第207話 円卓と境界線
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朝から迎賓館が騒がしかった。
机を運ぶ音。椅子を数える声。茶器を並べる音。
どれも必要な音だ。だが、聞いているだけで気が重くなる。
俺は大会議室の入口で足を止めた。
「……もう帰っていいか」
「まだ入ってもおらんじゃろうが」
ギードに背中を押され、仕方なく部屋へ入る。
職員たちは、長机を奥へ据えようとしていた。上座に皇帝。その向かいに王国女王。横にウルム側。少し離れた場所に聖教国の立会人席。
見た瞬間、頭が痛くなった。
「やり直し」
職員の手が止まる。
「ですが、皇帝陛下と女王陛下の席を……」
「だから駄目だ。上座を二つも作るな。揉める種にしかならん」
カインが、隣で眼鏡を直した。
「帝国を上座に置けば、王国側が黙っていません。逆も同じでしょう。ウルムを上座にすれば……まあ、マスターが逃げますね」
「そうだ。逃げるぞ」
「威張って言うことじゃないじゃろう」
ギードが呆れた声を出す。
都合よく円卓などあるわけがない。
同じ大きさの机をいくつか寄せて、無理やり円に近づける。角は厚い布でごまかした。
完璧ではない。だが、誰か一人が上に見える形よりはましだ。
中央に置いたのは、白紙の記録帳と、ウルム周辺の地図。
それから、黒皇石と白石板の配置図。
職員が、遠慮がちに花瓶を持ってきた。
「飾りは……」
「いらない」
「少し寂しく見えませんか」
「花を置くと、誰が用意した花かで意味を読まれる」
「では、燭台は」
「火種を真ん中に置くな。縁起でもない」
職員は、諦めたように記録帳を置いた。
「では、記録帳と地図で」
「それでいい。真ん中に置くなら、後で揉めた時に確認できるものがいい。見栄えは、今はどうでもいい」
机を押していたキドが、横から覗き込む。
「丸くしたら、偉い人はいなくなるのか?」
「偉い人は消えない。ただ、偉そうに見える場所は消せる」
「便利だな、丸」
「角が少ないと、角も立ちにくい」
キドが少し黙ったあと、じっと俺を見た。
「今の、ちょっと言いたかっただけだろ」
「椅子を並べろ」
「やっぱり」
◇
会議室を抜けると、そのまま門前へ向かった。
黒皇石の位置を見るためだ。
あの石は、これまでウルムを守ってきた。
帝国皇帝の不可侵の証。王国の兵も、そこに刻まれた双頭鷲を見れば、簡単には足を踏み込めない。
だが、今は別の意味を持ち始めている。
守ってくれた石が、今度は帝国の影を濃くする。
石そのものは変わっていない。ただ、置く場所が変わるだけで、見る側が勝手に理由を足す。
石のくせに、本当に面倒くさい。
「重い」
いつの間にか、リナが隣にいた。
裸足のまま黒皇石へ近づき、指先で軽く触れる。
「こっちは、重い。ずっと誰かが見てるみたい」
「昨日の皇帝も重いって言ってたな」
「皇帝とは違う。これは動かないのに重い」
よく分からないが、言いたいことは少し分かる気がした。
門の脇には、白い石板を仮置きしてある。学校用に磨かせていたものだ。まだ何も刻んでいない。
リナはそちらにも触れた。
「こっちは、息がしやすい」
「そうか」
「ここに置くなら、子供が通る時に見える」
「子供基準か」
「大人は見えてても見ない」
返す言葉がなかった。
エレノアが後ろから歩いてきた。白湯の壺は持っていない。珍しい。
「黒皇石を動かしますの?」
「隠す気はない。ただ、門の真正面に置き続けると、帝国の門みたいに見える」
「歴史のある石ほど、置き方を間違えると厄介ですわ。見る人が、余計なものまで背負わせますもの」
「そういうことだ」
黒皇石は門の脇へ移動させる。
見えなくするつもりはないが、門をくぐる前にまず石が目に入るような置き方はやめる。
白石板は、来訪者にも子供たちにも見える場所へ置く。
何を書くかは、今日決まる。
……決まれば、だが。
「一つの石で全部を背負わせるから重くなる」
リナは白石板の横へしゃがみ込み、小石を一つ置いた。
「ここ、木があってもいい」
「今それを増やすな」
「あとで」
「……あとでな」
あとで植える木が、また一つ増えた。
最近はそんな話ばかりだ。
誰かが思いつく。俺が「あとでな」と返す。
そのたびに、予定表だけが厚くなる。
◇
聖教国の馬車は、王国の一行より少し早く着いた。
飾り気は少ないが、聖教国の印は見える。
門前では、ロイルがいつも通り記録板を持って立っていた。
「お名前と滞在目的をお願いします」
馬車から降りた男を見て、エレノアが小さく息を呑んだ。
「バルデル司祭……」
俺も思い出す。
「ああ。話の通じる巡回司祭か」
バルデルは、こちらへ深く礼をした。気取った様子はないが、その所作は実に端正だった。
「聖教国巡回司祭、バルデルです。滞在目的は、会談の立会い。それから、礼拝堂と救護の現況を確認することです」
ロイルは記録する。
「武器はお持ちですか」
「杖のみです。中に仕込みはありません」
「そこは聞かれる前に言うのか」
俺がつい口を挟むと、バルデルは少しだけ笑った。
「以前、ここでは手順を飛ばす方が面倒になると学びましたので」
「聖教国も、人選は案外まともだったな」
