第215話 返書と帰る場所
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夜はすっかり更けていた。
西門の前に置かれていた水桶や粥の寸胴鍋はとうに片づけられ、広場には冷たい土の匂いだけが漂っている。傭兵崩れどもの武器を放り込んでいた木箱だけが、防壁の隅に残されていた。
門は、まだ閉め切ってはいない。
冷え込みの強くなった夜風が、その隙間を縫って村の中へと吹き込んできた。俺は首元まで上着を引き寄せ、暗い街道の先を見た。
「もう近衛も来ただろ。閉めていいんじゃねえの」
俺の足元で、キドがあからさまに不満そうな声を上げた。粥の炊き出しから鍋の片づけまでこき使われたせいで、眠気と疲労が顔に滲んでいる。
「ロイルが戻っていない」
「返書待ちなんだろ」
「そう聞いた」
「なら、心配いらねえじゃんか。あのロイルだぞ」
俺は答えなかった。
日が落ちた後の街道は、昼間より広く見える。
何かが動いても、馬か人か、しばらく分からない。
いつの間にか、ギードが隣に立っていた。手には温かい茶の入った木杯を持っている。
「待つなら、待つと決めればええ」
「待っているつもりはない」
「なら、なんで門の前におる」
ギードの鋭い突っ込みに、俺は少しだけ口を閉ざした。
「……風を見ている」
「そうか」
ギードはそれ以上追及せず、フンと鼻を鳴らして自分の茶をすすった。
どれくらいそうしていたか。
西の街道の暗がりから、微かに硬い音が響いてきた。土を叩く蹄のリズム。
「来たぞ」
門番の若者がランタンを持ち上げる。
揺れるオレンジ色の光の中に、ゆっくりと馬の鼻先が浮かび上がった。続いて、手綱を握るロイルの姿が見える。
衣服には長旅の白い埃がこびりついているが、血の匂いはしない。手綱を握る手も、馬をなだめる動作もしっかりしている。
「遅えよ」
キドが一番に声を上げた。
ロイルは馬上から見下ろし、いつものように短く答えた。
「返書を待っていました」
「ご苦労だったな」
俺が声をかけると、ロイルは軽く会釈をして馬から降りた。
「いえ」
「無事ならいい」
俺の言葉に、ロイルはほんの一瞬だけ目を伏せた。
「はい。無事、戻りました」
ロイルが門をくぐろうとした時、門番の若者が手元の記録板を構えた。
「ええと……名は」
生真面目な問いかけに、横からキドが呆れたように口を挟む。
「見りゃわかんだろ。ロイルだよ」
「うるさい。手順だ。例外は作らないって決まりだろ」
門番がムキになって言い返した。
そのやり取りを見て、ロイルの口元がわずかに緩んだ。
「ロイル。ウルムより王国領へ出向き、女王陛下の返書を持ち帰りました。武器は腰の剣一本」
流れるような申告に、門番は満足げに頷いて板に書き込む。俺は肩をすくめた。
「そこまでバカ正直にやる必要あるか?」
「手順ですので」
ロイルは真顔で返し、手綱を引きながら村の内側へと足を踏み入れた。
◇
夜も遅いため、迎賓館にわざわざ集まるのはやめにした。
西門のすぐ脇にある、詰所として使っている小さな小屋。その中央にあるテーブルを囲むようにして、俺とギード、ロイル、それに何故かついてきたキドが立つ。
ランタンの灯りが、テーブルの中心を丸く照らしていた。
ロイルは懐から封書を出した。それには、王家を示す獅子の赤い封蝋が押されている。
「宛名は」
俺が聞くと、ロイルは封書をギードの前へ置いた。
「『ウルム村代表 ギード殿、ならびにウルムの皆へ』となっております。女王陛下が、直筆でそう記されました」
ギードの白眉がピクリと動いた。
「わし宛てか」
ギードは腕を組み、封蝋をじっと見つめた。
「わし、勘定書くらいなら気軽に読めるが、王家の正式な文となると肩が凝るのう」
