第219話 色札と選ぶ日
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朝の冷気がまだ広場に漂う中、中央に据えられた長机の上に、三色の木札が積まれていた。
その横に、口の細い木箱が一つ。中を覗き込めないよう、上から布が掛けられていた。
木箱の前には、キドが昨晩遅くまでかかって書き上げた説明板が立てられていた。
『白札……中立自治都市化に賛成』
『灰札……まだ決めきれない』
『黒札……中立自治都市化に反対』
キドは説明板の横に立ち、落ち着かない様子で自分が書いた文字を何度も見直していた。
「字は合ってるぞ」
俺が横から声をかけると、キドはビクッと肩を揺らした。
「まだ何も言ってねえだろ!」
「顔を見れば分かる」
「間違ってたら困るだろ。村の連中がみんな見るんだからさ」
キドはむっとして、説明板の縁をギュッと握り直した。
「だから俺が見直した。問題ない。胸を張って立っていろ」
ギードが、広場の中央へ進み出た。
集まり始めた村人たちへ向けて、威圧感を与えないよう、ゆっくりと穏やかな声を張る。
「今日は、ウルムをこの先どうしていくか、皆に聞く日じゃ。札に名前は書かんでええ。誰が何を入れたかも問わん。ただ、自分の選んだ札を一つ、箱に入れてくれ」
村人たちが静かに耳を傾ける。
「周りに合わせる必要はない。分からんなら灰札でええ。嫌なら黒札でええ。進めてよいと思うなら白札じゃ。……嘘の白札はいらん。後で文句を言われても困るからの」
ギードは、木箱から少し離れた所に座っているロイルに目をやる。
「それと、理由を残したい者は、そこの記録所で書いてくれ」
木陰の下にいた老人が、おずおずと手を上げた。
「わしらみたいに、字が書けん者はどうしたらええんじゃ?」
「札を入れるだけで構わん。もし、言いたいことがあるなら、口で言えばロイルがそのまま書き残してくれる」
記録用の机に座っていたロイルが、静かに頭を下げた。
「では、始めるぞ」
◇
最初に札を入れたのは、村の古い住民たちだった。次に、王都から逃げてきた元避難民。職人、商人、救護所の手伝い、学び舎に子供を通わせている親たち。
列は長く伸びていたが、不思議と騒がしさはなかった。
広場の端では、礼拝堂のバルデルが小さな樽から柄杓で水を汲み、待っている者たちへ配っている。
長机の前に、一人の女性が歩み出た。
元避難民の母親だ。片手で小さな子供の手をしっかりと握っている。
彼女は用意された三色の札の前に立ち、一度、白札へ手を伸ばしかけた。
けれど、指先は空中で止まり、わずかに震えた。
しばらく迷った後、彼女が手に取ったのは、黒札だった。
順番を待っていた周囲の空気が、ほんの少しだけ静まった。
女はためらうように黒札を両手で持ち、やがて黒い木箱の口へ落とした。
コトン、と乾いた音が広場に響く。
「……すみません」
女が顔を伏せて謝る。
「謝ることは何一つない」
ギードが優しく首を横に振った。
横で見ていたエレノアが、静かに女へ歩み寄る。
「もしよろしければ、理由を残されますか?」
女は少し迷い、やがて子供の手を強く握り返して口を開いた。
「人が……増えるのが、まだ怖いんです。ここへ逃げて来るまでに、人が集まる場所でひどい目に遭ったので。村が大きくなって、見知らぬ人が増えたら、またあんな思いをするんじゃないかって……」
ロイルが筆を取る。
「『人が増えることへの不安。外からの者が増えた時の、治安と生活の変化に対する恐れ』……そのように記録いたします」
女は深く頷き、足早に列を離れていった。
俺は何も言わなかった。
ここで俺が出て、心配するなと言うのは簡単だ。だが、この広場の雰囲気は壊したくなかった。
女はもう一度頭を下げ、子供を連れて列から離れた。
◇
列が進むにつれ、灰札を入れる者もぽつぽつと現れ始めた。
木工ギルドの若い職人が、迷う素振りも見せずに灰札を箱に落とす。
「お前、迷ってんのか?」
札の案内役をしていたキドが、不思議そうに声をかけた。
「悪いかよ」
「悪くねえけどさ」
