第227話 日常と手順
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三国との条約を結んでから、三か月が過ぎた。
中立自治都市だなんだと立派な肩書きがついても、朝になれば腹は減るし、水路には泥が溜まる。西門に立つ門番の仕事も、ほとんど変わっていなかった。
「これは王国女王陛下の印だぞ」
工房へ向かう途中、西門の前を通りかかると、荷車を引いた商人が通行証を掲げていた。
相手をしているのは、最近門番を任されるようになった若い男だ。
「はい。送り主は確認できました」
「なら、通してもらえるな」
「次は荷物を確認します。積み荷を開けてください」
商人の笑顔が引きつった。
「だから、これは王都からの公式な荷だ。封も見ただろう」
「見ました」
「では、なぜ開ける」
「通行証に書かれた荷物と、実際の荷物が同じか確かめるためです」
門番は木札の項目を指差して、淡々と手順を繰り返す。
商人が舌打ちをしたところで、奥の詰所からロイルが出てきた。商人はロイルを見つけるなり、声を張り上げた。
「ロイル殿! こちらは女王陛下からの――」
「印があるから、誰から届いたかは分かります」
ロイルは商人の言葉を遮り、いつも通りの声で返した。
「ただし、それは、確認を省いてよいという意味ではありません」
商人はしばらく黙っていたが、やがて御者へ荷台の覆いを外すよう命じた。
中には、王国から届いた書状の束、学校で使う大量の紙、薬草、それに樽に詰められた保存食などが積まれていた。申告にない物は見当たらない。
門番は紙に書かれた数と荷物を一つずつ照らし合わせ、ようやく頷いた。
「確認しました。お通りください」
商人は納得していない顔をしていたが、それ以上は何も言わず、荷車を進めた。
その後ろ姿を見送っていると、俺の視線に気づいたロイルが、こちらへ歩み寄ってきた。
「何か問題がございましたか」
「いや。特に聞かれなかったからな」
「手順通りに進めましたので、問題がありませんでした」
「……まあ、それで良い」
俺はそれだけ言うと西門を離れ、市場の荷置き場へ向かった。
市場へ入ったところで、共同水場の方から声が上がった。
「水が出ないぞ!」
俺が足を向けると、すでに数人の商人と村人が水場の周りに集まっていた。
四か所ある吐水口から流れ出る水が、どれも糸のように細くなり、やがてポタポタと落ちるだけになっていた。
水を待っていた者たちが、一斉に吐水口へ集まる。
「押すな!」
「先に並んでいたのはこっちだ!」
「荷車に水を掛けたいんだ。少しくらい――」
「飲み水を優先します!」
人混みの後ろから、ロイルの声が飛んだ。
西門を離れたばかりだというのに、もう追いついてきたらしい。
市場の共用蛇口だけではなかった。近くの家からも、蛇口の勢いが急に弱くなったと住民が出てきている。
「洗い物と荷車への水掛けは止めてください。各家では、今出ている分を汲み置いてください。家畜用の水は、南側の水槽に残っている分を使います」
「うちの蛇口は、もうほとんど出ないよ」
「貯水槽に残っている分は、飲み水と救護所へ回します。洗い物や水撒きは止めてください。水の止まった家を確認しますので、ここへ集まらず、家で待っていてください」
例の黒札を入れた女が、近くにいた者へ声をかけた。
「東側の家は、私が見てくるよ。子供と年寄りのいる家からでいいんだね?」
「お願いします。水が完全に止まっている家があれば、こちらへ知らせてください」
女は頷き、数人の住民と一緒に住宅の並ぶ方へ走った。
救護所からエレノアも出てくる。
「救護所には、まだ水がありますわ。熱のある方や、小さな子供のいる家で水が足りない場合は、こちらへ知らせてくださいませ」
ギードが遅れて市場へやってきた。
「どうなっとる?」
「取水側の問題だと思われます。飲料水を優先し、家畜分は南へ回しました」
ロイルが答える。
ギードは細くなった蛇口と、集まった者たちを見た。
