで、母の頬をぶった。ぶったせいか、母の唇は切れて、血が流れた。
「っ!?」
「あぁ、ぁぁっ、なんだよ、その目は、なんなんだよ!!」
「なにもっ、ただあなたがしんぱ」
「うるさい、うるさいなぁ、ほんと、おまえは俺の人生の荷物だってわかんねぇのかぁっ!」
怒気のこもった、静かな声のあと、また殴打の音がきこえた。殴る度に、ぐっ、と泣きながらこらえる母の声が聞こえた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいあなた、私が悪かったんです、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「そうだよおまえが悪いんだよ、俺が悪いことなんてひとつもないんだっ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」
粗暴な父の姿、それに、伏す母の謝罪の言葉、それを何度聞いたのかわからない。数えるのを忘れてしまった。隙間から覗く、そのやり取りは、陰惨な拷問部屋でなされる拷問のようだった。拷問をする人が丹念に人をいたぶるように。その姿が、幼い子供ながらにあまりに恐ろしくてしかたなかった。まるで向こうの部屋が、扉を隔てて一枚、世界が変わってしまっている気さえした。その光景は恐怖として、歳を重ねた今も消えずにこびりついている。
父は拳と言葉という拷問器具を、母に振りかざす。その姿が壁に影として映し出され、父は、まるで異形のようだった。
父になにか悪いものが取り憑いたのではないか、そう、子供ながらに疑った。
ーーお父さんはこんなことする人じゃない!
そう振り返って何度も、今は悪い夢だと思おうとしたけれど、覚めてはくれなかった。
いつから、どうして、こうなってしまったのだろうか。そうなるまえの記憶は、罵声の中でずいぶんと前に霞んでしまったようなきがする。
現実だけが、すべての心の記憶を押し流してしまった。
ーーお母さん、ごめんね、メアがっ、助けてあげられなくてごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいっ。
勇ましい騎士のように呻く母を助けたかった。けれど小さな身体ではどうにもできず、父の振り下ろされる拳に立ちすくんでしまった。そうして、ギロっと父の視線がこちらをみた気がして、恐怖から、扉のそばから後ずさりした。それをみて、父に足音を聞かれないように怯えながら、布団に潜るのだ。
いますぐ母のもとにかけよっていきたかった。それでも、そんな力は自分になく、ただただ殴られる母の苦悶となき啜る声に、己も涙を流すだけだった。
「ぅっ、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいっお母さん」
どうして父親はこんなことを母にするのだろう。あんなに仲が良かったように見えていたのに。
そう何度となく同じことを、反芻して、考える。子供ながらに理解できないながらも、酒を父が飲んだ日は蹲って考えるのだ。なにもできない子供の自分の無力さと、現状に虚しさを覚えながら。
ーー何でメアは、弱いんだろうっ。
無力さと憤りを並べたところでどうにもならないのに、この小さな拳が恨めしかった。大きな拳で大きな体なら、母をかばえたのだろうか。いますぐ大きくなるわけでもないのに、そんなことを考えたって仕方なかった。
力でどうにかできないならと気転を利かせてみたこともあった。お酒は父を化け物にかえる。だから子供ながらに、お酒を隠してみたこともあった。だが、父はみつけだしてこちらをにらみ、拳を振り上げてきた。父を化け物にかえる薬は、奪えなかった。
もう、その後にはなにもできない小さな自分だけが残り、最後には、いつも祈ることしかできなかった。
酒を飲むと父に、化け物が宿り、現れる。だから父が、酒を飲まないことをただひたすらに祈った。明日は化け物があらわれませんようにと。
そして願いが叶わず、化け物が現れた日は、化け物が去っていくことを逆に祈るのだ。
それが、いつのころからか、子供ながらに日課になっていた。
ーーメアはいい子にしています、お花の水も、神様へのお祈りも、欠かしません。だからお父さんにとりついた化け物を、退治してください。
そして、布団に潜りながら、恐れる父の怒気のこもった声と、なき啜る母の声がまるで悪夢のようで、ただそれが過ぎ去るのを待っていた。そのせいで、夜はずいぶんと長く感じることが多かった。父は朝には出掛けるので、ほとんど化け物は夜にあらわれた。
耳をふさいで、いつもベッドで、布団をかぶり、枕を抱き締めて、きこえないふりをして耐え続ける。ぬいぐるみに、お酒を隠したら、抱きつけるぬいぐるみは、裂かれてしまった。それからもうしばらく買ってもらえていない。
ぬいぐるみの匂いを嗅げば、絡み付くように耳に残る苦悶の声を、少しは和らげてくれたのに、ぬいぐるみはもういない。ぬいぐるみをねだって買ってくれる父はもういない、だから、ぬいぐるみの変わりに枕を抱えて、長い化け物の夜がすぎるのを待つようになった。
枕に顔を埋めて、苦しい怖い声が過ぎ去るのを、待って待って待って、ようやく終わった。
唐突に静けさがやってくる。
耳が痛いほどの静寂に感じた。
