第226話 帰る者と残る者
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翌朝。中立自治都市となったウルムで、最初に待っていたのは宴の片づけだった。
広場には、昨夜のどんちゃん騒ぎで使われた長机が散乱し、空の酒樽が転がり、木杯があちこちに散らばっている。
俺は朝日を浴びながら、手近な長机の上の木杯を拾い集めていた。
キドが木杯を拾いながら、指を折っている。
「二十七、二十八……」
「キド、そっちの籠も頼む!」
「分かった! ……あれ、いくつだっけ? ……もう! 話しかけんなよ! また数が分かんなくなっただろ!」
キドは頭を掻きむしりながら、また一から数え直していた。
ドルガンは酒樽の脇に座り、片手で頭を押さえている。
「誰だ、樽に酒を残したままにした馬鹿は……もったいねえ」
「親方が一番こぼしてましたよ」
弟子に言われ、ドルガンは顔をしかめた。
「覚えてねえことは、やってねえのと同じだ」
「そんなわけあるか」
俺が横から言うと、ドルガンは聞こえないふりをした。
ヘイムが長机の端を持ち上げる。
「都市になった次の日の仕事が、宴の片づけかよ」
「昨日まで村だった連中が、一晩で立派になるわけないだろ」
俺が杯の束を木箱に放り込みながら返す。
「アシュラン、お前も持て」
「分かったよ」
俺は反対側を持ち、二人で机を運んだ。
宴をやったこと自体は後悔していないし、片づけが面倒なのも承知の上だ。昨日くらいは羽目を外してもいい。
ただ、飲みすぎた馬鹿どもが誰一人起きてこないのだけは問題だった。
長机を倉庫の脇へ置いたところで、広場の向こうからロイルが歩いてきた。
こいつも昨日遅くまで飲んでいたはずだが、呆れるほど平然としている。脇には見慣れた分厚い記録帳を抱えていた。
「三国の一行が、間もなく出立します」
「そうか」
「西門で出村記録を取りますので、アシュラン様もお越しください」
「俺が行く必要はあるのか」
「皆様から、出立前に挨拶をしたいとのことです」
「面倒だな」
「それは、先方へ直接お伝えください」
ロイルは返事を待たず、西門の方へ歩き出した。
ずいぶん遠慮がなくなったものだ。
「アシュラン様、机は?」
キドが尋ねる。
「ヘイムに任せる」
「おい」
背後から声が飛んできたが、聞かなかったことにした。
◇
西門へ向かう途中、礼拝堂の前を通りかかると、バルデルとエレノアの姿があった。
バルデルは、この一か月使っていた箒や水桶を、元の場所へ丁寧に戻していた。
礼拝堂の扉は開いていた。中では、いつものように村人が思い思いに過ごしていた。
長椅子で静かに休んでいる老人。祭壇の隅に野花を一輪置いて、すぐに戻っていく女。何もせず、ただ薄暗い堂内を眺めているだけの男。
大司教が見に来ようが、バルデルが旅支度をしていようが、ここを使う連中には関係ない。
籠へ外套を収めるバルデルの背中へ、エレノアが声をかけた。
「本当に、あなたも戻りますの?」
「はい」
バルデルは外套を籠へ収めた。
「一か月で、ようやくこちらの手順にも慣れてきたところなのですけれど」
「急いで帰らなくてもいいんだぞ」
俺が言うと、バルデルは困ったように笑った。
「聖教国にも、ここを実際に見た者が必要ですから」
「戻れば、面倒が増えるぞ」
「ええ。おそらく、かなり」
バルデルは礼拝堂の中へ目を向ける。
長椅子の老人は祈るでもなく、ただ座っている。しばらくすると、目を閉じた。眠いだけかもしれない。
「司祭がいなくても、人はここへ来ます。誰の名も尋ねず、記録も取らず、それでも礼拝堂は礼拝堂のままでした」
「それが普通なんだろ」
「ここでは、そうなのでしょう」
「大司教も、ここを見たはずだ」
俺が横から口を挟むと、バルデルは少しだけ間を置いた。
「大司教が見たものと、私が見たものは、同じではないでしょう」
バルデルは静かに続けた。
