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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第15章 世界の基準点と木陰のまどろみ

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第225話 署名と宣言

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

翌朝、迎賓館の大会議室には、昨日までとは違う静けさがあった。


長机は同じように八角形に並べられている。けれど、机の上を埋めていた草案や記録帳は片づけられ、中央に置いた小卓には、四通の条約文だけが並んでいた。


ウルム、王国、帝国、聖教国。

それぞれが一通ずつ持ち帰るためのものだ。


ロイルは四通を順に確かめてから、顔を上げた。隣では、カインとバルデルが各国の文官から確認済みの書類を受け取っていた。

文官たちはそれぞれの席を離れ、壁際へ下がる。


俺はギードの斜め後ろに立ち、その隣にはエレノアが控えている。昨日、俺はあえて文案を見なかったし、今さら覗き込む気もない。


窓の外からは、昨日より多くの人の声が聞こえてきた。


「最終文面を確認します」


ロイルが条約の要点を読み上げた。


ウルムは、王国、帝国、聖教国のいずれにも属さない中立自治都市となる。

三国はウルムに行政権、徴税権、軍事権、宗教的管理権を及ぼさない。

交易、技術交流、救護支援は、双方の合意に基づいて行う。

ウルムへ入る者は、ウルムの定めた手順に従う。

王国は、ウルムの住民を逃散民として扱わず、身柄の引き渡しも求めない。

村内記録は外部へ提出しない。


長かった話も、こうして並べれば数行で済む。


その数行を決めるために、ずいぶん時間を使った。


「昨日までに確認された内容との相違はありません。各国の文官からも、同じ回答をいただいております」


カインとバルデルが、それぞれ短く頷く。

ロイルは机を囲む四人の代表者へ視線を向けた。


「最終文面について、異論はございますか」


最初にシャルロッテが頷いた。


「王国に異論はありません」


皇帝ヴァレリアンも続く。


「帝国もだ」


最後に、セヴラン大司教が条約文へ目を落とした。


一拍置いたが、それだけだった。


「聖教国にも異論はありません」


ロイルが小さく息を吐いた。


「では、署名をお願いいたします」


ロイルが、四通の条約文とインク壺をギードの前へ置いた。


「まず、ウルム代表から」


ギードが筆を取り上げたが、そこでわずかに指を止めた。

王国女王、帝国皇帝、聖教国大司教。並んだ顔を順に見てから、俺へ目を向ける。


「わしが先でよいのかの」


「ウルムの条約だろ」


「そうじゃがな」


「村長の仕事だ」


ギードは白い髭を撫で、諦めたように筆を持ち直した。


筆先が羊皮紙を擦る音が、静かな部屋に響いた。


長く村長をやってきた男の字は、思っていたよりしっかりしていた。


続いてシャルロッテが四通を受け取り、迷わず筆を走らせる。


帝国皇帝ヴァレリアンは、黙って筆を受け取り、四通に署名した。


最後に、セヴラン大司教。

彼は、ここでも一拍だけ間を置いたが、静かに筆を走らせた。


四通すべてに、四人の名が並んだ。


ロイルは一枚ずつ確認した。

いつもならすぐに次の頁へ移る男が、今日は最後の一枚を少し長く見ていた。


やがて顔を上げる。


「署名を確認しました。これをもって、条約は成立となります」


誰も声を上げなかった。


終わった。

そう思ったが、まだ実感がついてこない。


カインがようやく肩を下ろし、バルデルは目を閉じて短く息を吐いた。


「迎賓館の前に、多くの住民が集まっています」


皇帝も立ち上がり、広場を見下ろした。


「これほど待っているなら、結果を伝えてはどうだ」


シャルロッテも立ち上がり、窓の外へ視線を向ける。


「お待たせしたままにはできませんね」


セヴランも何も言わずに席を立った。


ギードが白い髭を撫で、俺の方を見た。


「では、話してくるかの」


「俺を見るな。村長が言えばいいだろ」


「分かっとるわい。お主も来いという意味じゃ」


仕方なく、俺も席を立った。



バルコニーへ出ると、広場を埋めた人々の顔が一斉に上がった。


誰かが呼びかけたわけでもないだろうに。広場には、人が溢れていた。


工房から来た者は革の前掛けをつけたままだし、畑から来た者の靴には土が残っている。水桶を置いてきた女たち、学校から連れ立ってきた子供たち。キドとリナも前の方にいた。


広場の端に目をやると、黒札を入れた女が、子供の手を握って立っていた。

そして、自治都市化に反対していた男は、昨日と同じように腕を組んでいた。


ギードが一歩前に出る。


ギードの近くには、シャルロッテ、皇帝、セヴランが並んだ。

ロイルは条約文を抱え、そのすぐ後ろ。俺とエレノア、カイン、バルデルは、さらに一歩下がった。


俺たちがバルコニーに姿を見せると、広場のざわめきが少しずつ収まった。


ギードは欄干へ手を置く。


「先ほど、王国、帝国、聖教国との条約が結ばれた」


ざわめきが消えた。


「これにより、ウルムは王国にも、帝国にも、聖教国にも属さぬ中立自治都市となる」


中立自治都市。


聞き慣れない言葉に、すぐ声を上げる者はいなかった。


「王国は、ここに暮らす者を逃散民として連れ戻さん。帝国は兵を置かん。聖教国は、礼拝堂や救護所を自分たちのものにはせん」


広場のあちこちで、顔を見合わせる者がいた。


「じゃが、明日から急に暮らしが変わるわけではない。畑へ行く者は畑へ行く。鍛冶場で鉄を打つ者は、いつも通り仕事をする。祈りたい者は礼拝堂へ行き、子供らは学校へ行く」