しかし、その痛いほどの静けさは、その恐怖のあとだと、幻なのではないかと疑ってしまう。そして次の、不安が忍び寄ってくる。もしかしたら、またあの怒鳴り声がきこえるんじゃないかと。
だからいつも怯えて、震えて意識を失うように眠るか、泣きじゃくりながら母を探すかどちらかだった。
父の寝息が、聞こえ始めると、少しだけ安堵して、母の様子を見にいく。父が深酒をしたあとは、起きてもトイレにいって、すぐ寝てしまう。だから、いましか母の様子を安心して見にいく時間はなかった。それでも、父からの拳を思い出すと、足が竦んで、立ち止まりを繰り返す。けれど、母の心配が勝り、どうにか寝室を恐る恐る出た。
しばらくしてようやく、隣の薄い部屋の壁を通り抜けて、父のイビキがきこえはじめたのを確認し、母のもとにかけよった。
「お母さん……」
泣いていた母親が、はっとしてこちらをみて、疲れきった顔を隠してこちらをみた。すぐに涙を隠して微笑んでみせるが、明らかに無理があって、痛々しく見えた。おそらく腕や身体の青アザを冷やしていたのかもしれない。
「まだ、起きていたの?」
「う、うん、寝れなくて」
「……そう、ごめんね、うるさかったね」
「違うの……お父さんにとりついたお化けがさるまで、ずっとまってたの」
「そう……ね、お母さん、お父さんにとりついたお化けを今日も追い払ったから、大丈夫よゆっくりおやすみなさい」
母は私にいつもあの父の姿をこういって聞かせていた。
ーーちょっと、悪いものがとりついて、こうなっちゃっただけなのよ、お父さんは。
そう言われて、母に度々ごまかされるたびに、それが本当であってほしいと願うことしかできなかった。そうすることでしか、幼い自分がそれいがいの現実を、受け止めきれなかっただけなのかもしれない。見ないふりをすることで心が壊れてしまわないように。
「お母さん手当て手伝う」
「大丈夫大丈夫、ごめんね、本当に、ゆっくりやすんでいいのよエクメア」
そういってお母さんは、寝るように促してくれたけど、その時だけは言うことを聞かなかった。
「ううん、お薬ぬってあげる、よく効くんでしょっ?」
「メア……ありがとう」
母の手当てを手伝ってあげたかった。自分にはこんなことしか出来ない。緑色のいつもは臭くて、近づくのも嫌な薬を、母にぬってあげた。
「とっても染みるし臭うけれどよーく効くのよ」といった母の言葉を信じて。
いまだけはその嫌いな薬に、速く母の傷を癒してくれるように願った。母のいうとおりならば、きっととっても効くはずだからと。
最後に母の利き手で、どうしても包帯を、まききれないほうを、不格好ながら小さな手で巻いた。
全て、手当てがおわると、母は、きまって、抱き締めて頭を撫でてくれた。自分の身体だって痛いはずなのに。
昔は洗い物の時に使う薬と、乳粥のまざったようなあまい匂いがしたのに、最近はあの薬の香りが染み付いているようだった。
「ごめんね、ごめんね、エクメアっ」
母は、私を抱き締めて、何度も謝った。先程も何度も謝っていた。
母は謝るけれど、何故謝るのだろう。なんにも悪いことを母にはしていないのに、そう思った。
何故謝るのか問い返しても、母も泣きながら困った顔をするばかりだった。あんなに先程も泣いていた。降り注いだ涙で盥が、いっぱいになってしまうように思えた。それでは、母の身体から水がなくなってしまうじゃないかと心配した。だから、一生懸命目元をふいて蓋をしたけれど、涙は止まってくれなかった。
そうして謝る母の姿に、子供であった自分は、なにも出来なくなり、次第に母にあてられて、同じように泣いてしまうのだった。
大人になり、振り替えっておもう。
このごめんねの意味を。
こんな父をかえられない無力さを感じていたのかも知れないとか、あるいはこうなる未来を防げなかった自分にか。この両親の現状と生活に対してか、そこに生きるしかない私への思いか。
あるいは……。
いや、無駄だ、過去を推察したとて、きっと、あの頃の幼かった自分には同じようなことしかできず、言葉さえかけれなかっただろうから。
過去は振り返るだけ、無駄なのかもしれない。
ああ、でも、ひとつだけ、こんな人生でも役に立つ力を、手に入れたものがあったかもしれない。
社会にでるまえに、人の顔色を伺うことを最初に覚えたのだとおもう。
でも、そんなことより、母の得意な裁縫でも覚えたかった。あるいは、父の得意な計算でも覚えたかった。
もうそんな事は無理な話なのだけれど。
そもそも、そんなタラレバをいったら、キリがない。
父の事業が失敗せずにいたら。
銀食器の会社が倒産せずにいたら。
受注生産から、大量品へと移り変わるなか、それらの需要などを、見誤らなかったら。
新しい銀法術器の設計図を、会社のものが横流しなかったら。
母が出て行かなかったら。
父が負債を負わなかったら。
あるいは、全てが、かわっていたのかもしれない。
けれど、もうそんなことは、起こりえない未来だ。
謝っても泣いても、もうなにもかも戻らない。
ーーああ、母の鳴き声も、父の怒声も、ただ、全てが遠くにみえる。
もう戻ることはない。懐かしい悲劇。過ぎ去ってみれば喜劇なのだろうか。
もう、綺麗な水を注いでも、花は生き返らない。そもそも、いける花瓶すら、割れてしまったのだから。
こうして家族は壊れていった。




