第217話 司祭と灯り
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少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
夕暮れの冷たい風が吹き込む中、西門のすぐ内側に建てられた管理窓口の小屋で、ペン先が紙を擦る硬い音が響いていた。
まっさらな記録帳の第一ページ。
ロイルはインクを吸わせたペンを手に、窓口の前に立つ見慣れない旅装の男と向き合っている。
「お名前を」
ロイルの問いに、門の外の男がわずかに姿勢を正した。
「聖教国巡回司祭バルデル様の使いで参りました。名はユリアンと申します」
「所属と用件を記録します。同行者は」
「おりません」
「武器の有無は」
「武器はありません。書状のみです」
ユリアンは懐から封蝋のされた小さな筒を取り出し、両手で差し出した。
封蝋を確認し、筒に傷がないかを見て、それから門番へ視線を向ける。
門番が頷く。
「腰にも荷にも刃物はありません」
「分かりました」
ロイルは筒を受け取り、記録帳へ短く書き足した。
俺は小屋の入り口に寄りかかりながら、そのやり取りを黙って眺めていた。
「窓口先生、ちゃんとやってるな」
俺の横で、キドがぼそりと小声で呟いた。
ロイルのペン先がピタリと止まる。視線は記録帳に落としたまま、低い声が漏れた。
「キド」
「なんだよ。先生って言っただけだろ」
「それをやめてください」
キドが口を尖らせる。
使者のユリアンは、困ったように視線を伏せていた。
俺はため息をついた。
「アシュラン様。ギード村長へ上げます」
「ああ、それでいい」
ロイルは書状を持ち、俺たちと一緒に迎賓館へ向かった。
◇
迎賓館の小会議室では、ギードが白眉を寄せながら書状の文字を追っていた。
「……バルデル殿からか」
ギードから書状を受け取ったロイルが、要点を読み上げた。
バルデルは、一月後の再会談への参加を希望している。
ただし、その前に一月ほどウルムに滞在したい。
礼拝堂の管理権を求めるものではない。当然、信徒名簿も献金管理も求めない。
教会の手入れ、弔い、救護の補助、迷いを抱える者の話し相手をしたい。
読み終えたロイルが、静かに紙から視線を上げた。
誰もすぐには口を開かなかった。
「……王国と帝国が、ウルムから手を引く方向へ動いているこの時期にな」
俺は腕を組み、テーブルの上の書状を見下ろした。
ギードは書状を読み終えると、机の上に置いた。
「ふむ」
俺は書状に指を添える。
「王国と帝国が手を引く方向へ動いている時に、聖教国だけが残りたいと言う。普通に考えれば怪しい」
「以前の感じなら、礼拝堂から入り込むつもりはなさそうですわ」
エレノアはそう言った。
ギードが腕を組み、ゆっくりと息を吐く。
「バルデル殿は、追悼の儀の折に一度この村のやり方を見ておる。あの時も、ただ静かに祈って帰っていっただけじゃったが……。話だけは聞くべきじゃろうな」
バルデル本人は多分問題ない。問題があるとすれば聖教国本国だ。
個人の善意は、組織の都合に使われることがある。
それは、王国でも帝国でも、たぶん聖教国でも同じだろう。
「招き入れますか」
ロイルが確認を求めるように、俺とギードを見る。
俺は短く頷いた。
「門の手順を通した上でな」
俺がそう言うと、ロイルは頷いた。
「では、滞在希望者として扱います」
「女王でも司祭でも、同じだ」
「承知しています」
ロイルの返事は早かった。
窓口になって半日も経っていないのに、ずいぶんそれらしくなっている。
本人に言うと嫌がるだろうから、黙っておいた。
◇
バルデル本人がウルムの西門に姿を現したのは、その翌日の昼前だった。
聖教国の巡回司祭という立場でありながら、彼が連れていたのは護衛と従者が数名のみ。
簡素な旅装に身を包んだバルデルは、門前でゴザの上に荷を下ろし、ロイルの前に立っていた。
「お名前を」
「聖教国巡回司祭、バルデルです」
バルデルは何のためらいもなく名を書いた。
「一月の滞在と、村長殿との面会を願い出に参りました。武器は持っておりません」
「ありがとうございます」
ロイルが応じる。
少し離れた場所から見ていたキドが、不思議そうに首を傾げた。
「変な司祭だな。もっと偉そうに入ってくるもんかと思ってたぜ」
「見てくれだけで判断するなよ」
「見てくれじゃねえよ。偉そうじゃないから変なんだ」
それは少し分かる。
偉そうな司祭は、見たことがある。
偉そうな貴族も、偉そうな学者も、偉そうな軍人も、嫌というほど見てきた。
偉そうな奴なら、こちらも構えればいい。
だが、こういう手合いは、少し困る。
バルデルは手順を終えると、ギードのいる小会議室へ通された。
◇
「私がここに残れば、疑われることは承知しております」
椅子に腰を下ろす前に、バルデルはそう言った。
ギードが手で座るよう促す。
「まずは座りなされ。立ったままでは、話も進みにくい」
「ありがとうございます」
礼を言うと、バルデルが座った。
俺は円卓の端に肘をつく。
「分かっているなら話が早い。何が目的だ」
「礼拝堂を、誰かを縛る場所にしないためです」
「そのために、残るのですか?」
エレノアが怪訝そうに眉をひそめる。
「はい」
バルデルは静かに頷いた。
「聖教国の者が誰もいなければ、いずれ別の者が来て、ここを管理させろと言うかもしれません。礼拝堂があり、祈る人がいて、病人や迷う者が来る。ならば聖教国が見るべきだ、と」
