第228話 古いノートと白紙の冊子
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
朝。
迎賓館の俺の作業部屋に、頑丈な木箱が一つ運び込まれた。
昨日、西門で確認した王国からの荷に含まれていたものだ。箱の側面には王国の印。その隣に、見覚えのある紋章が焼きつけられていた。
王立魔術院。
ロイルが荷運びの男たちを下がらせ、木箱の横に立った。エレノアも部屋の隅で、その物々しい箱を見つめている。
「こちらも、箱に添えられていました」
ロイルから封書を受け取る。
表には俺の名前が書かれ、王国の封蝋が押されていた。
だが、その名前を見てあまりいい予感はしなかった。
アシュラン・ド・ランテーム
ウルムに来る前、王国に奪われた名だ。
俺は一度裏返してから、そのまま上着のポケットへ入れた。
「あら、師匠。読まないんですの?」
窓際にいたエレノアが声を掛けてきた。
「後で読む」
「ここで読まれればよろしいではありませんか」
「特に急ぎの内容でもないだろう」
「中を読まなければ、急ぎかどうかも分かりませんわ」
面倒なところを突いてくる。
ロイルは、何も言わずに立っていた。どうやら、二人とも俺が封を開けるまで帰るつもりはないらしい。
仕方なくポケットから封書を取り出し、封蝋を割った。
中の羊皮紙を広げ、上から順に目を通していく。
「何と書かれていますの?」
エレノアが尋ねた。
「追放処分と、魔術院の職を奪った記録を取り消すという話らしい」
「それだけですの?」
「研究記録を返し、俺の研究を別の奴の名前にした件も訂正するそうだ。あとは、魔術院へ戻るか、王国の技術顧問にならないかと書いてある」
ロイルが遠慮がちに口を開いた。
「拝見してもよろしいでしょうか」
「ほらよ」
羊皮紙を渡す。
エレノアがロイルへ目を向けた。
「読んでみてくださいな」
「はい」
ロイルは文面を確かめてから、冒頭を読み上げた。
「旧政権下において、アシュラン・ド・ランテームに下された追放処分、ならびに王立魔術院における職位剥奪を撤回する。処分記録には、当時の判断を取り消す旨を追記するものとする」
以前にも、王国は追放を撤回すると言ってきたことがある。
その代わりにウルムを王国領へ編入し、俺を辺境伯や魔術院の副院長に据えるという、随分と虫のいい話だった。
今回は、少なくとも表向きには条件が付いていない。
ロイルが続ける。
「王立魔術院に保管されていた研究記録を本人へ返還し、他者名義に変更されていた研究成果についても、アシュラン・ド・ランテームの名へ戻す。また、本人が希望する場合は、王立魔術院への復帰、もしくは王国技術顧問への就任を――」
「もういい」
ロイルが読むのを止めた。
羊皮紙の末尾には、シャルロッテの署名と王国印がある。その下には、王立魔術院の新しい責任者らしい人物の名も記されていた。
処分を撤回する理由は、
『当時の判断を再検討した結果』
となっている。
「再検討、か」
「そのように記されています」
「調べ直して間違いに気づいた、みたいな書き方だな。最初から、まともに調べてなかっただろうに」
ロイルは肯定も反論もしなかった。
「返書を用意いたしましょうか」
ロイルが羊皮紙を畳みながら尋ねた。
「それは、箱の中を確認してからだ」
「復帰の返答もですか?」
「今は箱の中が先だ。返事は、それを見てからでいい」
ロイルから封書を受け取り、机の上へ置いた。
それから、ようやく木箱の前へ移動する。
蓋を持ち上げると、古い紙と革の匂いが広がった。
研究帳、計算用の羊皮紙、実験記録。途中まで引かれた設計図や、魔術式と物理現象を比較した表もある。
一つ一つの束に、王立魔術院が付けた整理札が結ばれていた。
『実用性なし』
『用途不明』
『魔術式との関連不明』
『雑記』
俺は最後の束を取り上げた。
数枚めくっただけで、これが何だったのか思い出した。
滑車の組み合わせによる荷重の変化。水を高い場所へ運ぶための車輪と羽根の形。管の途中に空気が入った時、水の流れがどう変わるか。
どれも、後にウルムで使ったものの原型だった。
「これを雑記に入れた奴は、頁を開いてすらいないな」
「王国では、使い道が分からなかったのではありませんか?」
エレノアが整理札を覗き込む。
「分からないからって、雑記に放り込むか? そんな扱いをするから、いつまで経っても分からないままなんだ」
「師匠は、分からないものほど棚へ積み上げますものね」
