第212話 街道の影と使者の目
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夜明け前のウルム村は、冷たい空気の中で静まり返っていた。
西門の傍らには、見張り台の灯りが細く残っていた。門の脇では、馬が白い息を吐いている。
ロイルは鞍の位置を確かめ、腹帯を締め直した。
「早いな」
振り返ると、アシュランが上着を引っ掛けただけの姿で立っていた。
「見送りですか?」
「目が覚めてしまったからな。ついでに様子を見に来た」
「そうですか」
ロイルはそれ以上聞かなかった。
アシュランは馬を一度だけ見て、それから門の外へ目を向ける。
「街道の流れには気を付けておけ」
「街道の流れですか?」
「あぁ、人や荷の流れが滞る場所には、何かしらの理由があるからな」
ロイルは手綱を握り直し、小さく頷く。
「門で荷車の詰まりを見るのと同じですね」
「それと、無理に急ぐな。急いで死なれると、書状が届かないからな」
「書状の心配ですか?」
アシュランは、ばつの悪そうに目をそらす。
ロイルは馬に跨ると手綱を握りしめた。
「では。行ってまいります」
「あぁ、必ず帰ってこいよ」
ロイルは頷くと、門番に向けて手を挙げる。
門が開く。
ロイルは西の街道へ馬を進めた。
◇
王国側へ向かう道は、何度も通った道だった。
傭兵としてこの国境をうろついていた頃は、吹き抜ける風にもっと生臭いものが混じっていた気がする。
道はただ通過するだけだったし、ただ、命じられた場所へ向かうだけだった。
だが今は違う。
手綱を握る手が、何度か胸元へ行きかけた。そこには封書があった。
書状を届け、見聞きしたものを持ち帰る。
途中で余計な手柄を拾う必要もなければ、誰かの首を持って帰る必要もない。
そう考えてみると、簡単そうで、意外と昔より厄介に思えてきた。
陽が高くなり、乾いた土の匂いが立ち込め始めた昼過ぎ。
前方に、王国側の入り口であるグレインベルク領の国境関所が見えてきた。
王都へ続く主要街道の要所であり、普段なら商人や旅人でごった返す場所だ。
遠目には、ありふれた関所だった。
古びた木柵の前に立ち、槍を持ったまま雑談に興じる警備兵たち。
通行札を見せる行商人たち。
ロイルは馬の速度を緩め、関所の手前で周囲に目を走らせる。
街道から右手の森へと逸れていく細い獣道。その入り口の土に、不自然に深い轍が刻まれていた。
車輪の幅と、地面への沈み込みの深さを見る。
農作業用の粗末な荷車ではなく、荷を積む中型馬車の轍だ。
しかも一台や二台の痕跡ではなかった。
轍の縁には、まだ湿った泥が残っていた。昨日の夕方か、今朝か。少なくとも、最近動いている。
ロイルは表情を変えずに馬を進め、関所で名を告げた。
「ウルムからの使者です。グレインベルク領主館へ向かいます」
「女王陛下のご滞在先へ?」
「はい」
警備兵は通行証の印を見て訝しげに眉をひそめたが、正式な書類を前に止める理由はなかった。
「……通れ」
ロイルは礼をして進む。
そのまま行くふりをして、少し先で馬をゆっくり歩かせた。
森へ向かう脇道に目をやると、馬糞が目立った。関所を行き来する馬の数を考えても、少し多い。
古いものに、新しいものが重なっている。
雨で流れた様子もない。ここ数日で集中して通ったとみていいだろう。
そこへ、関所の裏手から地元の荷運びらしい男たちが二人、手押し車を引いて現れた。
積まれた麻袋に鼻を近づけると、強い塩気と燻した香りがした。干し肉だろう。荷車の半分を占める薪と合わせると、かなりの量だ。
関所の詰所に運び込むには、量が多すぎる。ロイルは男たちの行く先を目で追った。
男たちは街道を逸れると、深い轍の残る森の脇道へと手押し車を入れていった。
ロイルは馬上で手綱を緩める。
三十……いや、四十はいるかもしれない。
それだけの数の集団が、馬を伴ってあの森の奥に長期間滞在している。
火を使って、肉を食う連中がいる。隠れているつもりでも、荷の動きは隠しきれない。
「どこの兵だ?」
正規軍にしては痕跡が杜撰すぎる。だが、野盗の寄せ集めにしては、兵糧の運び込みが計画的すぎる。
……金で掻き集められた、どこぞの貴族の私兵といったところか。
関所から十分に距離を取ってから、ロイルは静かに馬を降りた。
手綱を木に繋ぎ、風下へ回る。
