第222話 祈りと帳面
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翌朝、迎賓館の大会議室。
机は、前回と同じ形に並べられている。持ち込んだ長机をいくつか繋ぎ合わせ、八角形に近い輪のように置いただけだ。
互いの顔が見えるように組んだだけで、真ん中にはぽっかりと空間が空いていた。
分厚い記録帳は、俺の隣に座るロイルの手元にあった。
「机の真ん中なんぞに置けば、今度はそれが何かの象徴みたいに見えてしまう。交渉の窓口であるこいつが抱えているのが、一番面倒が少ないからな」
「私が面倒を預かるということですね」
ロイルが抑揚のない声でぼやいた。
「窓口だからな」
「便利な言葉です」
「そうか?」
ギードが、机の向こうで白い髭を撫でた。
王国側にはシャルロッテとオリヴィエ。帝国側には皇帝ヴァレリアンとカイン。聖教国側には大司教セヴランとバルデルが座っている。
「では、始めるかの」
ギードの声が、八角形の机を囲む全員に届いた。
ロイルが記録帳の真新しいページを開いた。
「まず、ウルム側の確認事項を読み上げます」
右手に座るシャルロッテが姿勢を正し、左手の皇帝ヴァレリアンが面白そうに目を細めるのが見えた。
「ウルムは住民の意思として、中立自治都市化を進めることを確認しました。ただし、満場一致ではありません。保留および反対の意見もありました。その理由は、村内記録として保管しております」
最初に口を開いたのは、セヴランだった。
「反対や保留の理由は、この場には示されないのですかな」
白い法衣の初老の男は、ロイルの返事を待っていた。口元だけが、薄く笑っている。
「村内記録です」
ロイルは顔を上げずに答えた。
「外へは出さない、と」
「はい」
セヴランは、感心したように目を細める。
「不安の扱いに、ずいぶん慎重でいらっしゃる」
「外の交渉材料にしないだけだ」
俺が口を挟むと、セヴランはゆっくりと俺に視線を移して頷いた。
右手に座るシャルロッテは、そのやり取りを聞いて黙っていた。
左手に座る皇帝ヴァレリアンは、顎に手を当てて興味深そうにロイルの記録帳を眺めている。
「昨日、門から礼拝堂を拝見しました」
セヴランが、話題を変えるように柔らかく言葉を継いだ。
「思っていたより、村の中心に近い場所にあるのですな」
「村の皆が使う場所だからな」
俺が短く返すと、セヴランは嬉しそうに目を細めた。
「祈る場が、人の暮らしに近いのはよいことです」
セヴランの声は穏やかだった。
「ウルムには救護所もあると聞いております。傷を負った者、病に伏せる者、身寄りを失った者。そうした方々の中には、身体だけでなく、心の支えを求める者もおりましょう」
ギードが黙って聞いている。
「礼拝堂の状態を拝見し、必要であればさらに整えるお手伝いをしたいと思っています。聖教国から、実務に慣れた者を数名置くこともできます」
「置く、か」
俺が言うと、セヴランは静かに頷く。
「もちろん、ウルムの方々の心を乱さぬ範囲で」
その言い方が、昨日と同じだった。
ギードがゆっくり口を開いた。
「祈ることは止めん。弔いも、必要ならすればよい」
「では」
「じゃが、礼拝堂はウルムの場所じゃ。聖教国の出先にはせん」
ギードの真っ直ぐな拒絶にも、セヴランはすぐには反論しなかった。
ただ、少しだけ残念そうな表情を作ってみせる。
「出先という言い方は、少し寂しく聞こえますな。我々は、ただ支えたいだけです」
「支える手が、場所の鍵まで持つ必要はない」
俺が言うと、セヴランの視線がこちらへ戻った。
「鍵まで求めた覚えはありませんが」
「今はな」
短く返す。
ギードが髭を撫でた。
「掃除を手伝う者がいるなら助かる。祈りたい者が来るなら止めん。じゃが、管理権と決まりはウルムが持つ」
「承りました」
セヴランは今度は、エレノアへ視線を向けた。
「エレノア殿の救護の働きは、すでに多くの者を救っていると聞きます。聖教国としても、力になれることがあるでしょう」
エレノアは姿勢を崩さず、丁寧に返す。
「助けが必要な時は、お願いすることもあると思います」
「ええ、ぜひ頼ってください」
「ですが、救護所の手順はウルムのものです」
「もちろん、医術の手順を乱すつもりはありません」
「医術だけではありませんわ」
エレノアは、きっぱりと言い切った。
「水を沸かすこと。布を替えること。手を洗うこと。熱のある方を分けること。記録を村の中で預かること。全部を含めて、救護です」
セヴランの柔らかな笑みが、ほんのわずかに止まった。
「さすが、帝国の聖女であられた方は――」
「今は、ウルムの救護を預かる者ですわ」
エレノアが間髪入れずに遮る。
またそこか。
セヴランの目には、今のエレノアより、元聖女という肩書きの方がよく見えているらしい。
「では、身寄りのない者、病に伏せる者、迷いを抱える者に、聖教国の保護を案内することは認めていただけますかな」
言葉だけなら、まだ善意で通る。
ロイルが筆を置いて答えた。
「案内を置くことは、内容を確認した上でなら検討します」
「検討、ですか」
「はい。村の者に配るものは、村が確認します」