「後で使うんだよ」
「そう仰って、ずっと動かしていない箱が工房に三つありますわ」
今は、そんな話をしていない。
ロイルは王立魔術院が作った目録と、箱の中身を照らし合わせていた。
「目録上は、すべて揃っています」
「目録を作った奴が抜いていたら分からないぞ」
「一冊ずつ確認なさいますか」
「当然だろ」
ロイルは俺を見たあと、木箱の中身へ目を戻した。
「では、私は市場の荷置き場を確認してまいります」
手伝うとは言わなかった。
最近は、俺の扱いが分かってきたらしい。
◇
確認し始めて何冊目かで、手が止まった。
擦り切れた黒い革表紙。背表紙には、自分で付けた番号が残っている。
王立魔術院にいた頃の研究ノートだった。
『マナ粒子のエントロピー増大則に基づく魔法効率の考察』
俺が追放される原因となった論文。その前段階の計算や実験が記されている。
記録そのものは、今見ても悪くない。
測定条件も、使った器具も、失敗した回数も残してある。
ただ、余白に書かれた言葉が気になった。
次の審議で提出する。
この数値なら反論できない。
魔術式だけでは説明できないと認めさせる。
条件を揃えれば、否定はできないはずだ。
どの頁にも、似たような書き込みがあった。
次に何を試すかより、どうすれば否定されないか。
自分で書いたはずなのに、余白の言葉ばかり目について、肝心の計算が頭に入ってこなかった。
「随分と、誰かに見せることを気にしておられたのですね」
エレノアが隣からノートを見ていた。
「王立魔術院へ出すための記録だったからな」
「研究の記録というより、反論の準備に見えますわ」
「当時は、こうでもしないと話を聞かなかったからな」
「そうでしたのね」
エレノアは、それ以上何も言わなかった。
何か言い返してくれた方が、まだましだった。
俺はノートを閉じ、王国への返書に使う紙を引き寄せた。
追放処分の撤回については受領する。
研究記録の返還については――。
そこまで書いて、止まる。
『当時の判断を再検討した結果』
やはり、この書き方が気に入らない。
別の紙に書き直す。
当時の調査が不十分であり――。
違う。
事実確認を怠った結果――。
これも弱い。
「王立魔術院へお戻りになるのですか?」
エレノアが尋ねた。
「戻るつもりはない」
「王国技術顧問は?」
「そんなのは、もっと面倒だろ」
「では、もうお決まりですのね」
「当然だ。最初から決まってる」
「それでしたら、どうして先ほどから、その返事ばかり直しておられますの?」
俺は紙から顔を上げた。
「向こうの書き方が気に入らないだけだ」
「それだけですの?」
「他に何がある」
エレノアは、机の上の古いノートへ目を向けた。
「師匠は、王立魔術院へ戻りたいのではありませんわね」
「当たり前だ」
「ただ、向こうに間違っていたと書かせたいのではありませんか?」
「違う」
反射的に答えた。
エレノアは続きを待っている。
何が違うのか。
それが出てこない。
「埃を払う布を持ってまいりますわ」
エレノアは返事を求めず、部屋を出ていった。
図星かもしれない。
そう思ったことが、一番気に入らなかった。
◇
扉が勢いよく開いた。
「アシュラン様!」
入ってきたキドは、昨日と同じ木板を抱えていた。
「二段にした網、ちゃんと水が通ったぞ。掃除する前と後で測ったんだけど――」
「扉は静かに開けろ」
「壊れてないんだから、別にいいだろ」
「壊れてからでは遅い」
キドは聞き流し、机へ木板を置いた。
新しい網へ交換した後の水量と、細かい網を掃除した後の水量が並んでいる。
「測る間隔が揃ってない」
「途中でヘイムさんが昼飯に行ったから」
「水路は昼飯に合わせて流れ方を変えない。次は同じ間隔で測れ」
「分かった」
木板を返そうとすると、キドが木箱の中を覗いた。
「これ、全部アシュラン様の?」
「昔のだ」
「見てもいい?」
「丁寧に扱えよ」
キドは一番上に置いていた黒いノートを手に取った。
机の端に腰を掛け、頁をめくり始める。
「字、今より汚いな」
「返せ」
「まだ見ただけだろ」
キドは笑いながら次の頁を開いた。
水槽から管へ流れる水量について計算した箇所だった。管の太さと長さ、曲がる回数。いくつかの条件を変えた数値が並んでいる。
キドは自分の木板を横へ置いた。
しばらく、二つを見比べている。
「ここ、今と違う」
「何がだ」
「水槽の水の高さが入ってない」
俺はノートを引き寄せた。
「管の太さと長さは入ってる」
