第229話(最終話) 追放物理学者の快適辺境ライフ
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
あれから、三年が過ぎた。
昼食を終えた俺は、聖樹ガオケレナの木陰に寝椅子を出した。
靴を脱いで足を伸ばし、エレノアが持ってきた茶を脇の小卓へ置く。
穏やかな風が木々の間を抜けていく。さすがは聖樹の木陰だ。昼寝をするには申し分ない。
読みかけの冊子を二、三頁ほど進めたところで、同じ行を二度読んでいたことに気づいた。
眠くなってきた。
今日は抗う理由もない。
冊子を閉じて傍らへ置き、寝椅子へ深く身を預けた。風に揺れる葉の音を聞いているうちに、意識がゆっくり沈んでいく。
うとうとしかけたところで、西門の鐘が鳴った。
俺はゆっくりと目を開け、丘の下へ視線を向けた。
門の前には、王国と帝国の商会旗を掲げた幌馬車が並んでいた。そのうちの一台が、列を止めている。
ここからじゃ細かいことは分からないが、荷札と積み荷でも合わなかったのだろう。
以前なら誰かが泣きついて丘を駆け上がってきたところだが、今は門の係が手際よく荷車を脇の検査場所へ回し、後ろの列を別の通路へ誘導していた。
しばらくすると、列はまた動き出した。
俺は西門から視線を外し、丘へ続く坂道を見た。
人影はない。
俺は再び寝椅子へ体を預け、目を閉じた。
「師匠、今日は本当に何もなさらないおつもりですの?」
庭先で薬草を広げていたエレノアが、俺の脇に置かれた杯を取り上げた。ぬるくなった茶を新しいものに替え、元の場所へ戻す。
「そのつもりだ。予定は守るためにあるからな」
「昨日もそう仰って、午後から水車を分解しておられましたわ」
「異音がしたからだ」
「他の方には聞こえなかったそうですけれど」
「俺には聞こえた」
エレノアは小さく笑うと、近くにあった椅子を引き寄せた。
庭のテーブルに置いてあった茶器を小卓へ移し、自分の杯に茶を注いだ。
頭上で枝が揺れ、一枚の葉が額に落ちた。
「アシュラン、寝るなら寝ればいいのに」
枝の上で、リナが腹ばいになってこちらを見下ろしていた。出会った頃と変わらない姿で、両足だけをぶらぶらさせていた。
「寝てる」
「さっきから町の方を見てる」
「見てない」
「見てるよ」
「目を閉じた。これで問題ない」
「そういうことではないと思いますわ」
エレノアは杯を口元へ運びながら言った。
俺は額の葉を払うと、今度こそ眠ることにした。
しばらくすると、丘の下から言い合う声が近づいてきた。
「だから、三回じゃ足りないって言うから、六回測ったんだよ」
先に聞こえたのは、以前より少し低くなったキドの声だ。
「回数だけ増やしても、条件が揃っていなければ意味はありません」
「二回目からは揃えた」
「三回目からです」
続いたのはカインの声だ。俺は眉間に皺を寄せ、薄目を開けた。
坂を上がりきって庭に姿を現したのはキドだった。
ずいぶん背が伸びた。カインが帝国で立ち上げた技術検証院の灰色の作業外套を羽織り、胸元には留学生用の識別徽章がついている。
腰には、ウルムから持っていった測定具。肩から帝国製の細長い器具箱を提げ、分厚い記録冊子を脇に抱えていた。相変わらず、外套の着方は雑だ。
その後ろから、カインがゆっくりと坂を上がってきた。こちらは帝国の外套をきちんと着込んでいたが、目の下の隈までは隠せていない。
「まあ、キド。帝国から戻っていらしたのですね」
「今朝着いた。西門で手続きを済ませて、学校に荷物を置いてきた」
キドはそう答えながら、抱えていた分厚い冊子を持ち直した。
「先に休むよう勧めたのですが、聞きませんでした」
「カインさんだって、そのまま丘に行くって言っただろ」
「私は馬車の中で休みました」
「あれは資料を読んでただけだ」
「目は閉じていました」
「お前ら、徹夜の判定を俺にさせるな」
二人とも黙った。
キドは、俺の寝椅子の横に立った。
「アシュラン様。共同試験で、変な数字が出た」
「カインがいるだろ」
「現時点で、最も可能性の高い結論は出ています」
カインが銀縁の眼鏡を押し上げる。
「なら、その結論で報告すればいいだろ」
「そうしたくないから来たのです」
俺は片肘をつき、カインを見た。
キドが半年前から取り組んでいるのは、帝国北部の高地へ水を引く共同事業だ。送水管と測定手順はウルム、魔導揚水機と現地工事は帝国が受け持つ。乾いた集落へ、飲み水と畑の水を送るためのものだったが……事業の内容自体は、特に珍しくもない。
「試験を始めると、一定の間隔で水量が落ちるんだ。その少し前に、管の上の方で低い音がする」
「漏れは」
「ない。継ぎ目は全部調べた」
「取水側の水位は?」
「揃えてある」
返事が早い。
カインが冊子を開き、折り込まれた測定表をこちらへ向けた。
「帝国側では、揚水機の運転によって管内へ残ったマナが、流量の変動を起こしていると見ています。今のところ、それが最も整合する説明です」
「妥当だな」
「ええ。ただし、この日の数値を除けば、です」
カインの指が、測定表の一列をなぞった。
揚水機を止め、異常音が出た区間の管も交換してある。それでも、通常の水圧だけで流した試験で同じ落ち込みが出ていた。
「誤差じゃないのか」
「私も最初はそう考えました」
「俺は違うと思った」
キドが横から割り込む。
