第4話:最初の「空白」
満杯になった瓶は、もはや照明器具のように部屋を照らしていた。
青、桜、そして白銀。
重なり合う結晶たちは、瓶の中で微かな熱を帯び、不気味なほど美しく波打っている。
これが、彼女がこの数週間で失った「自分」の総量だ。
一粒拾うたびに、彼女の輪郭がぼやけていく。
一粒貯まるたびに、僕だけが彼女の形を正確に記述できるようになる。
それは、彼女を救っているのか。それとも、彼女から「心」を盗んでいるのか。
「……もう、入りきらないね」
机の上に置かれた瓶を見つめ、僕は独りごちた。
最後の一粒が落ちる時、溢れ出すのは光か、それとも絶望か。
僕はその答えを知るのが怖くて、けれど、止まる術を持たなかった。
その日は、ひどく静かな雨が降っていた。
放課後の図書室。いつもの窓際。セナはぼんやりと外の景色を眺めていた。
「セナ」
僕が呼びかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。
その瞳に、一瞬の「空白」が走る。コンマ数秒の遅れ。僕が「ハルト」であることを思い出すための、脳の検索時間。
「あ……ハルトくん。ごめんね、ぼーっとしてて」
彼女は笑った。けれど、その笑顔はどこか、作り物のような危うさを孕んでいる。
彼女の中にあった、僕との思い出の断片が、すでにいくつも剥がれ落ちていることを僕は知っていた。
「……これ、持ってきたよ」
僕は鞄から、光り輝くジャムの瓶を取り出した。
瓶の中は、もう隙間がないほどに星で埋め尽くされている。
「わあ……綺麗。こんなにたくさん、拾ってくれたんだね」
セナが瓶に手を伸ばす。指先がガラス越しに星の光に触れた、その時だった。
セナの顔から、急激に血の気が引いた。
彼女の喉が、大きく波打つ。
「……あ、が……っ」
苦しげな吐息とともに、今までにないほど巨大な、眩いばかりの光が彼女の口から溢れ出した。
カランッ。
それは、これまでのどの結晶よりも大きく、鋭い形をしていた。
机の上に落ちた衝撃で、瓶の中の星たちが共鳴するようにチリンと鳴る。
僕は慌ててその星を拾い上げた。
その瞬間、頭の中に強烈なイメージが流れ込んできた。
——それは、入学式の日の記憶。
——桜の下で、僕が落とした教科書を彼女が拾ってくれた、あの「始まり」の瞬間。
「……セナ?」
恐る恐る顔を上げると、セナは呆然と僕を見つめていた。
その瞳には、一欠片の「認識」も残っていなかった。
「……あの、すみません。どなた、ですか?」
心臓が、凍りついた。
喉の奥が焼け付くように熱い。
彼女にとっての僕は、今、この瞬間に「存在しない他人」になったのだ。
出会いの記憶を失うということは、その後に積み上げたすべての時間の「意味」を失うことと同義だった。
僕は震える手で、最後の一粒を瓶に押し込もうとした。
けれど、瓶はすでに満杯だ。
無理に押し込もうとした指先に、結晶の角が刺さり、赤い血が滲む。
「……僕は、ハルトだ。君の、クラスメイトの」
「ハルト、くん……? ……ごめんなさい、私、物忘れがひどくて。……お友達、だったのかな?」
セナは申し訳なさそうに、けれど完璧な「他人」としての礼儀正しさで頭を下げた。
瓶の中の星たちが、冷ややかに僕をあざ笑っているように見えた。
僕は、彼女の代わりにすべてを覚えていると言った。
けれど、彼女が僕を忘れてしまった今、僕が持っているこの瓶は、ただの「死んだ記憶の墓場」でしかないのではないか。
「……いいんだ。気にしないで」
僕は無理やり口角を上げた。
嘘をつくのは、もう慣れっこだ。
たとえ、世界で一番悲しい嘘だとしても。
「僕は、君の忘れ物係なんだ。……また明日から、教えるよ。君が誰で、僕たちが何を話してきたか」
セナは不思議そうに首を傾げ、それから「変な人」と小さく笑った。
その笑い声さえも、僕には遠い異国の音楽のように聞こえた。
外の雨は、いつの間にか激しさを増していた。
一瓶の光と、一人の他人。
僕たちの物語は、ここで一度、残酷なまでの「白紙」に戻された。
第1章、完結です。
「瑠璃色のこぼれ幸」——その幸せは、あまりに脆く、手のひらからこぼれ落ちるものでした。
出会いの記憶という、二人の関係の「根」を失ってしまったセナ。
満杯になった瓶を抱え、絶望的な孤独の中に放り出されたハルト。
「君が忘れても、僕が覚えている」
その誓いが、どれほど過酷なものかをハルトは思い知らされます。
けれど、瓶が満たされたということは、物語が次のステージへ進む合図でもあります。




