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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第15章 世界の基準点と木陰のまどろみ

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第215話 返書と帰る場所

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

夜はすっかり更けていた。


西門の前に置かれていた水桶や粥の寸胴鍋はとうに片づけられ、広場には冷たい土の匂いだけが漂っている。傭兵崩れどもの武器を放り込んでいた木箱だけが、防壁の隅に残されていた。


門は、まだ閉め切ってはいない。


冷え込みの強くなった夜風が、その隙間を縫って村の中へと吹き込んできた。俺は首元まで上着を引き寄せ、暗い街道の先を見た。


「もう近衛も来ただろ。閉めていいんじゃねえの」


俺の足元で、キドがあからさまに不満そうな声を上げた。粥の炊き出しから鍋の片づけまでこき使われたせいで、眠気と疲労が顔に滲んでいる。


「ロイルが戻っていない」


「返書待ちなんだろ」


「そう聞いた」


「なら、心配いらねえじゃんか。あのロイルだぞ」


俺は答えなかった。


日が落ちた後の街道は、昼間より広く見える。

何かが動いても、馬か人か、しばらく分からない。


いつの間にか、ギードが隣に立っていた。手には温かい茶の入った木杯を持っている。


「待つなら、待つと決めればええ」


「待っているつもりはない」


「なら、なんで門の前におる」


ギードの鋭い突っ込みに、俺は少しだけ口を閉ざした。


「……風を見ている」


「そうか」


ギードはそれ以上追及せず、フンと鼻を鳴らして自分の茶をすすった。


どれくらいそうしていたか。

西の街道の暗がりから、微かに硬い音が響いてきた。土を叩く蹄のリズム。


「来たぞ」


門番の若者がランタンを持ち上げる。

揺れるオレンジ色の光の中に、ゆっくりと馬の鼻先が浮かび上がった。続いて、手綱を握るロイルの姿が見える。


衣服には長旅の白い埃がこびりついているが、血の匂いはしない。手綱を握る手も、馬をなだめる動作もしっかりしている。


「遅えよ」


キドが一番に声を上げた。


ロイルは馬上から見下ろし、いつものように短く答えた。


「返書を待っていました」


「ご苦労だったな」


俺が声をかけると、ロイルは軽く会釈をして馬から降りた。


「いえ」


「無事ならいい」


俺の言葉に、ロイルはほんの一瞬だけ目を伏せた。


「はい。無事、戻りました」


ロイルが門をくぐろうとした時、門番の若者が手元の記録板を構えた。


「ええと……名は」


生真面目な問いかけに、横からキドが呆れたように口を挟む。


「見りゃわかんだろ。ロイルだよ」


「うるさい。手順だ。例外は作らないって決まりだろ」


門番がムキになって言い返した。

そのやり取りを見て、ロイルの口元がわずかに緩んだ。


「ロイル。ウルムより王国領へ出向き、女王陛下の返書を持ち帰りました。武器は腰の剣一本」


流れるような申告に、門番は満足げに頷いて板に書き込む。俺は肩をすくめた。


「そこまでバカ正直にやる必要あるか?」


「手順ですので」


ロイルは真顔で返し、手綱を引きながら村の内側へと足を踏み入れた。



夜も遅いため、迎賓館にわざわざ集まるのはやめにした。


西門のすぐ脇にある、詰所として使っている小さな小屋。その中央にあるテーブルを囲むようにして、俺とギード、ロイル、それに何故かついてきたキドが立つ。


ランタンの灯りが、テーブルの中心を丸く照らしていた。


ロイルは懐から封書を出した。それには、王家を示す獅子の赤い封蝋が押されている。


「宛名は」


俺が聞くと、ロイルは封書をギードの前へ置いた。


「『ウルム村代表 ギード殿、ならびにウルムの皆へ』となっております。女王陛下が、直筆でそう記されました」


ギードの白眉がピクリと動いた。


「わし宛てか」


ギードは腕を組み、封蝋をじっと見つめた。


「わし、勘定書くらいなら気軽に読めるが、王家の正式な文となると肩が凝るのう」


「ロイル、読んでくれ」


「承知しました」


ロイルは封を開け、文面に目を落とした。


羊皮紙に書かれた文字数は、そう多くはない。だが、その一語一語が、慎重に練り上げられたものだと、横から覗き込むだけでもわかった。


ロイルが読み上げる間、誰も口を挟まなかった。


帝国および聖教国との再会談を、一月後とすることを正式に認めること。

木陰、荷置き場、通行の動線など、村内の配置見直しと住民の協議を、ウルム側で必要な手順として尊重すること。

グレインベルク領主の件は、王国側の責任において調査し、必要な処分を行うこと。

今後、王国の名を用いた不当な干渉を一切認めないこと。

そして――次回の会談において、ウルムを一つの交渉相手として扱い、代表者たちの判断を尊重すること。


そこまで聞いたところで、キドが小声でぼそっと言った。


「なんか、急にちゃんとしてきたな」


「最初からちゃんとしてくれれば、楽だったんだがな」


俺はため息交じりに返した。

グレインベルク領主の件は、俺たちが手を下す前に王国側で片をつけるという宣言だ。そして何より大きいのは、次の会談でウルムを「交渉相手」として扱うと明記されていることだった。

