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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: 椎井 たける
第15章 世界の基準点と木陰のまどろみ

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第229話(最終話) 追放物理学者の快適辺境ライフ

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

あれから、三年が過ぎた。


昼食を終えた俺は、聖樹ガオケレナの木陰に寝椅子を出した。


靴を脱いで足を伸ばし、エレノアが持ってきた茶を脇の小卓へ置く。

穏やかな風が木々の間を抜けていく。さすがは聖樹の木陰だ。昼寝をするには申し分ない。


読みかけの冊子を二、三頁ほど進めたところで、同じ行を二度読んでいたことに気づいた。


眠くなってきた。

今日は抗う理由もない。


冊子を閉じて傍らへ置き、寝椅子へ深く身を預けた。風に揺れる葉の音を聞いているうちに、意識がゆっくり沈んでいく。


うとうとしかけたところで、西門の鐘が鳴った。


俺はゆっくりと目を開け、丘の下へ視線を向けた。


門の前には、王国と帝国の商会旗を掲げた幌馬車が並んでいた。そのうちの一台が、列を止めている。


ここからじゃ細かいことは分からないが、荷札と積み荷でも合わなかったのだろう。


以前なら誰かが泣きついて丘を駆け上がってきたところだが、今は門の係が手際よく荷車を脇の検査場所へ回し、後ろの列を別の通路へ誘導していた。


しばらくすると、列はまた動き出した。


俺は西門から視線を外し、丘へ続く坂道を見た。


人影はない。


俺は再び寝椅子へ体を預け、目を閉じた。


「師匠、今日は本当に何もなさらないおつもりですの?」


庭先で薬草を広げていたエレノアが、俺の脇に置かれた杯を取り上げた。ぬるくなった茶を新しいものに替え、元の場所へ戻す。


「そのつもりだ。予定は守るためにあるからな」


「昨日もそう仰って、午後から水車を分解しておられましたわ」


「異音がしたからだ」


「他の方には聞こえなかったそうですけれど」


「俺には聞こえた」


エレノアは小さく笑うと、近くにあった椅子を引き寄せた。

庭のテーブルに置いてあった茶器を小卓へ移し、自分の杯に茶を注いだ。


頭上で枝が揺れ、一枚の葉が額に落ちた。


「アシュラン、寝るなら寝ればいいのに」


枝の上で、リナが腹ばいになってこちらを見下ろしていた。出会った頃と変わらない姿で、両足だけをぶらぶらさせていた。


「寝てる」


「さっきから町の方を見てる」


「見てない」


「見てるよ」


「目を閉じた。これで問題ない」


「そういうことではないと思いますわ」


エレノアは杯を口元へ運びながら言った。


俺は額の葉を払うと、今度こそ眠ることにした。


しばらくすると、丘の下から言い合う声が近づいてきた。


「だから、三回じゃ足りないって言うから、六回測ったんだよ」


先に聞こえたのは、以前より少し低くなったキドの声だ。


「回数だけ増やしても、条件が揃っていなければ意味はありません」


「二回目からは揃えた」


「三回目からです」


続いたのはカインの声だ。俺は眉間に皺を寄せ、薄目を開けた。


坂を上がりきって庭に姿を現したのはキドだった。


ずいぶん背が伸びた。カインが帝国で立ち上げた技術検証院の灰色の作業外套を羽織り、胸元には留学生用の識別徽章がついている。


腰には、ウルムから持っていった測定具。肩から帝国製の細長い器具箱を提げ、分厚い記録冊子を脇に抱えていた。相変わらず、外套の着方は雑だ。


その後ろから、カインがゆっくりと坂を上がってきた。こちらは帝国の外套をきちんと着込んでいたが、目の下の隈までは隠せていない。


「まあ、キド。帝国から戻っていらしたのですね」


「今朝着いた。西門で手続きを済ませて、学校に荷物を置いてきた」


キドはそう答えながら、抱えていた分厚い冊子を持ち直した。


「先に休むよう勧めたのですが、聞きませんでした」


「カインさんだって、そのまま丘に行くって言っただろ」


「私は馬車の中で休みました」


「あれは資料を読んでただけだ」


「目は閉じていました」


「お前ら、徹夜の判定を俺にさせるな」


二人とも黙った。


キドは、俺の寝椅子の横に立った。


「アシュラン様。共同試験で、変な数字が出た」


「カインがいるだろ」


「現時点で、最も可能性の高い結論は出ています」


カインが銀縁の眼鏡を押し上げる。


「なら、その結論で報告すればいいだろ」


「そうしたくないから来たのです」


俺は片肘をつき、カインを見た。


キドが半年前から取り組んでいるのは、帝国北部の高地へ水を引く共同事業だ。送水管と測定手順はウルム、魔導揚水機と現地工事は帝国が受け持つ。乾いた集落へ、飲み水と畑の水を送るためのものだったが……事業の内容自体は、特に珍しくもない。


