第224話 礼拝堂と文案
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
会議室を出ると、廊下で待っていた文官たちが一斉に動いた。
ロイルは分厚い記録帳を抱えたまま、王国と帝国の文官たちが待つ小ホールへ向かう。カインも帝国側の書類をまとめ、あとに続いた。
バルデルは一度、セヴランへ顔を向けた。
「大司教、わたくしもご一緒した方がよろしいでしょうか」
「いえ。あなたには文案の確認をお願いします」
セヴランは笑みを浮かべたまま答えた。
「一か月前の報告を書いたのは、あなたですから」
「承知いたしました」
バルデルは頭を下げ、ロイルたちを追った。
俺はその背を見送ってから、玄関へ向かうセヴランの後ろを歩いた。
迎賓館を出ると、昼を少し過ぎた広場には、いつもの人通りがあった。
工房へ向かう途中らしい男が、二階の窓を見上げてから先を急ぐ。水桶を抱えた女たちは、声を抑えて話していた。
変わらないように見えるだけで、皆、迎賓館を気にしていた。
「今日は文面を作るんだろ?」
「署名は明日になりそうだってさ」
「また何か言い出さなきゃいいけどねえ」
俺とセヴランに気づくと、女たちは話を止めた。会釈だけして、水場の方へ歩いていく。
少し離れたところでは、子供が二人、迎賓館の玄関を覗こうとしていた。
「こら。邪魔になるから、向こうで遊んでな」
近くにいた大人に追い払われ、二人は走っていく。
そのうちの一人が、振り返りながら言った。
「ねぇ、明日から町になるの?」
「明日になったら分かる。ほら、早く行け」
大人も、答えを知らないらしい。
セヴランは、声を止めた女たちと、走っていく子供の背を順に見ていた。
「皆さん、随分と気にしておられるようですね」
「そりゃ、自分たちの話だからな」
それ以上は話さず、東へ向かう。
礼拝堂の扉は開け放たれ、村人たちが出入りしている。
畑から来たらしい老人が、入口で靴の土を落として中へ入っていく。俺たちとすれ違った女は、手にしていた小さな花を祭壇の脇へ置き、そのまま帰っていった。
奥の長椅子には、杖を横に置いた男が一人で座っている。
祈っているのか、休んでいるのかは分からない。
本人にとっても、どちらでもいいのかもしれない。
セヴランは礼拝堂の中へ入り、ゆっくりと辺りを見渡した。
壁。祭壇。並べられた長椅子。
その辺りを確かめたあとは、人の出入りの方をじっと見つめていた。
誰が案内するのか。誰が声をかけるのか。何かを記す者がいるのか。
だが、しばらく待っても、何も起きなかった。
子供が入口から顔を出した。
「ばあちゃん、いない?」
奥に座っていた男が、首を横に振る。
「さっき帰ったぞ」
「そっか」
子供はそれだけ聞くと、また外へ走っていった。
セヴランの視線が、その背を追った。
「司祭が常にいるわけではないのですね」
「ああ、そうだな」
「祈り方を尋ねたい者もいるでしょう」
「そういう奴は、エレノアに聞くこともある。何も聞かずに座って帰る奴もいる」
俺は奥の男を見た。
「用がなければ、それで終わりだ」
セヴランは祭壇の方へ目を戻した。
何か言いかけたように見えたが、結局、口にはしなかった。
その時、先ほど入っていった老人がこちらへ歩いてきた。
セヴランの白い法衣を見て軽く頭を下げたあと、俺に尋ねる。
「明日で決まるんじゃよな?」
「文案に変なものが残ってなければな」
老人は、少しだけ眉を下げる。
「王国も、本当に手を出さんのかの」
老人の声に、奥で座っていた男も顔を上げた。
「そのために書かせてる」
「書いたものを、王様が守るかのう」
「守らせるための条約だ」
老人は「そうか」と小さく頷いて、村の奥へ歩いていった。
セヴランが俺を見た。
「信頼されているのですね」
「俺じゃない。あの爺さんは、書いたものをまだ信用してない」
「だからこそ、あなたに尋ねたのでしょう」
面倒な解釈をする男だ。
俺は答えず、礼拝堂の外へ出た。
◇
迎賓館へ戻ると、小ホールの扉が半分ほど開いていた。
長机の上には、何枚もの草案と記録帳が並んでいる。王国、帝国、聖教国の文官たちが席を詰め、ロイル、カイン、バルデルがその間に座っていた。
セヴランは聖教国側の控室へ戻り、俺はそのまま小ホールの前を通り過ぎようとした。
中から王国文官の声が聞こえる。
「では、『王国は、中立自治都市ウルムの自治を承認し』――」
「そこは変えてください」
ロイルが止めた。
「どの部分でしょうか」
「承認、です」
ロイルは草案の一行を指で示した。
「ウルムの自治は、王国が認めて与えるものではありません。王国は、ウルムに行政権、徴税権、軍事権を及ぼさない。そう書いてください」