自治都市と認めたわけではない。

だが、もうただの村として扱う文面でもなかった。


ギードは封書をしばらく見ていた。


「女王直筆か」


「はい」

ロイルが短く肯定する。


ギードは天井を仰ぎ、深く、重い息を吐き出した。


「重いの」


「紙は軽いです」

ロイルが真面目な顔で即答した。


「そういう話じゃないわ」


ギードが苦笑する。キドがクスクスと笑い声を漏らした。


重い。確かにそうだ。

この一枚があれば、次の会談で王国は簡単に前言を翻せない。傭兵を追い返すより、よほど厄介な重さだった。


俺は羊皮紙を見下ろし、わざと顔をしかめてみせた。


「これで、一月後に逃げられなくなったな」


「逃げる気だったのかよ」


キドがジト目で見てくる。


「逃げたいとは思っていたさ。昼寝の時間が減る一方だからな」


「思うだけにしておいてくれ」

ギードがたしなめるように言った。


俺は頭を掻いた。何てことはない、明日の仕事が増えただけだ。


「明日、広場の掲示板にこの写しを貼り出す。原本は迎賓館の金庫だ」


「全員が見られるようにじゃな」


「ああ。だが正式な文書なんて読めない奴の方が多い。横にわかりやすい言葉で書いた板を並べて、説明係を何人か立たせよう」


キドがげんなりした顔をした。


「また板かよ」


「また板だ」


「最近、俺たちの村、板ばっかり増えてないか?」


「紙より雨風に強くて丈夫だ」


「そういう問題か?」


「そういう問題だ」


門番が少し笑った。


キドは「そういうもんかなぁ」とやる気のない返事をして詰所の外へ出て行った。

ギードも「さて、明日は忙しくなるのう」と腰を上げ、キドの後を追って小屋を出る。


狭い詰所の中に、俺とロイルだけが残された。


ランタンの芯が微かに弾け、光が揺れる。

俺は机に腰を預け、ロイルの方を見ずに尋ねた。


「女王陛下は無事だったか」


「はい」


「あの小賢しい領主は」


「先ほどの文面の通り、王国側で処理されます」


「便利な言い方だな。お前が手を下す手間が省けたならいいが」


「私が決めることではありませんので。私は使者です」


ロイルの淡々とした答えに、俺は少しだけ間を置いた。


「……ロッテは、何か言っていたか」


ロイルの肩が、ほんのわずかにピクリと動いた。


俺は見ていないふりをした。


ロイルは、すぐに平静な顔を貼り付けて答えた。


「女王陛下は、再会談の時も、必ず門で名を書くと仰せでした」


「そうか」


「はい」


「それだけか」


「それだけです」


少しの間、風の音だけが残った。


ロイルが門へ目を向ける。


「門を開けて待っていたのですか」

ポツリと、独り言のように尋ねてくる。


「閉め忘れただけだ」


「そうですか」


「そうだ」


門が軋みを立てて閉じていく。

俺たちはそれきり口を閉じ、ランタンの火を落とした。



翌朝。広場には朝から人が集まっていた。

掲示板の横には、新しい立て板が張り出されている。そこには、女王陛下の返事が極めて簡単な言葉で記されていた。


『王国からの返事』

・次の話し合いは一月後。

・木陰や荷置き場を直すことを認める。

・ウルムの決まりは、ウルムの住民で話し合って決める。