ギードは一度言葉を切った。


「それを、外の誰かに勝手に決めさせん。そのために結んだ条約じゃ」


しばらく、誰も声を出さなかった。


昨日、礼拝堂で会った老人が、人の間から顔を出した。


「では、本当に、もう王国へ連れ戻されんのじゃな?」


「ああ」


ギードは迷わず答えた。


「女王も、その条約に名を書いた」


ギードの視線が、シャルロッテへ向く。


シャルロッテは欄干の前まで進み、広場を見渡した。


王国から逃れてきた者もいる。

追われる途中で家族や故郷を失い、この村へたどり着いた者もいるだろう。


その視線を、シャルロッテは正面から受け止めた。


「王国は、この条約に記された約束を守ります」


声は広場の端まで届いた。


「皆さんが、ここで生きると決めたことを、二度と王国の都合で覆させはいたしません」


シャルロッテは背筋を伸ばしたまま、胸元へ右手を添えた。

頭を下げたのは、ほんのわずかだった。


それでも、形だけの礼には見えなかった。


村でロッテと呼ばれていた頃には、こんな日が来るとは思わなかった。

今、その彼女が王国の約束を口にしている。


俺は何も言わず、シャルロッテの横顔へ目を向けた。


やがて、老人が手を叩く音がした。

乾いた一音が、広場に残った。


工房の方からも手を打つ音が重なった。

拍手が広場の端まで届いたところで、誰かが声を上げたのをきっかけに、歓声が上がった。


泣きながら隣の者にしがみつく女がいた。

何が決まったのか分からないまま、大人の真似をして手を叩く子供もいる。


キドは両腕を上げて叫び、リナはその隣で何度も頷いていた。


広場の端にいた女は、すぐには拍手をしなかった。

子供の手を握ったまま、木陰の低い柵と腰掛けを見る。


そこには、今日も商人の荷物は置かれていない。


女はそれを確かめると、ようやく片手で拍手を始めた。


反対していた男は、まだ腕を組んでいる。


隣の男が笑いながら肩を叩いた。


「まだ納得してないのか」


「条約は結んだが、守られるかどうかは、これからだろ」


もっともだ。


男は腕を組んだまま、それでも広場から帰ろうとはしなかった。


ロイルは条約文を胸に抱えたまま、しばらく動かなかった。

それから、ようやく一度だけ息を吐いた。


息を吐き終えると、口元がわずかに緩んだ。


カインは広場へ目を向けたまま、隣の皇帝の視線に気づいて姿勢を正した。


バルデルは、礼拝堂で見た老人や、救護所を手伝う者たちを探すように人々を見ている。


セヴランは、礼拝堂で会った老人が拍手する姿を眺めていた。


口元の笑みは変わらない。

ただ、視線だけは老人の周囲へ移り、拍手する者、黙ったままの者を順に追っていた。


ふと横を見ると、エレノアが俺の方を見ていた。


「何だ」


「何でもありませんわ」


歓声が少し落ち着いたところで、広場の奥から大声が飛んだ。


ドルガンだ。


「こんな日に仕事を続けてられるか! 今日は宴だ!」


「そうだ!」


すぐに別の声が返る。


「酒を出せ!」


「肉は足りるのか!」


「牧場の鋼鉄猪(アイアン・ボア)を一頭、捌け!」


「芋ならあるよ!」


次の瞬間には、鍋だの酒樽だのと声が飛び交っていた。


ヘイムはもう長机の数を指で数えている。女たちは鍋と食材の相談を始め、子供たちは家や学校へ知らせに走り出した。


反対していた男も、ようやく腕を解いた。


「ほら、そっちを持て。通り道を塞ぐな」


文句を言いながら、運ばれてきた長机の端を持つ。


エレノアが俺に尋ねた。


「止めなくてよろしいのですか?」


食料の数も、酒樽の残りも気になった。酔いつぶれる奴が出れば、救護所も忙しくなる。明日の片づけだってある。


考えれば、面倒はいくらでも出てくる。


俺は広場を見下ろした。


「たしかに、面倒は増えるな」


「では」


「まあ、今日くらいは止めなくていいだろ」


エレノアは何も言わず、先に階段へ向かった。


広場へ下りると、キドがこちらへ走ってきた。


「アシュラン様、何から運べばいい?」


「俺に聞くな。ヘイムに聞け」


キドはすぐにヘイムのところへ向かう。


入れ替わりに、誰かが木杯を押しつけてきた。


「まだ始まってないぞ」


「持ってるだけならいいだろ」


返す間もなく、今度は長机が運ばれてくる。


「アシュラン、そっちを持ってくれ!」


俺は木杯を近くの樽の上へ置いた。


結局、最初にやることは、条約の説明でも新しい役所の相談でもなかった。


「そこじゃ邪魔だ。もう少し向こうへ寄せろ」


俺も長机の片側を持ち、広場の中へ運んだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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