「管理されていないから不十分なのだと、聖教国では判断されるかもしれません。それは違うと、私から伝えなくてはなりません」
エレノアが礼拝堂の中を見た。
老人の隣へ、今度は若い男が座る。二人は言葉も交わさなかった。
「でしたら、戻らなくてはなりませんわね」
「そう思っております」
「救護所のことも報告なさるのですか?」
「もちろんです。救護所で教わったことも、すべて。祈ることと、病人のために手を動かすことは、別ではありませんから」
エレノアの顔が少し緩んだ。
「忘れないでくださいませ」
「忘れようがありません」
バルデルは籠を持ち上げた。
俺は礼拝堂から出てきた老人を避けながら、道を開ける。
「次に来る時も、勝手に入るなよ」
「もちろんです」
バルデルは穏やかに答えた。
「西門で名乗り、滞在の目的も伝えます」
「ああ、そうしてくれ」
エレノアも俺たちと一緒に西門へ向かった。
◇
西門の前には、三国の馬車と護衛たちが整然と並んでいた。
ロイルは窓口の前に立ち、入村時とまったく同じように、出村者を一人ずつ確認している。
女王も皇帝も大司教も、他の者と同じように順番に名を確かめていた。
皇帝ヴァレリアンは、帝国保管用の条約文をベアトリクスへ預けたところだった。
ロイルが記録帳を閉じかけると、皇帝が声をかける。
「一つ確認しておこう。今後、帝国からウルムへ正式な書状を送る場合も、貴公宛てでよいのか」
ロイルはすぐには答えず、ギードを見た。
ギードが白い髭を撫でる。
「外から来る話は、まずロイルへ送ってくれ。こちらで決める必要があれば、こやつが回す」
皇帝は改めてロイルを見た。
「では、貴公がウルムの窓口ということだな」
「実務上は、そうなります」
わざわざ実務上と付けるあたり、役目が増えたとは認めたくないらしい。
セヴランも、少し離れたところから口を挟んだ。
「聖教国からの正式な書状も、ロイル殿宛てでよろしいのですね」
「はい。受領した上で、必要な者へ回します」
ロイルは何事もなかったように、二つの確認事項を記録帳へ書き足した。
その隣で、カインが薄い書類の束を抱えていた。
「こちらを、お渡ししておきます」
差し出された書類を受け取る。
帝国で使う技術記録の改訂案だった。
頁をめくると、失敗例を記す欄は、削られずに残っていた。
「失敗例を記入する欄は残せました。ただ、実際に書かせる方が難しいですね」
「何かあったのか」
「成功した結果だけを上へ出したがる者が多いのです。失敗を書けば、自分の評価が下がると考えている」
「まあ、簡単には変わらないだろうな」
「ええ。ですから、失敗を正しく残した者を評価するところから始めます」
近くで聞いていた皇帝が眉を上げた。
「余の国で、また面倒な制度を増やす相談をしているな」
「陛下がお認めになった制度ですが」
「そうであったか?」
「署名もいただきました」
カインが真顔で答える。
皇帝は少し考えるふりをした。
「ならば仕方がない。励め」
「許可したのなら、最後まで面倒を見ろよ」
俺が言うと、皇帝が笑う。
「貴公の弟子は、師に似て遠慮がない」
「俺は思慮深いだろ」
カインが小さく首を振る。
「それは違うと思います」
俺が睨むと、カインは少し笑った。
皇帝が馬車へ向かい、カインも書類を抱えて帝国側の列へ戻る。
聖教国の馬車の前では、セヴランがこちらを待っていた。
「では、また伺うこともあるでしょう」
変わらない笑みだった。
「来るなら、次も手順通りだ」
「もちろんです」
バルデルはエレノアと俺に頭を下げ、聖教国の列へ入った。
馬車へ乗り込む前に、礼拝堂の方を一度だけ振り返った。
◇
王国の馬車の周りには、見送りに来た村人が集まっていた。
村の女たちが焼いた固いパン、日持ちのする干し肉、布に包んだ焼き菓子を持ち寄ってきていた。
「旅の途中で食べてください」
差し出された包みを、シャルロッテは護衛へ回さず、一つずつ自分の手で受け取った。
「ありがとうございます。道中で、皆といただきます」
前にいた子供が、シャルロッテを見上げた。