「ロイル、読んでくれ」
「承知しました」
ロイルは封を開け、文面に目を落とした。
羊皮紙に書かれた文字数は、そう多くはない。だが、その一語一語が、慎重に練り上げられたものだと、横から覗き込むだけでもわかった。
ロイルが読み上げる間、誰も口を挟まなかった。
帝国および聖教国との再会談を、一月後とすることを正式に認めること。
木陰、荷置き場、通行の動線など、村内の配置見直しと住民の協議を、ウルム側で必要な手順として尊重すること。
グレインベルク領主の件は、王国側の責任において調査し、必要な処分を行うこと。
今後、王国の名を用いた不当な干渉を一切認めないこと。
そして――次回の会談において、ウルムを一つの交渉相手として扱い、代表者たちの判断を尊重すること。
そこまで聞いたところで、キドが小声でぼそっと言った。
「なんか、急にちゃんとしてきたな」
「最初からちゃんとしてくれれば、楽だったんだがな」
俺はため息交じりに返した。
グレインベルク領主の件は、俺たちが手を下す前に王国側で片をつけるという宣言だ。そして何より大きいのは、次の会談でウルムを「交渉相手」として扱うと明記されていることだった。
自治都市と認めたわけではない。
だが、もうただの村として扱う文面でもなかった。
ギードは封書をしばらく見ていた。
「女王直筆か」
「はい」
ロイルが短く肯定する。
ギードは天井を仰ぎ、深く、重い息を吐き出した。
「重いの」
「紙は軽いです」
ロイルが真面目な顔で即答した。
「そういう話じゃないわ」
ギードが苦笑する。キドがクスクスと笑い声を漏らした。
重い。確かにそうだ。
この一枚があれば、次の会談で王国は簡単に前言を翻せない。傭兵を追い返すより、よほど厄介な重さだった。
俺は羊皮紙を見下ろし、わざと顔をしかめてみせた。
「これで、一月後に逃げられなくなったな」
「逃げる気だったのかよ」
キドがジト目で見てくる。
「逃げたいとは思っていたさ。昼寝の時間が減る一方だからな」
「思うだけにしておいてくれ」
ギードがたしなめるように言った。
俺は頭を掻いた。何てことはない、明日の仕事が増えただけだ。
「明日、広場の掲示板にこの写しを貼り出す。原本は迎賓館の金庫だ」
「全員が見られるようにじゃな」
「ああ。だが正式な文書なんて読めない奴の方が多い。横にわかりやすい言葉で書いた板を並べて、説明係を何人か立たせよう」
キドがげんなりした顔をした。
「また板かよ」
「また板だ」
「最近、俺たちの村、板ばっかり増えてないか?」
「紙より雨風に強くて丈夫だ」
「そういう問題か?」
「そういう問題だ」
門番が少し笑った。
キドは「そういうもんかなぁ」とやる気のない返事をして詰所の外へ出て行った。
ギードも「さて、明日は忙しくなるのう」と腰を上げ、キドの後を追って小屋を出る。
狭い詰所の中に、俺とロイルだけが残された。
ランタンの芯が微かに弾け、光が揺れる。
俺は机に腰を預け、ロイルの方を見ずに尋ねた。
「女王陛下は無事だったか」
「はい」
「あの小賢しい領主は」
「先ほどの文面の通り、王国側で処理されます」
「便利な言い方だな。お前が手を下す手間が省けたならいいが」
「私が決めることではありませんので。私は使者です」
ロイルの淡々とした答えに、俺は少しだけ間を置いた。
「……ロッテは、何か言っていたか」
ロイルの肩が、ほんのわずかにピクリと動いた。
俺は見ていないふりをした。
ロイルは、すぐに平静な顔を貼り付けて答えた。
「女王陛下は、再会談の時も、必ず門で名を書くと仰せでした」
「そうか」
「はい」
「それだけか」
「それだけです」
少しの間、風の音だけが残った。
ロイルが門へ目を向ける。
「門を開けて待っていたのですか」
