第213話 女王陛下とウルムの使者
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門前の空気は、ひどく張り詰めていた。
文官は引きつった顔で黙り込み、私兵たちは槍を向けたまま互いの顔を見合わせていた。「使者」という言葉と、微動だにしないロイルの佇まいが、彼らの動きを縛っていた。
文官が何か言いかけたとき、館の奥から足音が近づいてきた。胸元の徽章を見て、ロイルは目を細めた。領主家のものではない。王国の近衛だ。
「こちらが、ウルムからの使者か」
「はい」
ロイルが礼を取ると、近衛は文官を見た。
「女王陛下がお会いになる。通せ」
文官が慌てて口を開く。
「しかし、近衛様。領主様のお耳にも入れず――」
「陛下への急使だと言っている。邪魔立てするなら、反逆と見なすが?」
文官は唇を結んだまま、私兵に目で合図した。
門が開く。
ロイルは一礼して、館の敷地へ足を踏み入れた。
◇
館の中は、やけに飾りが多かった。
廊下の壁には、グレインベルク家の紋章がいくつも掛けられていた。
古い戦の絵、馬上の領主、鹿を仕留めた先代の肖像。どれも立派ではあるが、少し多すぎる。
王国女王の旗は、奥の客間の前に一枚だけ、小さく掛けられていた。
ロイルはそれを見ても、何も言わなかった。
廊下の角に、太った男が待っていた。年は五十を少し越えたくらいか。髭は丁寧に整えられ、指には指輪が重なり、腹のあたりにゆとりを持たせた上着を着ていた。
グレインベルク領主だ。
「ウルムからとは、遠路ご苦労なことですな」
どこか媚びるような声だった。だが、ロイルは礼を返し、筒を持つ手を強く握った。
「女王陛下への書状をお持ちしました」
「それなら、私が預かりましょう。この館では、まず私を通していただくのが筋ですからな」
領主が手を出す。
しかし、ロイルは筒を握りしめた。
「女王陛下へ直接お渡しします」
「失礼ながら、ここは私の館ですぞ」
「えぇ」
「ならば――」
「その館に、王国女王陛下が滞在されています」
領主の笑みが、ほんの少し薄くなった。
その時、奥の扉が開き、オリヴィエが姿を見せた。
「ロイル殿」
「オリヴィエ卿」
「こちらへ。女王陛下がお待ちです」
領主は小さく咳払いした。
「オリヴィエ殿。急な使者です。安全確認を――」
「近衛が確認しました」
オリヴィエは、それだけ言った。
領主の指輪が小さく鳴り、握られた拳が上着の袖に隠れるのをロイルは見た。
ロイルは、軽く会釈してそのまま横を通り過ぎた。
◇
部屋の中は、思ったより静かだった。
ただ、部屋の端には多くの近衛が立っていた。
シャルロッテは窓際の机の前にいた。旅装を脱ぎ、王国女王としての衣装を纏っている。
薄い色の上着に、王家の紋章の意匠をしたブローチを控えめに留めていた。
顔色は悪くないようだ。
ロイルは膝をつき、正式に礼を取った。
「ウルムより参りました。ロイルです」
短い間があった。
「ご苦労さまです」
シャルロッテの声は落ち着いていた。
ロイルは顔を上げ、封書の筒を差し出す。
「ギード村長の判断により、再会談は一月後を希望いたします」
シャルロッテは筒を受け取った。
「理由は」
「村内の配置見直しと、住民代表との協議です」
「木陰のことですね」
「はい」
ほんの少し、シャルロッテの目が和らぐ。
「アシュラン様らしい判断です」
ロイルは、すぐには頷かなかった。
「アシュラン様だけの判断ではありません。ギード村長の判断です」
シャルロッテは、そこで表情を改めた。
「そうですね。失礼しました」
シャルロッテが封を開け、文面に目を通す。
その間、ロイルは黙っていた。
シャルロッテは紙から目を離し、改めてロイルを見た。
その目は、王国女王のものだった。
「もう一つ、口頭でお伝えすることがあります」
オリヴィエの目が動いた。
シャルロッテは封書を机に置く。
「聞きましょう」