「また来るの?」
周囲の大人が止めようとしたが、シャルロッテは先にしゃがみ、子供と目を合わせた。
「来られるように、王国で仕事をします」
「いつ?」
「約束できる日が決まったら、ロイルさんへお手紙を送ります」
子供は首を傾げたまま、それでも元気よく「分かった」と頷いた。
ロイルが記録帳を開く。
「王国女王、シャルロッテ・エルディナ殿。出村を記録します」
シャルロッテは、一瞬だけロイルを見た。
「やはり、そう呼ばれるのですね」
「記録には、正式名が必要ですので」
「そうでしたね」
シャルロッテは、それ以上言わなかった。
ロイルも記録帳へ視線を戻す。
シャルロッテはギードへ挨拶し、エレノアと言葉を交わしたあと、俺の前で足を止めた。
「アシュラン様」
「何だ」
「ウルムのことを、よろしくお願いいたします」
俺は広場から見送りに来た村人たちを見た。
その中には、ギードもロイルもいる。エレノアもいる。宴の片づけを途中で抜けてきたキドやヘイムまでいた。
「もう俺一人に言う話じゃないだろ」
シャルロッテも俺の視線を追った。
「そうですね」
少しだけ笑う。
「では、皆さんにお願いします」
「王国の方は、お前が何とかしろ」
「はい」
今度の返事には迷いがなかった。
「それが、私の仕事です」
王国へ戻っても、ここでロッテと呼ばれた時間まで消えたわけではない。
馬車の扉が閉じられる。
シャルロッテは窓を開けたまま、見送りの声が届かなくなるまで村の方を見ていた。
馬車が西の街道を進んでいく。
ロイルは記録帳を抱え、王国の馬車が見えなくなるまで立っていた。
俺は何も言わなかった。
◇
馬車の音が遠ざかると、西門前には轍と踏み荒らされた跡だけが残った。
門番の横で背伸びをしていたキドが、俺を見上げて尋ねる。
「これで終わり?」
俺は広場の方へ顔を向けた。
宴で使った長机が、まだ何台か残っている。
「終わったように見えるか」
「全然」
「なら、そういうことだ」
ギードが、記録帳を閉じようとしていたロイルを呼び止めた。
「ロイル。午後の話し合いにも出てくれんかの」
「何についてでしょうか」
「市場の荷置き場と、水場の使い方じゃ」
ロイルが少し困った顔をする。
「それは、村の中の話では?」
「外から来る者が増えたせいで、水場が混んどる。外と中をきれいに分けられんようになった」
ロイルはギードを見てから、俺へ視線を向けた。
「俺を見るな」
「まだ何も申し上げていません」
「断りたい顔をしてる」
「アシュラン様ほどではありません」
ギードは、二人のやり取りを待たずに歩き出した。
「まずは、使う者の話を聞くところからじゃ。記録する者がおらんと始まらん」
ロイルは記録帳を抱え直し、あとを追おうとする。
その時、市場の方から声が飛んだ。
「ロイル! ちょっと来てくれ!」
呼んだ男の周りには、商人と村人が数人集まっていた。
ロイルはギードと市場を見比べる。
「先に、あちらを確認してきます」
短く告げると、返事を待たずに市場へ向かった。
人の輪へ入った途端、あちこちから声が上がる。
「水場の順番が――」
「荷車を置く場所が足りないんだ」
「井戸の前を塞いだ奴がいて――」
ロイルは片手を上げた。
「順に聞きます。まず、水場を使っていた方からお願いします」
重なっていた声が止まる。
ロイルは記録帳を開き、最初の一人へ顔を向けた。
「アシュラン様!」
今度は広場からキドが呼んでいる。
「こっちも手伝ってくれ!」
「ロイルに頼め」
「今、連れていかれた!」
市場の方を見ると、ロイルはもう何人もの住民に囲まれていた。
広場では、キドが長机の端を持ったまま待っている。
俺は返事の代わりに、反対側を持ち上げた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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