地面の柔らかい腐葉土を避け、太い木の根に靴底を這わせて音を殺す。昔取った杵柄だった。
あまり思い出したくはない技術だが、役に立つものは何でも使う。
暫く進み、森の奥へ視線を凝らそうとした、その時だった。
目の前の木の幹に、小さく音がした。
ロイルの体が瞬時に反応し、低く沈み込む。視線だけを鋭く巡らせるが、鳥の鳴き声と風の音だけで、周囲に人の気配は一切ない。
見ると、短い小刀が一本、幹に刺さっている。そして、その小刀の柄に細く巻かれた羊皮紙。
ロイルは警戒を解かないまま小刀へ手を伸ばし、羊皮紙を引き抜き開いてみる。
そこには、ただ事実だけが簡潔な文字で並んでいた。
『グレインベルク領主、傭兵を森へ入れる。会談日に合わせ、ウルム周辺で野盗騒ぎを起こす算段。
治安悪化を口実に、領兵を入れる筋書き。王都の指示ではない』
短い文の最後に、小さな黒い羽の紋様が描かれていた。
ロイルは静かに息を吐いた。
「……黒鴉か」
わざわざ結末まで書いて寄越すような、親切な連中ではない。
ロイルは紙をもう一度読んだ。
会談日程に合わせて。
しかし、会談は一月後に延びた。森の連中はまだそれを知らない。待機が長引けば食料は減り、金の支払いも遅れる。傭兵は理由のない待機を嫌う。まして雇い主が地方領主となれば、支払いが滞る可能性も高い。
恐らく、長くは保たない。
金か飯が切れれば、勝手に動く。
ロイルは紙を畳み、懐へ入れた。
昔なら、森へ入っていた。人数を数え、見張りを避け、指揮官の寝所を探す。必要なら首を落とす——そういう仕事もした。
ロイルは手帳を引き抜き、黒鉛の筆を走らせた。
『敵数およそ四十。輜重あり。会談延期を知らず、一週間以内に暴発の恐れ』
アシュランなら、この走り書きで足りる。
舌打ちくらいはするかもしれないが、その時はその時だ。
街道へ戻ると、見覚えのある行商人が小型の荷馬車を止めていた。
「ロイルさん?」
「おう、確か……」
「西街道のパウルです。以前、ウルムでもお世話になりました」
ロイルは、少し思案した後にパウルに返答した。
「あぁ、そうだな。突然で悪いんだが、少し頼みがある」
パウルは御者台から身を乗り出した。
ロイルは銀貨を二枚渡し、紙片を握らせる。
「ウルムの西門へ。アシュラン様か窓口へ直接持って行ってくれないか」
「物騒な話ですか」
「……いや。物騒にしないための話だ」
行商人は銀貨を見て、それからロイルの顔を見た。
「分かりました。急ぎましょう」
「あぁ、頼んだぞ」
「ええ」
パウルは手綱を握り直すと、荷馬車を東へ向けた。
車輪が乾いた土を噛み、街道の上に細い土煙が立つ。
ロイルはそれを見送ってから、馬に戻った。
これで、ウルムには届く。
アシュラン様も動いてくれるだろう。
問題は、その先だ。
この浅い策を考えた者の館に、今、シャルロッテ女王陛下がいる。
ロイルは手綱を握った。
◇
グレインベルク領主館は、思っていたより静かだった。
いや、静かすぎる。
門前に私兵が並んでいたが、槍の持ち方が揃っていない。領内の警備兵ではなく、急ごしらえで数を増やしたように見えた。
門柱のそばに文官らしい男が立っていた。神経質そうな顔をしていたが、服だけは小綺麗だった。
「止まれ。何者だ」
その声を聞いて、ロイルは馬を止めて降りた。
長旅の埃を軽く払うと封書の入った筒を右手に持って、正面から門へ向かった。
「ウルムより参りました」
「ウルム?」
男の表情がわずかに動いた。
ロイルは、構わず言葉を続ける。
「シャルロッテ女王陛下への急使です。至急、面会を願います」
兵の一人が半歩前へ出た。
「領主様への取次ぎが先だ」
「女王陛下への使者です」
「この館では、領主様の許可が――」
「女王陛下への使者です」
同じ言葉を繰り返す。
ロイルの静かな気迫に、兵の一人が、槍を握り直した。
ロイルは文官をまっすぐ見る。
「ウルムの会談に関わる正式な書状をお持ちしました。女王陛下へ直接お渡しします」
文官の喉が動いた。館の奥で、慌ただしく走る足音がした。
ロイルは門の前で待った。この館の中に、女王陛下がいる。そして、おそらく仕掛けた側の人間も。
封書の筒を握る指に、知らず力が入っていた。
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