「中立自治都市って言われてもよ、まだよく分からんからな。王国でも帝国でも聖教国でもないってのは、聞こえはいいさ。でもよ、何か外から問題が起きた時に、最終的に誰が責任を取って俺たちを守ってくれるんだ?」
キドは答えに詰まった。
俺は腕を組んだまま、横から口を挟んだ。
「分からないなら灰札でいい。そのために作った箱だ」
「……いいんですかい?」
「分からないのに、周りの空気に流されて取りあえず白を入れる奴よりは、よっぽど信用できる」
俺が答えると、若い職人は少しだけ肩の力を抜き、列を離れていった。
ロイルのペンが動く。
「『責任の所在が見えにくい。外圧に対する不安。制度への理解が不十分』……と」
キドが、ロイルの記録を横から覗き込んで小声で言った。
「結構、みんな難しいこと考えてるんだな」
「お前も考えろ」
「今、考えてる最中なんだよ」
キドが口を尖らせる。
「決めるなら早い方がいい。道も屋根も、これから人が増える前提で寸法を直してるからな」
ヘイムは極めて実務的な理由で白札を入れた。
「外から人が来るなら、台車や金具の規格を揃えた方がいい。村の中だけで済む話じゃなくなってきてるからな」
ドルガンは、鍛冶屋としての視点から白札を箱へ落とした。
元避難民の老人も、ゆっくりと白札を取った。
「逃げてきた時は、ここに置いてもらうだけでよかった」
老人は札をしばらく眺めたあと、箱へ入れた。
「今は、ここで生きるなら、ここの決まりを自分たちで持った方がええ」
そう言って、腰を伸ばす。
「わしも、もう客ではおられんからの」
その言葉に、後ろに並んでいた女が小さく頷いた。
◇
リナは、木陰の枝の上から広場を見ていた。
エレノアが木の下へ歩み寄り、見上げるように声をかけた。
「リナちゃんは、入れませんの?」
「もう、入れたよ」
「どちらへ?」
「内緒」
「それは、そうですわね」
エレノアがくすりと笑う。
リナは木漏れ日の中で、大きく息を吸い込んだ。
「前より、ずっと息がしやすい。だから、少し見ててもいいかなって」
リナは制度を理屈では語らない。ただ、場所の息苦しさだけは、誰よりも早く感じ取る。
俺はその声を聞きながら、木札の入る音を聞いていた。
◇
日が傾く頃には、広場の列も途切れていた。
木箱は迎賓館へ運ばれ、集計作業が始まった。
長机の上で木箱がひっくり返され、木札が山となって崩れる。ロイル、ハンス、そして各区画の代表者たちが、手際よく色ごとに札を分けていく。
エレノアは、体調不良で広場に来られなかった者たちから回収した札を確認していた。
やがて、集計が終わった。
「白が一番多いな」
キドが、圧倒的な高さになった白札の山を見て声を上げる。
「はい。白札は半数を大きく超えました」
ロイルが手元の紙に数字を書き込みながら答える。
「ですが、灰札もそれなりに積まれています。黒札は一番少ないですが……」
ロイルはそこで言葉を切った。
「無視できる数じゃないな」
俺が言うと、ギードが深く頷いた。
「そうじゃな。白が多かった。それは一つの結果じゃ。だが、黒も灰も、確かにこの村の中から出た声じゃ」
「じゃあ、どうするんだ?」
キドが不安そうにギードを見る。
「この話は進める。じゃが、黒と灰の理由は、村の課題としてしっかり扱うのがよいじゃろう」
ロイルが記録帳をめくり、俺を見た。
「一月後の再会談には、どこまで数字を出しますか」
「結果だけでええじゃろう。ウルムは住民の意思として、中立自治都市化を進めることを確認した。相手に伝えるのはそれで足りるじゃろうな」
ロイルが頷きかけたところで、俺は付け加えた。
「ただし、満票ではなかったことは必ず書いておけ」
キドが目を丸くする。
「それも書くのか?」
「書く。全員が同じ意見で賛成して一枚岩になっているなんて、外から見れば嘘くさくて気味が悪いだけだ。」
ギードは黒札を、一枚手に取る。
「迷う者も、嫌がる者もおる。そのうえで、前に進む。そっちの方が、よほど今のウルムらしいわい」
ロイルは記録帳の末尾に、新しい一行を加えた。
『満場一致にあらず。保留および反対の意見あり。理由は村内記録として別途保管する』
◇
全ての札の確認が終わると、ロイルは、反対と保留の理由を書き留めた記録を整理した。