「その前に、こちらにいる方々は……」
「大丈夫です。この部屋にいる者は皆、私が信頼を置く者たちです」
「失礼致しました。では……」
ロイルは、森で見たものだけを話した。
関所近くの脇道に残る深い轍。馬糞の数、干し肉と薪を積んだ荷車、そして、森へ向かう荷の向きのこと。
「三十から四十入ると思われます。王国正規兵の動きには見えませんでした。ただ、野盗にしては、補給が整いすぎています」
オリヴィエの顔が硬くなった。
「確認した者は」
「私です」
「他には」
ロイルは少しだけ迷い、懐から小さな羊皮紙を出した。
黒い羽の印が見える部分を、オリヴィエに向ける。
オリヴィエは、それを見て黙った。
シャルロッテも見た。
「黒鴉ですか」
「はい。ただし、私が見たものと矛盾はありません」
「分かりました」
シャルロッテは、静かに言った。
「……領主殿を」
近衛が動き、領主を呼びに出た。
それから、暫くすると扉が開く。
グレインベルク領主が入ってくる。さきほどの柔らかい笑みを、もう一度顔に貼り付けて。
「陛下、お呼びでございますか」
「関所近くの森に、武装した集団がいるようです」
シャルロッテの問いかけに、領主はわざとらしく眉をひそめてみせた。
「国境近くですからな。質の悪い野盗の類でしょう。物騒なことです。会談を控えたウルムの治安を守るためにも、近隣領主である我らが兵を出して、速やかに……」
ロイルが何も言わず、ただ氷のような目で彼を見つめる。その視線に気づいた領主が言い淀んだ。
「……え? いや、ですから、その……」
領主の目が泳ぎ、額にじわりと脂汗が浮かぶ。
「森の連中の行き先がウルムだとは、一言も申し上げておりませんが」
ロイルの低く抑えた声が、とどめを刺した。
オリヴィエが一歩前へ出る。剣の柄に手が添えられていた。
「森の確認は、王国近衛が行う。領主家の兵は、一切動かさないように」
「なっ……! しかし、領内の治安を守るのは私の……」
「これは、女王である私の命です」
シャルロッテの声は、決して大きくはなかった。
だが、その一言を聞いて領主は膝をついた。その顔からは、血の気が引いていた。
「……承知、いたしました」
「領主殿。あなたは、この館に留まりなさい。森にも、関所にも、一切の使いは出さないように」
「陛下、それはあまりにも――」
「確認が済むまでです」
シャルロッテは繰り返した。
領主はそれ以上、言えなかった。
領主は顔を伏せたまま、近衛に促されて部屋を出ていった。
シャルロッテはオリヴィエへ顔を向ける。
「関所を押さえてください。森へ向かう道もです。領主家の兵には、一歩も動かせないように」
「承知しました」
「それから、領主館から外へ出る者を確認してください。伝令が出ているはずです」
オリヴィエの目が細くなる。
「すでに出ている可能性があります」
「分かってるなら、急いでください」
「はっ」
オリヴィエは短く返事をし、近衛を数名連れて部屋を出ていった。
残ったのは、シャルロッテとロイル、それから壁際に立つ二人の近衛兵だけだった。
ロイルにとっては、その方がよかった。
二人きりなら、たぶん何を言えばいいか分からなかった。
シャルロッテは机の上の封書へ視線を落とした。
「助かりました」
「ウルムの使者として、見たものをお伝えしただけです」
「それだけで、十分です」
窓の外から、風が木々を揺らす音が聞こえた。
シャルロッテが、静かに名を呼ぶ。
「……ロイル」
不意に呼ばれた名前に、ロイルは顔を上げる。
「はい、女王陛下」
一瞬だけ、シャルロッテの目が伏せられた。
けれど、次に顔を上げた時には、女王の顔に戻っていた。
「……無事でよかった」
ロイルは返事に迷った。
たった一言でよかった。
たぶん、ロッテと呼べた頃なら。
だが今は、そうではない。
「女王陛下こそ、ご無事で何よりです」
シャルロッテは、少しだけ苦笑した。
「そういう返し方を、するのですね」
「使者ですので」