「その順でよい。水路の方は誰が見に行った?」
「キドとヘイムです」
ちょうどその時、水路の上流からキドの声が響いた。
「ここだ! 詰まってる!」
俺たちは水路沿いを上った。
取水口では、ヘイムが水へ膝まで入り、キドが石の縁に腹ばいになっている。
水面の下に据えられた金網には、枯れ草や木の葉がびっしりと張りついていた。水が通る隙間がほとんどない。
俺が作らせたものより、網目が細かい。
「網を変えたのか」
キドが頷いた。
「うん。前のだと、細かい泥が水路に入ってただろ。もっと細かくすれば減ると思ったんだ」
「で、減ったのか?」
「泥は減った」
水の中にいたヘイムが、網に絡んだ草をつまみ上げた。
「その代わり、こいつが詰まった。細かくしすぎたな」
キドは一度走り去り、木の板を抱えて戻ってきた。
板には、元の網と新しい網の寸法が並べて描かれている。交換した日、水の量、水路に溜まった泥の厚さ。最後の三日は、水量が少しずつ落ちていた。
「昨日の夕方から減り始めてた。今朝もう一度測ってから、アシュラン様に言おうと思ってたんだけど……その前に止まった」
「言うのが遅かったな」
「うん。それは失敗した」
キドは言い訳をしなかった。
「水が減り始めた時に、詰まりを見に来ればよかった。網を変えた後、泥の量ばっかり見てたから」
ヘイムも水の中から続ける。
「掃除の回数も決めてなかった。目が細かくなれば、詰まりやすくなるのは当たり前だったな」
板の裏には変更前の図もそのまま残されており、古い網も捨てずに工房の倉庫へ保管してあるという。
「なら、戻そうと思えば戻せるな」
「でも、そのまま戻したら、また泥が入る」
キドは板の余白へ線を引いた。
「だから、次は網を二つにする。最初の粗い網で葉っぱを止めて、その後ろに細かい網を置く」
「細かい方だけ外せる枠にすれば、掃除も楽になる」
ヘイムが付け加える。
二人とも、もう次に試すものを考えていた。
「悪くない」
キドが目を丸くした。
「怒らないの?」
「何で怒る。泥を減らそうとしたんだろ」
「でも、水を止めた」
「だから、次は止めない方法を試す。それでいい」
俺は記録板の水量を指した。
「ただし、次からは数字が落ち始めた時点で調べろ。完全に止まるまで待つな」
「分かった」
「それと、変える前のものは残しておけ。図も、失敗した数字も消すなよ」
キドは板を抱え直した。
「消さないよ。失敗したところが分からなくなったら、また同じことするだろ」
ヘイムが金網を見ながら鼻を鳴らす。
「それに、うまくいったところまで分からなくなる。泥が減ったのは本当だからな」
そこまで分かっているなら、俺が言うことはあまりなかった。
「それで、今度はどうする?」
俺が尋ねると、キドは詰まった網へ目を向けた。
「端から少しずつ草を取る。一気に流したら、下の水路に泥まで流れるから」
「継ぎ目にも圧がかかる」
「じゃあ、ヘイムさんが網を押さえて、俺が少しずつ取る」
ヘイムが水の中で顔をしかめた。
「結局、俺はここから出られないのかよ」
「今上がったら、網を押さえる人がいなくなるだろ」
「誰のせいで入ったと思ってる」
「二人で変えたんだから、二人で直すんだよ」
キドはそう言って、網の端へ手を伸ばした。
俺は少し離れた石の上へ腰を下ろした。
「急ぐなよ。水の量を見ながらやれ」
「分かってる」
二人は網に絡んだ草を、端から少しずつ外し始めた。
水路を走る水の音が徐々に大きくなる。
市場へ戻ると、吐水口から濁った水が勢いよく飛び出した。
待っていた者が桶を差し出そうとしたが、ロイルが止める。
「まだ使わないでください。水が澄むまで流します」
「もったいないだろ」
「泥の混じった水の方が問題です」
エレノアも水を掬い、光に透かして見た。
「もう少し待ってくださいませ。まだ細かな泥が残っています」
しばらく流すと、水は元の透明さに戻った。
エレノアが頷き、ロイルが水場の使用を再開させる。
