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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第15章 世界の基準点と木陰のまどろみ

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第212話 街道の影と使者の目

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

夜明け前のウルム村は、冷たい空気の中で静まり返っていた。


西門の傍らには、見張り台の灯りが細く残っていた。門の脇では、馬が白い息を吐いている。

ロイルは鞍の位置を確かめ、腹帯を締め直した。


「早いな」


振り返ると、アシュランが上着を引っ掛けただけの姿で立っていた。


「見送りですか?」


「目が覚めてしまったからな。ついでに様子を見に来た」


「そうですか」


ロイルはそれ以上聞かなかった。


アシュランは馬を一度だけ見て、それから門の外へ目を向ける。


「街道の流れには気を付けておけ」


「街道の流れですか?」


「あぁ、人や荷の流れが滞る場所には、何かしらの理由があるからな」


ロイルは手綱を握り直し、小さく頷く。


「門で荷車の詰まりを見るのと同じですね」


「それと、無理に急ぐな。急いで死なれると、書状が届かないからな」


「書状の心配ですか?」


アシュランは、ばつの悪そうに目をそらす。


ロイルは馬に跨ると手綱を握りしめた。


「では。行ってまいります」


「あぁ、必ず帰ってこいよ」


ロイルは頷くと、門番に向けて手を挙げる。


門が開く。


ロイルは西の街道へ馬を進めた。



王国側へ向かう道は、何度も通った道だった。


傭兵としてこの国境をうろついていた頃は、吹き抜ける風にもっと生臭いものが混じっていた気がする。

道はただ通過するだけだったし、ただ、命じられた場所へ向かうだけだった。


だが今は違う。

手綱を握る手が、何度か胸元へ行きかけた。そこには封書があった。


書状を届け、見聞きしたものを持ち帰る。

途中で余計な手柄を拾う必要もなければ、誰かの首を持って帰る必要もない。


そう考えてみると、簡単そうで、意外と昔より厄介に思えてきた。


陽が高くなり、乾いた土の匂いが立ち込め始めた昼過ぎ。

前方に、王国側の入り口であるグレインベルク領の国境関所が見えてきた。


王都へ続く主要街道の要所であり、普段なら商人や旅人でごった返す場所だ。


遠目には、ありふれた関所だった。

古びた木柵の前に立ち、槍を持ったまま雑談に興じる警備兵たち。

通行札を見せる行商人たち。


ロイルは馬の速度を緩め、関所の手前で周囲に目を走らせる。


街道から右手の森へと逸れていく細い獣道。その入り口の土に、不自然に深い(わだち)が刻まれていた。


車輪の幅と、地面への沈み込みの深さを見る。

農作業用の粗末な荷車ではなく、荷を積む中型馬車の轍だ。

しかも一台や二台の痕跡ではなかった。


轍の縁には、まだ湿った泥が残っていた。昨日の夕方か、今朝か。少なくとも、最近動いている。


ロイルは表情を変えずに馬を進め、関所で名を告げた。


「ウルムからの使者です。グレインベルク領主館へ向かいます」


「女王陛下のご滞在先へ?」


「はい」


警備兵は通行証の印を見て訝しげに眉をひそめたが、正式な書類を前に止める理由はなかった。


「……通れ」


ロイルは礼をして進む。

そのまま行くふりをして、少し先で馬をゆっくり歩かせた。


森へ向かう脇道に目をやると、馬糞が目立った。関所を行き来する馬の数を考えても、少し多い。

古いものに、新しいものが重なっている。

雨で流れた様子もない。ここ数日で集中して通ったとみていいだろう。


そこへ、関所の裏手から地元の荷運びらしい男たちが二人、手押し車を引いて現れた。


積まれた麻袋に鼻を近づけると、強い塩気と燻した香りがした。干し肉だろう。荷車の半分を占める薪と合わせると、かなりの量だ。


関所の詰所に運び込むには、量が多すぎる。ロイルは男たちの行く先を目で追った。


男たちは街道を逸れると、深い轍の残る森の脇道へと手押し車を入れていった。


ロイルは馬上で手綱を緩める。


三十……いや、四十はいるかもしれない。

それだけの数の集団が、馬を伴ってあの森の奥に長期間滞在している。


火を使って、肉を食う連中がいる。隠れているつもりでも、荷の動きは隠しきれない。


「どこの兵だ?」


正規軍にしては痕跡が杜撰すぎる。だが、野盗の寄せ集めにしては、兵糧の運び込みが計画的すぎる。