「でも昨日、貯水槽の水が減ったら、同じ蛇口でも水の出方が弱くなっただろ」
キドは古い計算の一か所を指で押さえた。
「水面と蛇口の高さが違ったら、押す力も変わるんじゃないの?」
計算を追う。
途中まで進めたところで、手が止まった。
キドの言う通りだった。
水面と吐水口の高さの差を、条件へ入れていない。
「間違ってるな」
「アシュラン様が?」
「俺の字だろ」
キドは少し驚いた顔をしたが、すぐにノートへ目を戻した。
「じゃあ、消す?」
「消さない」
「何で?」
「どこで間違えたか分からなくなるだろ」
「昨日、俺に言ったのと同じか」
「そうだ」
キドは余白の書き込みを読んだ。
「これ、王立魔術院の人に見せるために書いたの?」
「ああ」
「アシュラン様が正しいって、認めさせるため?」
「当時はな」
キドは、先ほど見つけた計算へ指を戻した。
「でも、ここは間違ってたんだろ」
「そうだ」
「じゃあ、まずこっちを直さないと駄目じゃん」
「……そうだな」
キドは自分の測定板を引き寄せた。
「俺たちも、昨日までは細かい網だけで大丈夫だと思ってたからな」
俺は、机の端に置かれた返書へ目を向けた。
向こうに何と書かせるか。
さっきまで、そればかり考えていた。
キドは古いノートをもう一度開いた。
「この間違いを直したら、今の水路にも使える?」
「条件を足して計算し直せばな」
「じゃあ、これ借りてもいい?」
「持ち出すな」
「ここで見る」
キドは椅子を引き寄せ、その場で計算を始めた。
窓の外から、工房の槌の音が聞こえてきた。
広場ではロイルが、荷車を囲んだ商人たちと話している。水路の方へは、ヘイムが新しい枠を担いで歩いていた。
キドの手元にある黒いノートへ目をやる。
王都にいた頃も、物理を考えるのは好きだった。むしろ、そればかり考えていた。
それなのに、余白に残っているのは審議の日付と、どう反論を封じるかという言葉ばかりだった。
キドの板にあるのは、測った数字と、失敗した場所と、次に試すことだけだ。
水が止まれば原因を探す。
間違っていれば直す。
その方が、話が早い。
◇
ロイルが戻ってきた時、俺は書き損じた返書を丸めていた。
「返事を頼む」
「内容を伺っても?」
「追放処分の撤回と、資料の返還は受ける」
「王立魔術院への復帰は?」
「断る」
「王国技術顧問への就任もですか?」
「当然だ」
ロイルは記録帳へ書き留めた。
「理由は、どのようにいたしましょう」
「王国へ戻るつもりはない。今はウルムの住民だ。それだけでいい」
「王立魔術院との技術交流については?」
「必要なら受ける。向こうが手順を守るならな」
ロイルが、書き損じた紙も一緒に持っていこうとした。
「それは置いていけ」
「書き損じですが」
「だからだ」
丸めた紙を広げ、木箱の中に重ねた古いノートの間へ挟んだ。
◇
夕方。
俺は黒い研究ノートを一冊持ち、キドと学校へ向かった。
教室には、昨日の金網について話していた子供たちがまだ残っていた。机の上には、粗い網と細かい網の見本が置かれている。
俺は教室の棚を一段空け、古いノートを置いた。
「これは、ここに置く」
キドが振り返る。
「読んでいいの?」
「持ち出すなよ。それと、元の字を消すな。直したいなら別のに書け」
「分かった」
キドはノートを取り出し、最後の頁までめくった。
途中から白紙になっている。
「この続きは?」
「ない」
「分からなかったの?」
「その頃はな」
キドは棚の別の段から、新しい冊子を一冊持ってきた。
まだ何も書かれていない。
古いノートの隣へ置くと、最初の頁を開き、今日の日付を書いた。
「じゃあ、続きはこっちに書く」
「勝手にしろ」
「最初は何を調べる?」
「それを俺に聞くな」
キドは少し考え、近くにいた子供たちへ顔を向けた。
「じゃあ、俺たちで決める」
キドは周りの子供たちへ声をかけた。
「水槽の高さを変えたら、蛇口の水はどれくらい変わると思う?」
「高くすればいっぱい出るんじゃない?」
「管を太くした方が早いよ」
「曲がるところを減らしたら?」
すぐに何人もの声が重なった。
キドは白紙の冊子へ、出てきた意見を順番に書き始める。
俺は教室の後ろから椅子を一つ引き、勝手に始まった相談の輪へ持っていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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