「……えぇ。分かっています」
近づく言葉は、いくつかあった。
だが近づけば、ロイルは使者でいられなくなる。
シャルロッテは封書を指で撫でるように押さえた。
「ウルムは、木陰を直すのですね」
「はい」
「王国では、たぶん先に名前を決めてしまいます。国境の街、とか、要衝の街、とか」
「ウルムでは、名前を刻む前に座る場所を見ることになりました」
シャルロッテは小さく笑った。
「アシュラン様らしい……、あ、違いましたね」
「えぇ、ギード村長の判断です」
「はい。ウルムの判断ですね」
その言葉を聞いて、ロイルは少しだけ息を緩めた。
シャルロッテの目が、窓の外の遠い空を見つめる。
「一月後、改めて伺います。その時も、門で名を書きます」
「お待ちしております」
ロイルが深く頭を下げると、シャルロッテの小さな声が降ってきた。
「その時、あなたは門にいますか」
ロイルは、すぐには答えられなかった。
「……必要なら」
「そうですか」
シャルロッテはそれ以上聞かなかった。
その沈黙に助けられた気がした。
だが、廊下を走る足音が、部屋の静寂を打ち破った。
扉が開き、オリヴィエが戻ってきた。
その表情だけで、何かを掴んだのだと分かった。
「陛下。領主館から出た伝令を二名、街道で押さえました」
シャルロッテの表情が引き締まる。
「で、どうでしたか」
「森の者たちへ、待機を続けろという内容でした」
オリヴィエはそう言って、折りたたまれた紙片を差し出す。
その封蝋は、グレインベルク家のものだった。
シャルロッテは紙片を受け取る。さっと目を通した後、顔を上げる。
「森の方は」
「近衛が向かっています。領主家の兵は動かしていません」
「傭兵たちは」
「まだ森の中です。ただ、雇い主からの伝令が届かなければ、長くは保たないでしょう」
ロイルが顔を上げる。
すでに、行商人のパウルに託した急報はウルムへ向かっているはずだ。アシュランなら、間違いなく対応するだろう。
ロイルは、そこで口を開く。
「待たされる傭兵は荒れます。食料と金が止まれば、勝手に散る者も出るはずです」
オリヴィエが頷く。
「なら、関所を押さえたまま、森から出る道を絞ります。捕らえられる者は捕らえ、逃げる者は追跡を付けます」
ロイルは、握っていた筒から少しだけ力を抜いた。
まだ終わってはいない。
それでも、最悪の道筋は逸れた。
シャルロッテは、ゆっくりと椅子に座り直した。
「領主殿は、この館に留めます。関所と森の確認が終わるまで、誰とも会わせません」
「よろしいのですか」
ロイルが聞くと、シャルロッテは静かに頷いた。
「王国の貴族が、王国の名を使ってウルムを乱そうとしたのです。王国が処理します」
その声に、迷いはなかった。
ロイルは深く頭を下げる。
「承知しました」
「ロイル」
「はい」
「ウルムへは、私から正式な返書を出します。再会談を一月後とすること。村内の見直しを尊重すること。そして、今回の件は王国側の責任で調査すること」
「そのまま、お伝えします」
「いいえ」
シャルロッテは首を振った。
「書きます。言葉だけでは足りません」
そう言うと、シャルロッテは机の上の羊皮紙を引き寄せた。
女王自ら筆を取る。
近衛も、オリヴィエも、誰も口を挟まなかった。
ロイルはその様子を見ていた。
しばらくして、シャルロッテは筆を置いた。
「この書面は、あなたに託します」
「私が、ですか」
「ウルムから来た使者です。返書を持ち帰るのも、あなたが一番よいでしょう」
「……承知しました」
ロイルは礼を取った。
シャルロッテは、封をする前の羊皮紙にもう一度目を落とした。
「無事に戻ってください」
今度は、ロイルもすぐには返さなかった。
やがて、静かに頭を下げる。
「はい。女王陛下」
夜になっても、領主館の廊下には人の気配が残っていた。
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