第6話:空白を埋める「偽り」の物語
「君は、昨日こんなことがあって、こんな風に笑っていたんだよ」
僕がそう語れば、それが彼女にとっての唯一の真実になる。
彼女の真っ白な記憶のキャンバスに、僕が色を塗り、僕が物語を書き込んでいく。
それは救済のようでもあり、同時に、彼女という人間を僕の都合のいい形に作り替えていく「侵食」のようでもあった。
僕がペンを動かせば、彼女は僕を信じる。
僕が微笑めば、彼女は僕を唯一の拠り所にする。
けれど、その信頼の源泉である「過去」は、僕の手元の瓶の中に閉じ込められている。
彼女の中には、もう何もない。
僕が教えなければ、彼女は自分が誰を愛し、誰を憎んでいたのかさえ、思い出すことができない。
「……ハルトくんが、私の世界のすべてみたいだね」
冗談めかして言った彼女の言葉が、呪いのように僕の鼓動を早める。
僕は彼女の神様になった。
けれど、神様は孤独だ。
彼女の記憶を独占すればするほど、彼女と「本当の思い出」を分かち合える人間は、この世界から僕一人だけになっていくのだから。
放課後の図書室。窓の外では、五月の雨が静かに校庭の土を濡らしていた。
湿った空気の中に、古びた紙の匂いが沈殿している。
僕は、窓際の席に座るセナの隣で、ノートを広げていた。
一週間前と同じ光景。けれど、決定的に違うのは、彼女の瞳に宿る僕への「距離感」だった。
「……ねえ、ハルトくん。ここ、前にも教わった気がするの。なんだか、すごく懐かしい感じがして」
セナがシャーペンの先で指し示したのは、二次関数の頂点を求める公式だった。
それは、彼女が最初に失った『星』の一部だ。
「……そうかもね。授業で一度やってるし」
僕は、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「それは、僕が屋上で、君が泣きそうになりながら一緒に解いた問題だよ」
そんな真実を口にした瞬間、彼女の脳はパニックを起こし、また新しい星を吐き出して、さらに今の自分を削ってしまうだろう。
「……そっか。私の物忘れがひどいだけなのかな」
セナは困ったように笑い、ノートに数式を書き込み始めた。
その隣で、僕は自分の「記録ノート」をこっそりと開く。
表紙には何も書かれていない、ただの大学ノート。けれど中身は、彼女が捨て去った『本物の過去』で埋め尽くされている。
僕は、そのノートの端に、今日の彼女の様子を書き加えた。
『5月14日。雨。セナは二次関数に既視感を覚えた。けれど、僕のことはまだ「親切なクラスメイト」だと思っている。』
「……ハルトくん、それ、何書いてるの?」
不意にセナが顔を覗き込んできた。
僕は心臓が止まるかと思い、咄嗟にノートを閉じた。
「……なんでもない。ただの、日記みたいなもんだよ」
「日記? いいなあ。私、最近日記をつけ始めたんだけど、書くことがなくて。……だって、昨日のことを思い出そうとすると、霧がかかったみたいに真っ白になっちゃうんだもん」
セナは冗談めかして言ったが、その瞳には隠しきれない怯えが滲んでいた。
彼女は今、自分が壊れていく自覚がある。
自分が自分を保てなくなっている恐怖を、誰にも言えずに抱えている。
「……だったら、僕が書いてあげようか。君の代わりに」
口から出たのは、無意識の言葉だった。
「え?」
「君が忘れてもいいように、僕が君の一日を書いて、それを君に教える。……そうすれば、君は『昨日』を失わずに済むだろ?」
セナの瞳が、一瞬だけ大きく見開かれた。
それから、彼女は花が綻ぶような、眩しい笑顔を見せた。
「……それ、すごくいい! お願いしてもいいかな? 私、自分のことがわからなくなるのが、一番怖かったから」
「ああ。……任せておけよ」
僕は笑い返した。けれど、胸の奥では黒い泥のような罪悪感が渦巻いていた。
僕が書く日記は、果たして「彼女の真実」なのだろうか。
例えば、彼女が誰かを嫌いになったとしても、僕が「君はあの人が好きだったよ」と書けば、彼女はそれを信じてしまうだろう。
僕が彼女に嘘の記憶を植え付けて、僕にとって「都合のいいセナ」に書き換えてしまうことだって、今の僕には簡単にできてしまう。
彼女の『過去』という聖域を、僕一人が支配している。
その全能感に似た恐怖に、僕は吐き気がした。
「……ハルトくん?」
セナが、僕の手をそっと握った。
あの日、図書室で桜色の星を吐き出す直前に見せた、あの無防備な信頼の形。
「ハルトくんがいてくれて、本当によかった。……なんだか、ずっと前から私のことを守ってくれてたみたい。不思議だね、出会ったばかりなのに」
その言葉と同時に、彼女の胸元から、微かな光が漏れ出した。
カラン。
小さな、けれど鮮やかな緑色の結晶。
それは、今日一日で彼女が抱いた「安らぎ」の星だった。
僕はそれを拾い上げ、鞄の中の満杯の瓶を見つめた。
もう、隙間はない。
僕は無理やり星を押し込み、蓋を閉めた。
瓶の中で星たちが悲鳴を上げるように擦れ合い、僕の手のひらに鋭い痛みが走る。
「……ありがとう、セナ。僕も、君の隣にいられて嬉しいよ」
僕は、彼女の安らぎさえも盗み取った。
彼女が僕を信じれば信じるほど、その信頼は僕の瓶の中に閉じ込められ、彼女の中から消えていく。
降り続く雨の音だけが、嘘を重ねる僕たちの時間を静かに塗り潰していた。
「日記を代筆する」
それはハルトにとって、彼女を救うための唯一の手段であり、同時に彼女の人生を「ハルトの物語」に書き換えてしまう、禁断の行為でした。
今回こぼれ落ちた「緑色の星」。
それは彼女がハルトに対して抱いた『初めての安らぎ』です。
しかし、星がこぼれた瞬間、彼女の中からその温もりは消え、また「見知らぬ、けれど親切なハルトくん」という認識にリセットされてしまいます。
ハルトが握るペンは、果たして彼女を導く光になるのか。
それとも、彼女の意志を奪う枷になるのか。




