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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第15章 世界の基準点と木陰のまどろみ

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第211話 木陰と黒鴉

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

「ベアトリクス。いるんだろ」


街道脇の木陰へ声をかけると、葉が一枚だけ落ちる。

木漏れ日の落ちる影の形がふっと歪んだかと思うと、そこに黒髪の女が立っていた。彼女の漆黒の装束は異様なほど周囲に溶け込んでいる。


表情は平坦そのものだった。だが、瞳の奥がほんのわずかに揺れた気がした。


「……いつから気づいていた」


「昼過ぎからだ」


「どうやって」

低く、そして硬い声。


「そこだけ虫の音がなかった。鳥もいないしな。あと、風の向きが少し変だった」


淡々と事実だけを並べると、ベアトリクスは完全に口を閉ざした。魔力や気配を絶つことには絶対の自信があったのだろうが、虫や風の動きまでは誤魔化しきれなかったらしい。


「どうやら村には入ってないようだな」


「当然だ。入るわけがない」


「ならいい。もし、入るなら名を書けよ」


「承知している」


そこで短いやり取りが途切れた。彼女を追い払うつもりはない。ウルムの門の手順を破っていない以上、咎める理由はないからだ。


「で、何で残ってる」


「陛下が動かれるなら、近くに連絡役が要る」

帝国側からすれば当然の処置なのだろう。即答する彼女に、俺は軽く頭を掻く。


「帝国では、連絡役が木陰で気配を消すのか」


「見える場所にいれば、村の者が気にする」


一理ある。俺は、言い返そうとして、やめた。


恐らく、黒鴉の総隊長が門前に立っていたら、誰でも気にするだろう。

住民代表は言葉を選び、商人も古参の男も、井戸端で世間話をする女たちでさえ、常に帝国の顔色を窺うことになるかもしれない。


「近くに剣を置かれると、人は喋りにくくなるからな」


ぽつりと言うと、ベアトリクスの眉間が微かに寄った。


俺は懐から、ロイルが清書した書付の写しを取り出し、彼女に差し出した。


「皇帝に渡してくれ」


ベアトリクスはそれを受け取り、すぐに目を通す。


そこには、再会談は一月後を希望すること。理由は住民代表との協議と村内配置の見直しであること。木陰や荷置き場、井戸端、学び舎への道を七日間試行し修正をかけること。そして、帝国側の確認事項は文書で返すことなどが記されている。


「再会談を一月後へ延期するのか?」


「ギードの判断だ」


「それにしても……、延期の理由が、木陰なのか」


書付から顔を上げた彼女の声には、信じられないという響きが混じっていた。


「木陰だけじゃない。荷置き場と井戸端と、学び舎へ行く道もだな」


「国家同士の会談を、それで延ばすのか」


「そこを直さずに自治都市を名乗る方が変だろ」


平然と返してやる。帝国から見れば、笑うような些末なことかもしれない。だが、ウルムにとっては、それこそが重要だった。大きな政治の話をする前に、子供の歩く道と、女たちが水を汲む場所を整える。