「各家の蛇口を確認してください。まだ水の弱い場所があれば知らせてください」
住民たちが住宅区画へ散っていく。
しばらくすると、通りの向こうから声が返ってきた。
「東側は出たぞ!」
「救護所も問題ありませんわ!」
「家畜はまだ南へ回せ!」
すぐに、いつもの言い合いが始まった。
自治都市化に反対していた男が、水の入った桶を持ち上げる。
「都市になっても、水は止まるんだな」
隣にいた男が笑った。
「そりゃ止まるだろ。都市になったら葉っぱが水路を避けるのかよ」
「それもそうか」
男は順番札をロイルへ返し、桶を担いで帰っていった。
◇
午後、学校へ行くと、取り外した金網が机の上に置かれていた。
キドは白石板の前に立ち、年下の子供たちへ説明している。
「こっちが前の網。こっちが俺たちで変えた網だ」
細かい網には、まだ千切れた草が絡んでいた。
「泥は減った。でも、葉っぱが詰まって水が止まった」
前の席にいた子供が手を上げる。
「失敗したの?」
「した」
キドはあっさり答えた。
白石板には、交換前と交換後の水量が書かれている。測った日の天気や、水路の泥の量まで並んでいた。
「じゃあ、前のに戻すの?」
「戻さない。今度は網を二つにする」
キドは、白石板に新しい図を描いた。
「最初の網で葉っぱを止めて、次の網で細かい泥を止める。細かい方だけ、上から外せるようにするんだ」
「それでも水が止まったら?」
キドの手が止まった。
少し考えてから答える。
「また記録する。それから別のを試す」
俺は教室の後ろで腕を組んだまま聞いていた。
キドが白石板へ水量を書き足す。
「こっちは、一日で流れた水が――」
「違う」
つい口が出た。
「それは半刻で測った量だ。一日分ではない」
「あ……」
キドが慌てて布で文字を消す。
「見てるだけじゃなかったのかよ」
「間違いをそのまま教えろとは言ってない」
子供たちが笑った。
◇
夕方、迎賓館の作業部屋へ戻ると、机の上に一枚の報告書が置かれていた。
王国からの書状と物資を受領。
市場の水場を一時停止。飲料水を優先して配分。
取水口の詰まりを除去。明日、金網を改修する。
負傷者、病人なし。
廊下を歩いていたロイルを呼び止めた。
「王国からの書状は?」
「ギード村長と確認しました。急ぎの内容ではありません」
「水場は?」
「今夜の使用に問題はありません。明日の改修後、アシュラン様にも水量を確認していただく予定です」
「他は?」
「処理済みです」
ロイルは一礼し、そのまま階段を下りていった。
俺は、机の上の報告書にもう一度視線を落とす。
報告書を二つに折りたたみ、机の端へ置いた。
外へ出ると、学校の方からキドが走ってきた。
手には、新しい網の図を描いた木板と測定棒を持っている。
「アシュラン様。明日、二段にした網で水の量を測るから」
「そうか」
「それで、一つ聞きたい」
修理の方法かと思ったが、違った。
「どこまでなら、俺たちで変えていい?」
すぐには答えられなかった。
好きにさせれば、また水が止まるかもしれない。
だからといって、毎回俺の返事を待たせるのも違う。
「変える前のものを残せ」
「うん」
「どこを変えたか書け。失敗した時に戻せるようにしておけ」
「それでも駄目だったら?」
「その時は呼べ」
キドは頷いた。
「分かった。じゃあ、明日は呼ばなくて済むようにやってみる」
丘へ続く道から、エレノアがこちらを見ている。
「帰りませんの?」
「今帰る」
「今日は、ずいぶんお暇そうでしたわね」
エレノアが笑った。
「水場が止まっただろ」
「直したのは、キドとヘイムですわ」
「俺も見ていた」
「そうでしたわね」
学校へ駆けていくキドの背中を見る。
「あれ、工房のものなんだがな」
「明日には返してくださいますわ」
キドはもう学校の戸口へ消えていた。
「返ってこなかったら、取りに行く」
そう言って、俺はエレノアと坂道を上った。
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