第3話:綻びる独白と、第三者の「真実」
僕が彼女に与えていたのは、救いではなく「檻」だったのかもしれない。
「昨日の君は、こうだったよ」
「一年前の君は、こんな風に笑っていたんだ」
僕がペンを走らせるたび、彼女の真っ白な世界に僕の選んだ色だけが塗られていく。
それは、彼女を喪失の恐怖から守るための防壁のつもりだった。
けれど、その壁の内側に閉じ込めているのは、僕にとって都合の良い「理想の彼女」でしかなかったのだ。
僕の知らない彼女。
僕のいない場所で、誰かと笑い、誰かと約束を交わしていた、本物のセナ。
その存在を無視し、僕が勝手に書き換えた物語は、あまりに脆く、あまりに独善的だった。
一人の少年が「神様」を気取った代償は、一瞬の綻びから溢れ出す。
「……ねえ、ハルトくん。この日記に書いてある私は、本当に私なの?」
その問いに、僕はもう、迷いなく頷くことはできない。
静かに降り始めた雨が、僕たちの偽りの境界線を、容赦なく溶かし始めていた。
六月に入り、街は鬱陶しい梅雨の湿気に包まれていた。
窓にへばりつく水滴が、まるで内側の熱を逃がさないように視界を遮っている。放課後の教室、僕はいつものようにセナの隣で、彼女の『日記』を代筆していた。
「……それでね、セナ。昨日の放課後は、一緒に中庭の紫陽花を見たんだよ。君は『雨の日の花の方が、色が濃くて好きだ』って言ってたんだ」
僕は穏やかな声で、彼女の真っ白な記憶のページを埋めていく。
実際には、昨日の放課後に紫陽花など見ていない。セナは部活の集まりで忙しく、僕は一人で図書室にいたのだ。けれど、彼女が「僕と一緒に過ごした、穏やかで美しい時間」を欲しがっているのを知っているから、僕は躊躇なく嘘を混ぜ込む。
「……紫陽花。そっか、私、そんなこと言ったんだね」
セナは僕が差し出したノートを愛おしそうに撫でた。
その瞳には、僕への全幅の信頼が宿っている。今の彼女にとって、僕の言葉は聖書と同じだ。僕が「黒」と言えば、彼女の世界の昨日は黒に染まる。
「ハルトくんが教えてくれる私の毎日は、どれもキラキラしてて、すごく素敵。……自分では思い出せないのが、本当にもどかしいくらい」
彼女の無邪気な称賛が、毒のように僕の肺を満たしていく。
救っている。僕は彼女を救っている。
そう自分に言い聞かせなければ、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
鞄の中のジャムの瓶は、もう二瓶目に突入していた。
一瓶目が彼女との「本物の過去」の墓場なら、二瓶目は僕がついた「優しい嘘」の残滓だ。
「……おーい、二人してまた密談か? 最近仲いいよな、お前ら」
不意に、教室の入り口から遠慮のない声が響いた。
クラスメイトのタカシだ。彼はサッカー部のバッグを肩にかけ、泥のついた靴で遠慮なく二人の距離に踏み込んできた。
「タカシ……。別に、密談なんてしてないよ。勉強の予習をしてただけだ」
僕は反射的にノートを隠した。けれど、タカシはそんな僕の動揺に気づく様子もなく、セナに向かってニカッと笑った。
「なあセナ、そういえば先週の土曜日の件、どうなった? お前、駅前のカフェでバイトの面接受けるって張り切ってたじゃん。受かったのかよ?」
その瞬間、教室の空気が凍りついた。
セナは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でタカシを見つめた。
「……え? バイト、の面接?」
「なんだよ、忘れたのか? ほら、一ヶ月前からずっと『親に内緒で貯金したい』って騒いでたろ。俺も履歴書の書き方、相談乗ったじゃん」
タカシの言葉は、悪意のない純粋な「真実」だった。
けれど、それは僕がセナに教えていた『日記』の中には、一文字も存在しない事実だった。
「……私、そんなこと、言ってた……?」
セナの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
彼女は助けを求めるように、僕の方を振り返った。
「ハルトくん……。私、バイトの話なんて……日記には、そんなこと書いてなかったよね?」
「それは……」
言葉が詰まった。
僕は、彼女が親と不仲であることも、バイトをしたがっていたことも、タカシとそんな相談をしていたことも、何一つ知らなかった。
僕が彼女に教えていた「セナ」は、僕の目の届く範囲、僕が管理できる範囲だけの、都合のいい虚像だったのだ。
「あ? なんだよハルト、お前聞いてねーのか? セナ、お前ハルトには隠してたのかよ。水臭いなー」
タカシは笑いながら、追い打ちをかけるように続けた。
「まあいいや。結果分かったら教えろよ。……じゃあな、部活遅れるわ!」
嵐のような闖入者が去った後、教室には重苦しい沈黙だけが残された。
雨の音が、さっきよりもずっと大きく聞こえる。
「……ねえ、ハルトくん」
セナの声は、氷のように冷たかった。
「タカシくんが言ってたこと、本当なの? 私は……私はハルトくんが知らないところで、別の誰かと、別の話をしていたの?」
「……セナ、落ち着いて。タカシの勘違いかもしれないし……」
「嘘をつかないで!」
彼女は叫んだ。
その瞬間、彼女の胸元から、今まで見たこともないような、どす黒い紫色の光が溢れ出した。
カラン、カラン、カランッ!!