「それはもっともです」
セヴランは頷く。
そして、少し身を乗り出した。
「では、誰が支えを必要としているか、村側から知らせていただくことは」
「ありません」
ロイルが短く切る。
「救いを求める者を見落とさぬためでも?」
「村の帳面は、外へ出しません」
ロイルの背後から、ギードが重い声を重ねた。
「王国にも、帝国にも、聖教国にも渡さん」
「閉ざす、ということですかな」
セヴランは穏やかな顔で言った。
ギードは首を横に振る。
「守る、ということじゃ」
俺はセヴランを見た。
「助けたいなら、本人の前に立て。帳面を取りに来るな」
ここまで黙って成り行きを見ていた皇帝ヴァレリアンが、不意に喉の奥で笑い声を漏らした。
「祈りの話にしては、触れようとしている場所が多いな」
セヴランは皇帝へ向き直り、笑みを保ったまま頭を下げる。
「陛下。困っている者を支えるには、いくつもの手が必要になります」
「手が多いのはよい。だが、鍵と帳面まで欲しがれば、話は変わる」
皇帝は椅子の背もたれに寄りかかり、淡々と言った。
「帝国は、ウルムを丸ごと抱える気はない。抱えればそれはそれで重くのし掛かるだろう。仕組みに乗る方が得策だな」
「正直で助かる」
俺が言うと、皇帝は口角を上げた。
「貴公には、これくらいが通じるだろう」
皇帝は再びセヴランを見る。
「聖教国も、役に立てばよい。救護に人を出す。衛生を学ぶ。必要な薬草や布を運ぶ。そういう関わりなら、誰も困らん」
「救護と信仰を切り離せと?」
「切り離せとは言っていない。順番を間違えるなと言っている」
「王国も、外側の手順を整えます」
シャルロッテが、静かな声で皇帝の発言に乗った。
「外側、ですか?」
「はい。ウルムへ向かう者が、勝手に荷を置き、勝手に人を集め、勝手に場所を使わぬように。王国側の道と商人の扱いを整えます」
昨日、木陰にいた女の顔が頭をよぎった。
「荒らされると、こっちの仕事が増える」
俺が言うと、シャルロッテは少しだけ頭を下げた。
「増やさないようにします」
シャルロッテは俺を見て、はっきりと頷いた。
セヴランはそこで、ゆっくりとバルデルへ視線を移した。
「バルデル。あなたは一か月、この地にいました。礼拝堂も見たのでしょう」
バルデルはすぐには答えなかった。
「はい。見ました」
「ならば、祈りを求める者がいることも分かるはずです」
「もちろん、おります」
セヴランは少し安堵したように目を細めた。
だが、バルデルの言葉はそこで終わらなかった。
「ですが、あの礼拝堂は、聖教国の出先ではありません」
バルデルはただ、事実を口にしただけだった。
「私はこの一か月、掃除をし、弔いに立ち会い、救護所の手順を見ました。ですが、礼拝堂を預かっていたわけではありません」
「では、何をしていたのです」
セヴランの声から、初めてわずかな棘が漏れた。
「滞在を許された者として、できることを手伝っておりました」
バルデルは、セヴランの目を真っ直ぐに見返した。
「ここでは、祈る前に湯を沸かすことがあります。手を洗い、布を替え、寝床を整える。それを祈りの外のことだと、私は最初、思っておりました」
セヴランが困惑した表情でバルデルに言った。
「今は違うと?」
「はい。ここでは、それも人を救う手順です」
エレノアは口を挟まなかった。俺も黙っていた。
これは、バルデル自身の言葉であるべきだ。
「聖教国がここで信頼を得たいなら、まず役に立つことかと存じます。管理ではなく」
セヴランは、しばらく動かなかった。
ここで声を荒らげれば、聖教国だけがこの部屋で浮くことになる。王国も帝国も、すでにウルムのやり方を中心に話を回している。何より、身内であるはずのバルデルから、現地の視点で蓋をされたのだ。
セヴランは、ゆっくり息を吐いて、再び柔らかな表情を作った。
「……現地に身を置いた者の言葉は、尊重すべきでしょう。聖教国としても、ウルムの秩序を軽んじるつもりはありません。まずは救護と衛生の実務協力から始める。それでいかがでしょう」
「礼拝堂の鍵を渡すつもりはないからな」
俺が念を押す。
「求めません」
「村の帳面も外へは出しません」
ロイルが続ける。
「承知しました」
「救護所では、ウルムの手順に従っていただきます」
エレノアが締める。
「それも、承知しました」
セヴランの返事は、どれも早かった。少し、早すぎるくらいだ。
ロイルが記録帳に筆を走らせる。
聖教国は、礼拝堂および救護所に管理権を及ぼさない。実務協力について、ウルムの手順に従う。村内記録は外部に出さない。
その時、セヴランが穏やかに言った。
「では、後ほど礼拝堂を拝見しても?」
まただ。
「会議の後ならな」
俺は少し呆れたように言った。
「もちろんです。手順は守りますよ」
こちらの意思は見せた。だが、セヴランは退いたわけではない。
どこまでなら触れられるか。どこからなら、まだ祈りと言えるか。
あの目は、それを測っていた。
セヴランの口元だけは、まだ柔らかく笑っていた。
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