少なくとも、俺はそう思う。


「陛下には、私から伝える」


「頼む。だが、言葉は選べよ。木陰で延期とだけ聞くと、俺が昼寝の場所を守りたいだけに聞こえる」


「違うのか」


「少し違う」


俺が軽く笑うと、彼女は小さく息を吐いた。


「陛下が帝都へ戻られるなら、私はこの周辺に残る」


「そうか。でも、村には入るなよ」

念を押すと、ベアトリクスは頷いた。


「必要な時は、きちんと手順を守ろう」


「宿はどうするんだ?」


「街道宿を使う。空きがなければ野営する」


「黒鴉の総隊長が野宿か」


「任務なら、そう珍しいことではない」


彼女の口調は相変わらず硬い。俺の軽口に乗る気はないらしい。


「勝手に聞き込みをするなよ。礼拝堂、学び舎、鍛冶場、水場にも近づくな」


「何もしないなら、残る意味がない」


「何もしないで待つのも仕事だろ」


「黒鴉には難しい命令だ」


「だろうな」


俺は視線を村の方へ向けた。


市場裏の木陰では、積まれていた荷がどかされ、古参の男が腰を下ろしている。水場では女たちが夕げの支度のために集まり、学び舎からは子供たちが駆けてくる。


「外の偉い奴らが近くにいるだけで、村の声は変わるんだよ」


俺の言葉に、ベアトリクスは村の景色を見つめたまま黙り込んだ。

近づきすぎなければ、村の者もいつも通りに話せる。


「……承知した」

少しの間の後、短い返事が木陰に溶けていった。


門へ戻る道すがら、俺は市場の裏手を眺めていた。


先ほどまで荷物で埋まっていた木陰に、人の営みが戻っている。古参の男の隣で、井戸端から来た女が立ち話し、木の根元では子供が木の棒で地面を掘り返して遊んでいる。

ただ荷物をどけただけで、その場所の意味が元の形に収まった。

物は、置く場所で意味が変わる。


人も、たぶん似たようなものだ。


門の近くまで戻ると、いつもの光景が広がっていた。


ロイルが丁寧に色札の残りを仕分けし、リュックが理由板の文字を新しい板に書き写している。キドは余った札を束ねているが、相変わらず手つきが雑だ。


「キド、札が曲がってるぞ」


俺が指摘すると、キドはあからさまに唇を尖らせた。


「細かいなあ、アシュラン様は。だいたい揃ってればいいじゃん」


「それじゃ後で使う奴が取り出しにくいだろ」


「へーへー、わかりましたよ。リュック、代わりにやって」


「聞こえていましたよ。自分でやってください」


リュックが顔も上げずに冷たく切り返す。

帝国の黒鴉と話した直後だというのに、門の前はいつも通りだ。

そう思っていた時だった。


「あーあ」

キドが不意に、何気ない声で呟いた。


「ロッテと話したかったな」


その瞬間。札を揃えていたロイルの指先が、ピタリと止まった。


ほんの一瞬のことだ。すぐにまた動き始めたが、俺にはその一瞬の硬直がはっきりと見えた。


キドは悪気もなく、ロイルの方を向いて続ける。


「なあ、ロイルもそう思うだろ?」


ロイルは、札の端を指の腹で丁寧に揃えきってから、静かに答えた。


「女王陛下だ」


「でも、ロッテはロッテだろ」


「もう、そうは呼ばない」


「変なの」

キドが首を傾げる。


「変でも、そうするもんだ」

ロイルの声は酷く落ち着いていた。


キドにとっては、ロッテはあくまでもロッテでしかないのだろう。

王国も女王も、大人が後から足したものにすぎない。


しかしロイルは、彼女が背負ったものの重さを、誰よりも知っている。

もう二度と、気安く名を呼ぶことは許されないのだと、自分自身に言い聞かせているようだった。


俺は口を挟めず、ただ黙って見ていることしかできなかった。


ひどく頼みにくい。

だが、王国側へ正式に伝えるなら、ほかにない。


「ロイル」


「はい」


呼ばれて振り向いたロイルの顔は、もういつも通りに見えた。


「王国側へ行ってくれ。行き先は、グレインベルク領だ」


ロイルはすぐには返事をしなかった。

札の束を一つ横へ置き、記録板を閉じる。そこまでしてから、こちらを見た。


「用件は」


「再会談の延期。ギードの判断で一月後を希望する。理由は、村内の見直しだ」


「書状は」


「お前が書いた方が早い」


「承知しました」


淡々と引き受けるロイルに、俺は少しだけ言葉を迷った。


「無理なら、別を出す」


俺なりの、気遣いのつもりだった。だがロイルは、わずかに首を振る。


「使者として行くだけです」


声は落ち着いた声だった。

逆に、落ち着きすぎていて、俺も余計なことは言えなくなった。


「なら頼む」


「はい」


しばらくして、ギードが門のそばに歩み寄ってきた。


「ロイルでよかったのか」


俺はため息交じりに答える。

「王国側に伝えるなら、あいつが一番間違えない」


「それだけか」

ギードが片眉を上げるが、俺は答えなかった。


ギードはそれ以上追及せず、顎の髭を撫でる。


「ロイルは、門で女王にも名を書かせた男じゃ。なら、使者としても立てるじゃろう」


「……重い役ばかり増えるな」


「自治都市などという名を口にしたからじゃ」


「まだ決まったわけじゃない」


「そうじゃな。だから今、決める前の仕事をしておる」

ギードの言葉に、俺は空を見上げた。


街の名前を決める前にやることがある。

木陰を直し、荷の置き場を変え、井戸端の動線を整え、帝国や王国との距離を測る。


面倒だ。


だが、勝手に名前を付けられるよりはましに思えた。


夜になっても、迎賓館の窓口には灯りが残っていた。


ロイルはペンを握り、羊皮紙に向かっていた。


その文面は短く、事務的な事実のみを連ね、感情の入り込む余地は一切なかった。

ロイルは最後に、宛名を書いた。


シャルロッテ女王陛下。


そこで一度だけ、ペン先が止まった。

インクの染みが広がる前に、ロイルはペンをインク壺に戻した。書き直すことはしない。呼び方を崩すことも、余計な言葉を書き足すこともしない。


丁寧に羊皮紙を折りたたみ、封蝋を垂らす。


部屋の入口の脇に寄りかかっていた俺は、その一部始終を黙って見ていた。


封を終えたロイルが、顔を上げる。


「明朝、出ます」


「早いな」


「遅く出ても、考える時間が増えるだけですので」


ロイルの顔には、微かな疲労と、それ以上の決意が張り付いていた。

彼はそれ以上何も言わず、机の上の灯りを静かに落とした。


部屋の片隅が、少し暗くなった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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