「測り直したら、また出たから」
「六回のうち、最初の二回は測定条件が揃っていません」
カインがすぐに訂正した。
「開始時刻と水位の基準が違っていました」
「だから、その二回は外した。残り四回は使えるだろ」
「ええ。四回分については、現時点で訂正すべき箇所はありません」
カインは測定表へ目を落とした。
「マナの残留で報告書をまとめることはできます。ですが、この値を誤差として捨てれば、結論に合わせて記録を選ぶことになる。私は納得できません」
「それで、俺ならどこを疑うか聞きに来たのか」
「はい。意見を伺いたかったのです」
「今日は休む予定なんだがな」
キドが別の頁を開いて差し出した。
「それは、これを見てから決めてくれ」
生意気な言い方まで、変わっていない。
俺は差し出された頁に目を落とした。
「水量が落ちた時の取水槽は」
「ここ。水位の変化はこの範囲」
キドの指がすぐに該当欄へ移る。
「弁を触った奴は」
「三回目だけ整備員が触ってる。でも、その前に流量が落ち始めてる。聞き取りは次の頁」
「管を固定している間隔は」
「図面に書いた。古い区間と交換した区間で違うから、両方測ってある」
前なら、質問を聞いてから探し始めていた。
今はどこに何が書いてあるか、頭に入っているらしい。
頁には訂正線と書き足しが重なり、何度も見返した箇所には折れ癖がついていた。間違えた数字も消されてはいない。その横には、数字を間違えた理由と、測り直した結果が書き添えられている。
「音がした場所は毎回同じか」
「だいたい同じ。でも、ぴったりじゃない。管の一番高いところから、前後二メトルくらい」
「外気温は?」
「測った。朝と昼で試してる」
「水温は」
「入口と出口なら」
「一番高い地点は?」
キドの指が止まった。
「……そこは測ってない」
カインが冊子を引き寄せ、数頁戻る。しばらく探した後、眼鏡の奥で目を細めた。
「外気温と、送水前後の水温だけです。管の頂部は記録していません」
「頂部の圧力も連続では取ってないな」
「試験の前後だけだ」
「なら、その二つは測れ。原因だと決まったわけじゃないが……。ただ、見ていない条件を残したまま、マナのせいにするのは早いだろ」
キドはすぐに余白へ書き込んだ。
カインは腕を組み、測定表と配管図を交互に見る。
「温度による管内の圧力変化……いえ、空気が残っていれば、その膨張も考える必要がありますね」
「まだ決めるな。音が先なら、別の原因もある」
「分かっています」
カインは答えるなり、図面の余白へ新しい式を書き始めた。
「実物の設備は帝国にあるんだな?」
「うん。でも、同じ条件を再現した小型設備を、ウルムの技術工房にも組ませてある」
「昨日、完成したとの報告を受けています」
俺は寝椅子の縁へ腰をずらし、脱いでいた靴に足を入れた。
「最初からそれを言え」
「言う前に、アシュラン様が休むって断ったんだろ」
「現物があるかどうかで話は違う」
エレノアは何も言わずに家へ入り、薄手の上着と使い慣れた革の鞄を持って戻ってきた。
俺は寝椅子から立ち上がりながら言った。
「現物を見るだけだ。今日中に原因を突き止める気はないからな」
キドが冊子を抱え直す。
「誰も今日中に解決しろとは言ってないだろ」
「言わなくても、お前は急かすだろ」
「それ、アシュラン様が勝手に気になってるだけじゃないか?」
俺は答えず、差し出された上着に袖を通した。
「師匠、夕食までにはお戻りくださいませ」
「試験設備を見るだけだ。そんなにかからん」
キドがカインを見た。カインは眼鏡を直しただけだった。
「では、遅くなると思っておきますわ」
「信用がないな」
「長くご一緒していますもの」
エレノアはいつもの鞄を差し出した。
俺が受け取ると、留め具の脇でほつれていた革は、いつの間にか縫い直されていた。
頭上から、リナの声が落ちてきた。
「アシュラン、昼寝は?」
「帰ってからだな」
「じゃあ、私は先に寝てる」
「好きにしろ」
リナは聖樹の太い枝に頬をつけ、そのまま目を閉じた。
キドが先に坂を下り、カインがその横へ並んだ。俺も二人の後を追った。
少し下ったところで、背後から声が届いた。
「師匠」
足は止めなかった。
「行ってらっしゃいませ」
振り返らず、片手を上げた。
「ああ。行ってくる」
丘の家が木々の向こうへ隠れるより先に、キドが口を開いた。
「低い音がしたのは、水量が落ちる少し前だった」
「少しじゃ分からん。何秒前だ」
「そこまでは測ってない」
「なら次は測れ」
「音の記録装置も用意しましょう」
カインが言う。
「大げさにするな。まず耳と時計で十分だ。器具は、位置が絞れてからでいい」
俺はキドの冊子を開いたまま、二人と丘を下りていった。
まったく。快適な辺境ライフってのも、楽じゃない。
ここまで『追放物理学者の快適辺境ライフ』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
長い物語を最後まで見届けてくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。
アシュランたちの暮らしが、皆さまの心に少しでも残ってくれたなら嬉しいです。
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