「現地を見た者を送るのが、一番無難だと判断されたのでしょう」
「無難で来た割には、面倒な席だぞ」
「承知しております」
バルデルは、門の内側へ入る前に一度だけ礼拝堂の方を見た。
「先に申し上げておきます。私は、ウルムを聖教国の管理下に置くために来たのではありません。祈りと救護が、政治の道具になっていないか。見たいのは、そこです」
エレノアは静かに頷いた。
「それなら、見ていただきたいものは多くありますわ」
敵ではない。
だが、言葉の端を取りこぼしていい相手でもない。
たぶん、悪くない人選だ。
◇
昼前。
王国の旗が、街道の向こうに見えた。
ウルム側は特別な飾りを出していない。いつもの門。いつもの記録板。いつもの武器預かり札。
ただ、門の前に立つ人数だけは多かった。
王国の馬車が止まり、最初にオリヴィエが降りた。続いて護衛が並ぶ。王国側の一人が門をくぐろうとしたところで、ロイルが一歩前に出た。
「お名前と滞在目的をお願いします」
護衛が一瞬、眉を動かす。
オリヴィエが何か言いかけた時、馬車の中から声がした。
「ウルムの門では、そうするのです」
シャルロッテが降りてきた。
纏っているものは、以前のロッテとは違う。
それでも、馬車を降りる時の足の運びだけは、少し見覚えがあった。
ロイルは表情を崩さない。
「お名前を」
ほんの短い沈黙があった。
シャルロッテは、まっすぐロイルを見る。
「シャルロッテ・エルディナ。滞在目的は、ウルムに関する会談への出席です」
ロイルの筆が、わずかに止まった。
ほんの一瞬だ。
だが、次にはもう動いていた。
「同行者の確認をお願いします」
「はい」
それだけだった。
ロイルは、女王としてのシャルロッテを通した。
ロッテとは呼ばなかった。
ここで名前を間違えれば、ロイルも、シャルロッテも、今の立場を保てない。
シャルロッテは門をくぐる前に、黒皇石と白石板へ目を向けた。
「あの白い石は?」
リナが横から出てきて答える。
「息がしやすい石」
王国の護衛が少し戸惑った顔をした。
シャルロッテは、ほんの少しだけ笑う。
「ウルムらしいですね」
今ここで説明すると、門前で会議が始まる。
そんなものは、あとでいい。
俺はロイルの横へ寄り、小声で確認した。
「全員、同じ手順で通ったか」
「はい。例外はありません」
「なら、出だしは上々だな」
「中身はこれからですが」
「言うな。知ってる」
◇
迎賓館の大会議室へ入ると、朝より少しだけ部屋が落ち着いて見えた。
机は円に近い形。
中央には白紙の記録帳、ウルム周辺の地図、黒皇石と白石板の配置図。
席には個人名を書いていない。
置いたのは色札だけだ。
王国、帝国、聖教国、ウルム。
人の名前は、どこにもない。
シャルロッテが部屋を見渡した。
「上座がないのですね」
「作ると揉めるからな」
皇帝が笑う。
「余も同じ扱いか」
「来たときから同じ扱いだろ」
バルデルが、自分の席の色札を見た。
「聖教国の席も、端ではないのですね」
「端に置けば外したように見える。近づけすぎれば、管理しているように見える。だから同じ距離だ」
カインが小さく言う。
「上座を作らないだけでも、余計な読み方は減るでしょうね」
「減るかどうかは知らん。少なくとも、増やすよりはましだ」
ギードが席に着く前に、全員を見回した。
「ここはウルムの迎賓館じゃ。ゆえに、この場の進め方はウルムで決める。異論があるなら、座る前に言うてくだされ」
誰も言わなかった。
沈黙は長くなかった。
それでも、椅子を引く音が少しだけ小さくなった。
王国も、帝国も、聖教国も、まずは門で名乗った。
それから、この席に着く。
十分とは言わない。
だが、入口は間違えていない。
全員が席につく。
王国側には、シャルロッテとオリヴィエ。
帝国側には、皇帝とカイン。ベアトリクスは席には着かず、皇帝の後ろに立っている。
バルデルは聖教国側の席へ。
ギードと俺とエレノアは、ウルム側に座った。
窓の外には、リナの姿が見えた。白石板のそばにしゃがんでいる。キドも近くにいて、何か記録板を持っている。
会議に子供は入れない。
だが、気にして外から眺めている者はいる。
俺は中央の白紙の記録帳を見る。
まだ何も書かれていない。だが、今日の終わりには何かが載る。
外の連中が、ウルムをどう呼ぶか。
その下書きみたいなものが。
……あまり考えたくはないが。
ギードへ視線を送った。
この場は、俺が始めるものではない。
村長が始めるべきだ。
ギードがゆっくり口を開く。
「では、始めるとしようかの」
その時、シャルロッテが静かに手を上げた。
「その前に、一つだけお話しさせてください」
全員の視線が、彼女へ向く。
シャルロッテは、まっすぐ前を見た。
「王国は、ウルムを王国領として扱いません。失地とも呼びません。逃散民の集まりとも呼びません。そして、ここにいる方々の選択を、王国の都合で塗りつぶすつもりもありません」
静かな声だった。
だが、その一言で、会議室の空気が変わった。
俺は中央の白紙の記録帳を見た。
ようやく、一本目の線くらいは引けそうだった。
まだ、一本目だが。
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