ポツリと、独り言のように尋ねてくる。
「閉め忘れただけだ」
「そうですか」
「そうだ」
門が軋みを立てて閉じていく。
俺たちはそれきり口を閉じ、ランタンの火を落とした。
◇
翌朝。広場には朝から人が集まっていた。
掲示板の横には、新しい立て板が張り出されている。そこには、女王陛下の返事が極めて簡単な言葉で記されていた。
『王国からの返事』
・次の話し合いは一月後。
・木陰や荷置き場を直すことを認める。
・ウルムの決まりは、ウルムの住民で話し合って決める。
・グレインベルク領主の悪だくみは、王国が調べる。
・王国の兵を、勝手にウルムへ入れない。
掲示板の前には、朝から人だかりができていた。
字が読める者も読めない者も、説明係の自警団員を取り囲んで口々に問いかけている。
「おい、これ王様の文か?」
年寄りの一人が目を細めて聞く。
「女王陛下です」
説明係の若者が、少し得意げに訂正した。
「つまりなんだ。もう勝手に兵隊が押し入ってくることはねえんだな?」
市場を仕切っている商人が、身を乗り出してヘイムの腕を掴んだ。
「じゃあ、新しい荷置き場は作っていいんだな! 雨よけの屋根も!」
ヘイムは太い腕を組んで、ニヤリと笑った。
「ああ、作るぞ。だが資材の手配がある。十日は待て」
「やったぜ!」
大人たちの足元から、子供がひょっこりと顔を出した。
「ギードのおじちゃん! 木陰、戻るの?」
ギードは優しく子供の頭を撫でた。
「戻すぞ。荷車の位置を変えるから、前より少し広くしてやろう」
「わーい!」
歓声が上がる。
女王の返書と聞いても、子供たちには難しい。
だが、木陰が戻ると聞けば笑う。市場の者は、屋根付きの荷置き場で喜ぶ。
それでいい。それが、今のウルムだ。
◇
騒がしい広場を離れ、俺たちは仮作業所へ戻った。
机の上の配置図を囲むのは、俺、ギード、ロイル、それに大工のヘイムだ。
「さて、一月後までにやることが山積みだぞ」
俺が指を折って数え上げる。
「木陰の荷をどかす。屋根付きの新しい荷置き場を作る。井戸端と学び舎の道を物理的に分ける。門での受付手順も書き直さないとな。王国、帝国、それに聖教国を同時に迎えるための準備もあるしな」
ギードが、返書の写しを畳んで配置図の端に置いた。
「それと、もう一つじゃ」
俺は嫌な予感がして、先手を取った。
「俺は嫌だぞ」
「まだ何も言っとらん」
キドが呆れた声を出す。
「早すぎるだろ」
ギードは咳払いをした。
「外へ名乗る代表も、そろそろ決めんとな」
何気ない風を装っているが、たぶん本題はそれだ。
外に名前を出される役だ。面倒に決まっている。
「やっぱりな。俺は嫌だぞ。昼寝の時間がなくなる」
「誰もまだ、なんも言ってねえよ」
外から顔を出したキドが、呆れたような声を出した。
ヘイムが腕を組んで黙り込む。
ロイルも、何も言わずに配置図を見つめていた。
その沈黙をどう受け取ったのか、ギードがゆっくりと顔を上げ、ロイルを見た。
つられて俺も見た。
ヘイムも黙ってロイルを見た。
外から顔を出していたキドまで、なぜか黙った。
四人から一斉に見つめられたロイルが、微かに眉を寄せ、困惑したように顔を上げた。
「……なぜ、私を見るのですか」
誰も、すぐには答えなかった。
一月後の会談までに、決めることはまだある。
都市としての承認。新しい交渉役。
ロイルだけが、自分がその話の真ん中に置かれかけていることに気づいていない。
俺は軽く息を吐いた。
まあ、そういうところが向いているのかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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