「試験を始めると、一定の間隔で水量が落ちるんだ。その少し前に、管の上の方で低い音がする」


「漏れは」


「ない。継ぎ目は全部調べた」


「取水側の水位は?」


「揃えてある」


返事が早い。


カインが冊子を開き、折り込まれた測定表をこちらへ向けた。


「帝国側では、揚水機の運転によって管内へ残ったマナが、流量の変動を起こしていると見ています。今のところ、それが最も整合する説明です」


「妥当だな」


「ええ。ただし、この日の数値を除けば、です」


カインの指が、測定表の一列をなぞった。


揚水機を止め、異常音が出た区間の管も交換してある。それでも、通常の水圧だけで流した試験で同じ落ち込みが出ていた。


「誤差じゃないのか」


「私も最初はそう考えました」


「俺は違うと思った」


キドが横から割り込む。


「測り直したら、また出たから」


「六回のうち、最初の二回は測定条件が揃っていません」


カインがすぐに訂正した。


「開始時刻と水位の基準が違っていました」


「だから、その二回は外した。残り四回は使えるだろ」


「ええ。四回分については、現時点で訂正すべき箇所はありません」


カインは測定表へ目を落とした。


「マナの残留で報告書をまとめることはできます。ですが、この値を誤差として捨てれば、結論に合わせて記録を選ぶことになる。私は納得できません」


「それで、俺ならどこを疑うか聞きに来たのか」


「はい。意見を伺いたかったのです」


「今日は休む予定なんだがな」


キドが別の頁を開いて差し出した。


「それは、これを見てから決めてくれ」


生意気な言い方まで、変わっていない。


俺は差し出された頁に目を落とした。


「水量が落ちた時の取水槽は」


「ここ。水位の変化はこの範囲」


キドの指がすぐに該当欄へ移る。


「弁を触った奴は」


「三回目だけ整備員が触ってる。でも、その前に流量が落ち始めてる。聞き取りは次の頁」


「管を固定している間隔は」


「図面に書いた。古い区間と交換した区間で違うから、両方測ってある」


前なら、質問を聞いてから探し始めていた。

今はどこに何が書いてあるか、頭に入っているらしい。


頁には訂正線と書き足しが重なり、何度も見返した箇所には折れ癖がついていた。間違えた数字も消されてはいない。その横には、数字を間違えた理由と、測り直した結果が書き添えられている。


「音がした場所は毎回同じか」


「だいたい同じ。でも、ぴったりじゃない。管の一番高いところから、前後二メトルくらい」


「外気温は?」


「測った。朝と昼で試してる」


「水温は」


「入口と出口なら」


「一番高い地点は?」


キドの指が止まった。


「……そこは測ってない」


カインが冊子を引き寄せ、数頁戻る。しばらく探した後、眼鏡の奥で目を細めた。


「外気温と、送水前後の水温だけです。管の頂部は記録していません」


「頂部の圧力も連続では取ってないな」


「試験の前後だけだ」


「なら、その二つは測れ。原因だと決まったわけじゃないが……。ただ、見ていない条件を残したまま、マナのせいにするのは早いだろ」


キドはすぐに余白へ書き込んだ。


カインは腕を組み、測定表と配管図を交互に見る。


「温度による管内の圧力変化……いえ、空気が残っていれば、その膨張も考える必要がありますね」


「まだ決めるな。音が先なら、別の原因もある」


「分かっています」


カインは答えるなり、図面の余白へ新しい式を書き始めた。


「実物の設備は帝国にあるんだな?」


「うん。でも、同じ条件を再現した小型設備を、ウルムの技術工房にも組ませてある」


「昨日、完成したとの報告を受けています」


俺は寝椅子の縁へ腰をずらし、脱いでいた靴に足を入れた。


「最初からそれを言え」


「言う前に、アシュラン様が休むって断ったんだろ」


「現物があるかどうかで話は違う」


エレノアは何も言わずに家へ入り、薄手の上着と使い慣れた革の鞄を持って戻ってきた。


俺は寝椅子から立ち上がりながら言った。


「現物を見るだけだ。今日中に原因を突き止める気はないからな」


キドが冊子を抱え直す。


「誰も今日中に解決しろとは言ってないだろ」


「言わなくても、お前は急かすだろ」


「それ、アシュラン様が勝手に気になってるだけじゃないか?」


俺は答えず、差し出された上着に袖を通した。


「師匠、夕食までにはお戻りくださいませ」


「試験設備を見るだけだ。そんなにかからん」


キドがカインを見た。カインは眼鏡を直しただけだった。


「では、遅くなると思っておきますわ」


「信用がないな」


「長くご一緒していますもの」


エレノアはいつもの鞄を差し出した。


俺が受け取ると、留め具の脇でほつれていた革は、いつの間にか縫い直されていた。


頭上から、リナの声が落ちてきた。


「アシュラン、昼寝は?」


「帰ってからだな」


「じゃあ、私は先に寝てる」


「好きにしろ」


リナは聖樹の太い枝に頬をつけ、そのまま目を閉じた。


キドが先に坂を下り、カインがその横へ並んだ。俺も二人の後を追った。


少し下ったところで、背後から声が届いた。


「師匠」


足は止めなかった。


「行ってらっしゃいませ」


振り返らず、片手を上げた。


「ああ。行ってくる」


丘の家が木々の向こうへ隠れるより先に、キドが口を開いた。


「低い音がしたのは、水量が落ちる少し前だった」


「少しじゃ分からん。何秒前だ」


「そこまでは測ってない」


「なら次は測れ」


「音の記録装置も用意しましょう」


カインが言う。


「大げさにするな。まず耳と時計で十分だ。器具は、位置が絞れてからでいい」


俺はキドの冊子を開いたまま、二人と丘を下りていった。


まったく。快適な辺境ライフってのも、楽じゃない。

ここまで『追放物理学者の快適辺境ライフ』をお読みいただき、本当にありがとうございました。

長い物語を最後まで見届けてくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。

アシュランたちの暮らしが、皆さまの心に少しでも残ってくれたなら嬉しいです。


「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。

感想やレビューも、心からお待ちしています!

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