激しい音を立てて床を転がったのは、棘のついた歪な結晶。
それは「不信」と「混乱」、そして自分が自分でなくなっていく「恐怖」が形になった星だった。
「……ハルトくんが教えてくれる私は、本当の私じゃない。ハルトくんが見てる私は、私が忘れたゴミを集めて、継ぎ接ぎにしただけの、偽物なんだ……っ!」
彼女は机を叩き、逃げるように教室を飛び出していった。
床には、紫色の星が冷たく光っている。
僕は、その星を拾い上げることもできず、ただ立ち尽くしていた。
彼女の代わりに覚えておくと誓った。彼女の空白を埋めてあげると約束した。
けれど、僕がしていたのは、彼女という一人の人間を、僕の理想という箱庭に閉じ込める行為でしかなかった。
僕は、タカシが知っている「セナ」を知らない。
他の誰かが笑い合った「セナ」を、僕は持っていない。
僕が独占していたのは、彼女の過去ではなく、彼女から奪い取った「自由」だったのだ。
僕は震える手で、床の紫色の星を拾い上げた。
その結晶は、針のように僕の指先に突き刺さり、鮮血を滴らせる。
痛い。けれど、この痛みさえも、彼女が今感じている絶望の万分の一にも満たないだろう。
僕は鞄から、二瓶目のジャム瓶を取り出した。
中には、僕がついた嘘の記憶が、濁った光を放って詰まっている。
僕はその瓶を、床に向かって思い切り叩きつけた。
パリンッ!
ガラスが砕け散る鋭い音とともに、嘘の星たちが教室中に飛び散った。
それらは空気に触れると同時に、幻のように消えていく。
残ったのは、僕の掌に刺さった紫色の、重く、苦い、本物の感情の結晶だけだった。
「……僕は、何てことを……」
雨脚はさらに強まり、窓の外の景色は完全にかき消されていた。
僕は血の滲む手で紫色の星を握りしめ、雨の中に消えた彼女の背中を追うために、教室を飛び出した。
喉の奥が熱い。
謝りたかった。けれど、何を謝ればいいのかさえ、もう分からなかった。
僕が彼女の記憶を守るために重ねた嘘は、結局、彼女の魂を一番深く傷つける刃になってしまった。
「セナ……っ!」
誰もいない廊下に、僕の叫びが虚しく響く。
壁に貼られた予定表、掲示板のポスター、昨日までの日常。
そのすべてが、僕を見知らぬ犯罪者を見るような、冷ややかな視線で眺めていた。
二人の『書き換えられた日記』は、今、無残に破り捨てられた。
後に残ったのは、血を流す僕と、すべてを失った彼女の、むき出しの絶望だけだった。
信頼が、一瞬にして崩壊する。
ハルトが「彼女のため」と信じて積み上げた嘘の城は、タカシという「外部の真実」によってあまりにも呆気なく破壊されました。
ハルトが知らなかったセナの側面。
それは、彼女が「星食い」という病を抱えながらも、一人の人間として必死に生きようとしていた証拠でした。
それを無視し、自分に都合のいい「守られるだけの少女」として描き直してしまったハルトの罪は、あまりに重いものです。
今回吐き出された「紫色の星」。
それは彼女がハルトに抱いた、初めての明確な「拒絶」です。
そして、二瓶目の「嘘の瓶」を自ら割ったハルト。