「言いそうだな」
俺が言うと、バルデルは否定しなかった。
「そうなる前に、私が現場を知る者としてここに留まりたいのです」
「ずいぶん都合のいい話だな」
「そう、聞こえるかもしれませんね」
バルデルは膝の上で指を組んだ。
「私は、聖教国に命じられてここへ来たのではありません」
ギードが目を細める。
「ご自分の意思で来られたと?」
「ええ」
「それでも、本国に報告はする必要があるだろう」
俺が言うと、バルデルは顔をこちらへ向けた。
「はい。もちろん報告はします」
「どう報告するつもりだ」
「祈りはすでにある。救いを求める者もいる。しかし、この地にはこの地の祈りもある。聖教国が無理強いをすべきではない。そう報告します」
嘘をついているようには見えない。少なくとも、逃げるための言い訳には聞こえなかった。
ギードが、コトリと木杯を机に置いて口を開いた。
「バルデル殿。お気持ちは分かった。だが、ただ滞在すると言っても、日々の役目を決めねばならん。村の者は皆、何かしらの役割を持って動いとる」
「はい」
「祈るだけなら、別に人手は要らない。あんたはここで何をする」
俺の問いに、バルデルは少しだけ伏し目がちに考え、やがて顔を上げた。
「礼拝堂の掃除と手入れ。亡くなった方の弔い。身寄りのない方の相談。あとは……救護所で人手が足りない時の手伝いをさせていただければと」
「お待ちになって」
エレノアが口を挟んだ。
「救護所で手伝うと仰るなら、わたくしの定めた手順に絶対に従っていただきますわ。祈りより先に、手洗いと煮沸です。聖教国の教義より、村の衛生規則を優先できますの?」
バルデルは、ただ静かに頭を下げた。
「もちろんです。薬草の煎じ方から教わるつもりで参りました」
俺は呆れてため息をついた。
「祈りに来た司祭が、薬草の煎じ方からか」
「苦しい方に、まず教義を差し出す司祭は、順番を間違えていますから」
バルデルのその言葉に、エレノアは少しだけ目を細めた。
「……その順番が守れるなら、救護所の手伝いは問題ありませんわ」
エレノアが小さく頷く。実際、エレノアはすでに救護と衛生組合の仕事で手一杯だった。
ギードが頷いた。
「なら、次は条件じゃな」
「伺いましょう」
「まず、礼拝堂を聖教国のものにはせんこと。信徒の名を集めんこと。献金を求めんこと。そして最後に、ウルムの定めを、聖教国の教えより先に守ることじゃ」
「承知しました。すべてお約束いたします」
「それから、掃除もすることじゃな」
バルデルは迷わず頷いた。
「もちろんです」
キドが首を傾げる。
「そこ大事なのか?」
ギードは真顔で言った。
「大事じゃ。口だけの者は、だいたい掃除をせん」
「それは分かる」
俺が言うと、キドが変な顔をした。
「アシュラン様も分かるのかよ」
「研究室にもいた。理想だけ語って、自分の机も片づけない奴がな」
「それ、アシュラン様じゃないのか?」
「俺は、意外ときれい好きだ」
バルデルは少しだけ可笑しそうに目尻を下げた。
「もちろんです。隅々まで、磨かせていただきます」
◇
その日の夕方。
バルデルの滞在が正式に認められ、彼はさっそく礼拝堂へと向かった。
エレノアが礼拝堂へ行くというので、俺も少し遅れて様子を見に行った。
バルデルは祭壇の前にはいなかった。
隅にしゃがみ込み、古い木椀と椅子を布で拭いていた。
司祭というより、ただの掃除係だ。
「司祭様、本当に掃除をなさいますのね」
エレノアが声をかけると、バルデルは手を止めて振り返った。
「祈りの場は、まず埃を払うところからです。場が荒れていれば、心も荒れますから」
「……変わった……律儀な方ですわね」
「変わった奴で宜しいですよ」
エレノアが小さく笑った。
俺は扉の外からそれを見て、肩をすくめる。
「裏がなさすぎる奴も、それはそれで面倒だな」
「師匠」
エレノアがこちらを見る。
「そういう方だからこそ、残っていただく意味があるのではありませんか?」
「分かってる。だから面倒なんだ」
礼拝堂の中には、まだ西日の色が残っていた。
木椀の縁に光が当たり、濡れた布がゆっくりと動く。
◇
夜。
西門の管理小屋で、ランタンの灯りを頼りにロイルが記録帳へ文字を書き込んでいた。
聖教国巡回司祭バルデル。
滞在目的:礼拝堂補助、弔い、救護補助
管理権の主張なし。信徒名簿の作成なし。
ウルムの定めに従うことを誓約。
そこまで書いて、ロイルは少しだけ手を止めた。
それから、備考欄へ一文を足す。
掃除から始める。
記録を閉じる前に、ロイルはギードへ顔を向けた。
「この一文は、残してよろしいですか」
ギードは少し目を細める。
「それは必要なのか?」
「はい」
ロイルは記録帳の端を指で押さえた。
「バルデル殿が何を言ったかだけでなく、何から始めたかも残しておきたいのです」
ギードは短く笑った。
「なら、残せばええ」
俺は横から言った。
「信用ってのは、立派な宣言より行動に出るからな」
ロイルは頷き、記録帳を閉じた。
外へ出ると、礼拝堂の灯りが夜の広場に残っていた。
「聖教国が残ったか」
俺がぼそりと呟くと、ギードは首を横に振った。
「いや。聖教国ではない。バルデル殿が残ったんじゃ」
その違いは大きい。
俺は礼拝堂の灯りを見た。
「その違いが、面倒なんだよ」
夜風に、礼拝堂の灯りが少し揺れた。
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