・グレインベルク領主の悪だくみは、王国が調べる。

・王国の兵を、勝手にウルムへ入れない。


掲示板の前には、朝から人だかりができていた。

字が読める者も読めない者も、説明係の自警団員を取り囲んで口々に問いかけている。


「おい、これ王様の文か?」


年寄りの一人が目を細めて聞く。


「女王陛下です」


説明係の若者が、少し得意げに訂正した。


「つまりなんだ。もう勝手に兵隊が押し入ってくることはねえんだな?」


市場を仕切っている商人が、身を乗り出してヘイムの腕を掴んだ。


「じゃあ、新しい荷置き場は作っていいんだな! 雨よけの屋根も!」


ヘイムは太い腕を組んで、ニヤリと笑った。


「ああ、作るぞ。だが資材の手配がある。十日は待て」


「やったぜ!」


大人たちの足元から、子供がひょっこりと顔を出した。


「ギードのおじちゃん! 木陰、戻るの?」


ギードは優しく子供の頭を撫でた。


「戻すぞ。荷車の位置を変えるから、前より少し広くしてやろう」


「わーい!」


歓声が上がる。


女王の返書と聞いても、子供たちには難しい。

だが、木陰が戻ると聞けば笑う。市場の者は、屋根付きの荷置き場で喜ぶ。


それでいい。それが、今のウルムだ。



騒がしい広場を離れ、俺たちは仮作業所へ戻った。

机の上の配置図を囲むのは、俺、ギード、ロイル、それに大工のヘイムだ。


「さて、一月後までにやることが山積みだぞ」


俺が指を折って数え上げる。


「木陰の荷をどかす。屋根付きの新しい荷置き場を作る。井戸端と学び舎の道を物理的に分ける。門での受付手順も書き直さないとな。王国、帝国、それに聖教国を同時に迎えるための準備もあるしな」


ギードが、返書の写しを畳んで配置図の端に置いた。

「それと、もう一つじゃ」


俺は嫌な予感がして、先手を取った。


「俺は嫌だぞ」


「まだ何も言っとらん」


キドが呆れた声を出す。

「早すぎるだろ」


ギードは咳払いをした。

「外へ名乗る代表も、そろそろ決めんとな」


何気ない風を装っているが、たぶん本題はそれだ。


外に名前を出される役だ。面倒に決まっている。


「やっぱりな。俺は嫌だぞ。昼寝の時間がなくなる」


「誰もまだ、なんも言ってねえよ」

外から顔を出したキドが、呆れたような声を出した。


ヘイムが腕を組んで黙り込む。


ロイルも、何も言わずに配置図を見つめていた。

その沈黙をどう受け取ったのか、ギードがゆっくりと顔を上げ、ロイルを見た。

つられて俺も見た。

ヘイムも黙ってロイルを見た。

外から顔を出していたキドまで、なぜか黙った。


四人から一斉に見つめられたロイルが、微かに眉を寄せ、困惑したように顔を上げた。


「……なぜ、私を見るのですか」


誰も、すぐには答えなかった。


一月後の会談までに、決めることはまだある。

都市としての承認。新しい交渉役。


ロイルだけが、自分がその話の真ん中に置かれかけていることに気づいていない。


俺は軽く息を吐いた。

まあ、そういうところが向いているのかもしれない。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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