反対の理由は、どれも似ているようで少しずつ違っていた。
人が増えるのが怖い。外の争いが持ち込まれるのではないか。商人が増えれば、今の静けさがなくなるのではないか。子供の遊び場や木陰が、また削られるのではないか。
灰札の方は、もっと言葉にしにくいものが多かった。
制度がよく分からない。誰が最後に責任を取るのか見えない。今の暮らしが、どこまで変わるのか分からない。
賛成できないというより、どう考えればよいのか見当が付かない。そんな感じの声だった。
エレノアが、ロイルの肩越しにその記録を読み、感嘆の息を漏らした。
「白札を入れた方々より、黒札と灰札を入れた方々の方が、言葉を多く残していますわね」
「不安な奴ほど、明確な理由があるからな」
俺が言うと、ギードも頷く。
「では、この理由も会談へ?」
ロイルが聞く。
「それは必要ない」
俺は即答した。
「これはウルムの中の問題だ。三国に見せるためじゃない」
ギードが頷いた。
「村としての結論は出た。それで十分じゃ」
エレノアが記録の束を見る。
「けれど、なかったことにはできませんわ」
「当然だ。なかったことにしたら、あとで足元をすくわれる」
俺はギードを見た。
「こちらからわざわざ言ってやる必要はない。だが、聞かれれば答える。隠す必要はどこにもないからな」
◇
皆が帰ったあとも、執務室の灯りだけは残っていた。
片付けを終えたエレノアが、窓辺に立つ俺に声をかけてきた。
「師匠。少し、怖くありませんの?」
「何がだ」
「黒札があることですわ。ご自分が進めたいと考えるものに対して、はっきりと反対の意思が残されるのは……」
「怖いか……。そうだな、怖いと言えば怖いかもな」
俺が素直に肯定すると、エレノアは目を丸くした。
「意外ですわ」
「俺を何だと思ってるんだ」
「だいたいのことを面倒で片付ける方だと」
「まぁ、……間違ってはいない」
俺は窓から木陰の方を見た。
「だがな、見えない不満の方がもっと怖い。表面上は賛成しておいて、腹の中で不満を溜め込んでいたら、外から少し強い力がかかった時、そこから崩れる」
「……では、黒札は傷ではなく、建物のひびを見つけるための目印ですのね」
「綺麗に言うな。厄介な摩擦の場所が、見えただけだ」
「師匠らしいですわ」
エレノアは柔らかく微笑み、俺の横に並んで夜の広場を見下ろした。
◇
次の朝、ロイルは三つの小さな麻袋を机に並べていた。
白札、灰札、黒札。それぞれの口を、几帳面に紐で縛っていく。
ギードは三つの袋を見て、目を細めた。
「白だけなら、よほど気が軽いんじゃがのう」
「軽い結論は、少し風が吹いただけで飛ぶぞ」
「黒も大事なんだよな」
キドが背伸びをして袋を覗き込む。
「そうだ。黒の意見は、これから俺たちが潰していくべき課題だ」
ロイルは村内記録用の分厚い帳面を開き、黒札と灰札の理由を丁寧に綴じ込んだ。
「じゃあ、なくしたら駄目だな」
「なくしたら、お前が探せ」
「何で俺なんだよ」
「説明板を書いた責任だな」
「な! ひでえ。みんなで探せば良いじゃないか」
キドの反応に、みんなが笑顔になる。
当のキドは文句を言いながらも、黒札の袋から目を離さなかった。
三つの袋を見ていると、ただ白が多かったで済ませてはいけないと思った。
黒札にも灰札にも、それを選んだ者たちの想いがある。
ロイルは記録帳を閉じた。
机の端には、黒札と灰札を収めた村内記録が残っている。
だが、それは、王国にも、帝国にも、聖教国にも見せるためのものではない。
ウルムが、ウルムのために残すものだ。
俺は黒札の袋を見て、息を吐いた。
「面倒な村になったな」
ギードが笑う。
「お前さんが作ったんじゃろう」
俺は、黒札の袋から目を離さなかった。
作った。そう言われれば、否定しきれないものはある。
水路も、壁も、窯も、道も。最初に口を出したのは、たしかに俺だった。
だが……
「……俺だけで、こんな面倒なものができるか」
ギードは、少しだけ目を細めた。
「そうじゃな」
それだけ言って、笑った。
窓の外では、木陰が朝の風に揺れていた。
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