……金で掻き集められた、どこぞの貴族の私兵といったところか。


関所から十分に距離を取ってから、ロイルは静かに馬を降りた。

手綱を木に繋ぎ、風下へ回る。


地面の柔らかい腐葉土を避け、太い木の根に靴底を這わせて音を殺す。昔取った杵柄だった。

あまり思い出したくはない技術だが、役に立つものは何でも使う。


暫く進み、森の奥へ視線を凝らそうとした、その時だった。


目の前の木の幹に、小さく音がした。


ロイルの体が瞬時に反応し、低く沈み込む。視線だけを鋭く巡らせるが、鳥の鳴き声と風の音だけで、周囲に人の気配は一切ない。


見ると、短い小刀が一本、幹に刺さっている。そして、その小刀の柄に細く巻かれた羊皮紙。


ロイルは警戒を解かないまま小刀へ手を伸ばし、羊皮紙を引き抜き開いてみる。


そこには、ただ事実だけが簡潔な文字で並んでいた。


『グレインベルク領主、傭兵を森へ入れる。会談日に合わせ、ウルム周辺で野盗騒ぎを起こす算段。

治安悪化を口実に、領兵を入れる筋書き。王都の指示ではない』


短い文の最後に、小さな黒い羽の紋様が描かれていた。


ロイルは静かに息を吐いた。

「……黒鴉か」


わざわざ結末まで書いて寄越すような、親切な連中ではない。

ロイルは紙をもう一度読んだ。


会談日程に合わせて。


しかし、会談は一月後に延びた。森の連中はまだそれを知らない。待機が長引けば食料は減り、金の支払いも遅れる。傭兵は理由のない待機を嫌う。まして雇い主が地方領主となれば、支払いが滞る可能性も高い。


恐らく、長くは保たない。

金か飯が切れれば、勝手に動く。


ロイルは紙を畳み、懐へ入れた。


昔なら、森へ入っていた。人数を数え、見張りを避け、指揮官の寝所を探す。必要なら首を落とす——そういう仕事もした。


ロイルは手帳を引き抜き、黒鉛の筆を走らせた。


『敵数およそ四十。輜重あり。会談延期を知らず、一週間以内に暴発の恐れ』


アシュランなら、この走り書きで足りる。

舌打ちくらいはするかもしれないが、その時はその時だ。


街道へ戻ると、見覚えのある行商人が小型の荷馬車を止めていた。


「ロイルさん?」


「おう、確か……」


「西街道のパウルです。以前、ウルムでもお世話になりました」


ロイルは、少し思案した後にパウルに返答した。


「あぁ、そうだな。突然で悪いんだが、少し頼みがある」


パウルは御者台から身を乗り出した。


ロイルは銀貨を二枚渡し、紙片を握らせる。


「ウルムの西門へ。アシュラン様か窓口へ直接持って行ってくれないか」


「物騒な話ですか」


「……いや。物騒にしないための話だ」


行商人は銀貨を見て、それからロイルの顔を見た。


「分かりました。急ぎましょう」


「あぁ、頼んだぞ」


「ええ」


パウルは手綱を握り直すと、荷馬車を東へ向けた。

車輪が乾いた土を噛み、街道の上に細い土煙が立つ。


ロイルはそれを見送ってから、馬に戻った。


これで、ウルムには届く。

アシュラン様も動いてくれるだろう。


問題は、その先だ。

この浅い策を考えた者の館に、今、シャルロッテ女王陛下がいる。


ロイルは手綱を握った。



グレインベルク領主館は、思っていたより静かだった。

いや、静かすぎる。


門前に私兵が並んでいたが、槍の持ち方が揃っていない。領内の警備兵ではなく、急ごしらえで数を増やしたように見えた。


門柱のそばに文官らしい男が立っていた。神経質そうな顔をしていたが、服だけは小綺麗だった。


「止まれ。何者だ」


その声を聞いて、ロイルは馬を止めて降りた。


長旅の埃を軽く払うと封書の入った筒を右手に持って、正面から門へ向かった。


「ウルムより参りました」


「ウルム?」


男の表情がわずかに動いた。


ロイルは、構わず言葉を続ける。


「シャルロッテ女王陛下への急使です。至急、面会を願います」


兵の一人が半歩前へ出た。


「領主様への取次ぎが先だ」


「女王陛下への使者です」


「この館では、領主様の許可が――」


「女王陛下への使者です」


同じ言葉を繰り返す。


ロイルの静かな気迫に、兵の一人が、槍を握り直した。


ロイルは文官をまっすぐ見る。


「ウルムの会談に関わる正式な書状をお持ちしました。女王陛下へ直接お渡しします」


文官の喉が動いた。館の奥で、慌ただしく走る足音がした。


ロイルは門の前で待った。この館の中に、女王陛下がいる。そして、おそらく仕掛けた側の人間も。


封書の筒を握る指に、知らず力が入っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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