王国文官は一瞬黙り、手元の別紙を確認した。
隣にいた王国側の責任者が頷く。
「女王陛下からも、その表現で整えるよう命を受けています」
文官は「承認」の文字に線を引いた。
「帝国側も同様です」
カインが続ける。
「帝国が自治を与えるのではありません。帝国がウルムへ権限を及ぼさないと約する文面にしてください」
バルデルも、自分の手元にある報告書を開いた。
「聖教国についても、宗教的管理権を行使しない、という文言でお願いします。『信仰の自由を認める』では意味が変わります」
「分かりました。書き直します」
筆が紙を擦る音が聞こえ始めた。
俺は扉の外で、少しだけ足を止めていた。
ロイルは俺に気づいていない。
カインも、バルデルも文面から顔を上げない。
俺は小ホールには入らず、階段を上がった。
セヴランの白い法衣は、もう廊下にはなかった。
聖教国側の控え室に戻ったらしい。
バルコニーに出ると、エレノアが二人分の茶を用意していた。
「お戻りでしたのね」
「ああ」
俺はいつもの椅子に腰を下ろす。
眼下の広場では、村人が行き交っていた。
ただ、迎賓館の前を通る時だけ、少し歩みが遅くなる。
「師匠は、文案の作成に行かなくてよいのですか?」
「決めることは決めた。あとは書ける奴に任せる」
「ロイルさんたちに?」
「ああ」
エレノアはコトリとテーブルに茶を置いた。
「先ほどから、何度もあちらを気にされているようですけれど」
「間違えてないか気になるだけだ」
「でしたら、見に行かれては?」
「行かない」
俺は即答した。
「意地っ張りですのね」
俺は茶を一口飲んだ。
窓を一枚隔てた向こうで、筆が動いている。
昔、人に渡したものが、言った覚えのない形になって戻ってきたことがある。
都合のいいところだけ使われ、残りは捨てられた。
だから、人に任せるのは好きじゃない。
文面を見れば、細かいところまで直したくなるだろう。
俺が部屋へ入れば、最後は全員がこちらを見る。
それでは、いつまで経っても変わらない。
「俺が顔を出すと、結局、最後に俺へ聞く」
エレノアは何も言わず、茶を飲んだ。
広場の端に、子供の手を握った女がいた。
黒札を入れた女だ。
木陰の周囲には、ヘイムが作らせた低い柵と腰掛けがある。荷物は置かれていない。女はそこを一度確かめてから、迎賓館の窓を見上げた。
少し離れた場所では、自治都市化に反対していた男が腕を組んでいる。
「皆さん、気になっているのでしょうね」
「当然だろ。自分たちが住む場所の話だ」
賛成でも、反対でも同じだ。
決まったあとでも、ここで暮らしていく。
しばらくして、小ホールの扉が開いた。
ロイルが文書を抱え、バルコニーへ出てくる。目元は疲労の色が濃いが、その目には力があった。
手には、清書前の最終文案の束が握られている。
「最終文案がまとまりました」
そう言って、俺の前へ差し出す。
「俺には見せなくていい」
ロイルの手が止まった。
「確認されないのですか」
「お前が確認したんだろ」
「はい。カイン様……カイン殿とバルデル司祭にも、各国の文官にも確認していただきました」
「なら、それでいい」
ロイルは文案を見下ろした。
それから、両手で抱え直す。
「明朝、各国代表による最終確認を行います。異論がなければ、その場で署名となります」
「分かった」
ロイルは一礼し、また小ホールへ戻っていった。
エレノアが俺を見る。
「本当に、ご覧になりませんでしたのね」
「見れば直したくなる」
「間違っていなくても?」
「間違ってなくてもだ」
エレノアが小さく笑った。
日が傾き始めても、迎賓館の周囲を通る者は減らなかった。
広場を横切っていた職人が、こちらに気づいて声を張る。
「アシュラン様。明日、迎賓館の前に来てもいいか?」
「仕事はどうした」
「朝のうちに片づけるさ」
「なら好きにしろ。だが、入口は塞ぐなよ」
「分かった!」
男は工房の仲間へ何かを伝えに走っていった。
それを聞いていた水場の女たちも、顔を見合わせている。
誰かが呼び集めたわけではない。
それでも明日になれば、皆ここへ来るのだろう。
夜が近づいても、小ホールの窓には明かりが残っていた。
「そろそろ戻りますか?」
エレノアが空になった茶器を重ねる。
「ああ」
俺は椅子から立った。
階段へ向かう前に、一度だけ窓を振り返る。
明日、あの文書に四人の名が並ぶ。
その時、ウルムが何になるのか。
俺一人で決める話では、もうなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。




