第5話:『初めまして』の二度目
世界が、一晩で書き換えられた。
昨日まで僕を見て笑っていた瞳が、今は「親切なクラスメイト」を見る丁寧な光に変わっている。
瓶の中に閉じ込めた結晶たちは、相変わらず美しく輝いているけれど、それはもう、僕と彼女が分かち合った熱ではない。ただの冷たい、過去の死骸だ。
彼女にとって、僕は今日出会ったばかりの人間。
僕にとって、彼女はすべてを共に過ごした愛おしい人。
この絶望的なまでの温度差を抱えたまま、僕はまた、彼女に「初めまして」と嘘をつく。
嘘を重ねるたびに、僕の日記は彼女の知らない物語で埋まっていく。
「……ねえ、ハルトくん。私たち、前にも会ったことある?」
無邪気な問いかけが、僕の胸を鋭く突き刺す。
それでも、僕は笑わなければならない。
彼女をこれ以上、喪失の恐怖に突き落とさないために。
五月の風は、驚くほど爽やかだった。
窓の外で揺れる新緑が、僕の重苦しい心とは無関係に、鮮やかな光を反射している。
教室の自分の席に座ると、斜め前にはセナがいた。
彼女はいつものように友人たちと話し、時折声を上げて笑っている。その光景は、一週間前と何も変わっていないように見えた。
けれど、彼女が僕の方を振り返った瞬間、その幻想は音を立てて崩れ去る。
「あ、おはようございます。……ええと、ハルトくん、でしたよね?」
「おはよう。……うん、ハルトだよ」
僕は引きつりそうな頬を無理やり動かして、平然を装った。
「ハルトくん」の後に続く、わずかな沈黙。
彼女は今、自分の記憶の引き出しを必死に探り、そこに僕という名前のラベルを見つけただけなのだ。そのラベルの下に、どんな思い出が眠っていたのか、彼女はもう知らない。
「昨日、数学のノートを貸してくれてありがとう。すごく助かっちゃった」
「いいよ。……わからなかったら、また聞いて」
「うん、お願いするかも。ハルトくんって、すごく教え方が上手だね。初めて話したのに、なんだか不思議」
初めて、話した。
その言葉が、鋭いナイフのように僕の喉元をかすめる。
放課後の屋上でサイダーを分け合ったことも。
図書室で桜色の星を拾い上げたことも。
僕が彼女に「君の代わりに僕が覚えている」と誓ったあの夜も。
彼女の中では、すべてが「なかったこと」になっている。
僕は鞄の中に忍ばせた、光り輝くジャムの瓶にそっと触れた。
瓶の中の星たちは、彼女が失った記憶そのものだ。
これを彼女の目の前に差し出して、「君は僕を忘れているだけだ」と叫んでしまえたら、どれほど楽だろう。
けれど、それはできない。
『星食い』の現象が示す残酷なルール。
失われた記憶を無理やり呼び覚まそうとすれば、彼女の心には過剰な負荷がかかり、さらに多くの「今」を星として吐き出してしまう。
彼女を守るためには、僕は彼女の記憶の欠片を隠し続けなければならない。
彼女の人生から僕という存在を消し去り、また一から「都合のいい友人」を演じ直すしかないのだ。
「……ハルトくん?」
セナが不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。
「あ、いや。……何でもない」
僕は慌てて視線を逸らし、教科書を広げた。
活字が歪んで見える。
放課後、僕は一人で屋上へ向かった。
あの日と同じ、オレンジ色の夕陽が街を染めている。
けれど、隣に彼女はいない。
僕は瓶を取り出し、夕陽にかざしてみた。
一番底で眠っているのは、一番最初に出会った時の「瑠璃色の星」だ。
それはもう、彼女に返すことのできない遺品のようなものだった。
「……おかえり、セナ」
僕は誰もいない空間に向かって、小さく呟いた。
僕の二度目の、そして彼女にとっての「一度目」の物語が、ここから始まる。
「初めまして」という言葉が、これほどまでに重く、悲しいものだとは。
ハルトは、彼女が自分を忘れてしまった現実を突きつけられながらも、それでも彼女の側にいることを選びました。
失われた記憶の代わりに、ハルトが手に入れたのは「孤独」です。
彼女が自分を思い出せないという事実は、ハルト自身のアイデンティティさえも揺るがしていきます。
しかし、セナの言葉にあった「初めて話したのに、なんだか不思議」という違和感。
それは、結晶となって体外に出てもなお、彼女の魂の深層に残っている「何か」の欠片かもしれません。




