第206話 視察と価値
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翌朝。
俺は、皇帝には迎賓館で大人しく茶でも飲んでいてほしかった。
王国女王の一行は、明日の昼前には着くらしい。聖教国の立会人も、こちらへ向かっている。
今日はいつも通り村を回す。必要な準備をして、余計なことはしない。
それで終わるはずだった。
だが、朝食を終えた皇帝ヴァレリアンは、器を置くなり言った。
「今日は村を見たい」
俺は湯気の残る椀を見た。
「皇帝の散歩は散歩じゃない。護衛、記録係、案内役、人を引き連れて大行列になるだろう」
「余が見ずに、明日の会談でこの村の価値を語れと?」
嫌な言い方をする。
筋が通っている分だけ、余計にたちが悪い。
ギードが髭を撫でながら言った。
「見せるなら、いつも通りの村を見せればよい。飾る必要もないじゃろう」
「まあ、飾るほど暇でもないしな」
俺がため息をつくと、皇帝は少し笑った。
「それでよい。飾った村など、見る価値が半減する」
結局、面倒な視察を受け入れるしかなかった。
◇
まずは水場へ連れて行くことになった。
川沿いでは、ノーリアがいつもの鈍い音を立てて回っていた。
外側の桶が水をすくって、上の水路へ落とす。あとは傾斜任せだ。途中で一部だけサイフォンを通す。
低い場所を越えた水は、洗い場と畑へ分かれていく。そうして、洗い場と畑へ水を分けていた。
皇帝は水車をしばらく眺め、それから水路へ目を移した。
「これだけで足りるのか」
俺は横にいたハンスを見た。
ハンスが答える。
「普段なら足ります。飲み水と洗い場、薬草園の分くらいは。乾く時期は、畑の方を少し絞ります」
「飲み水を先にするのか」
「はい。畑は枯れても植え直せますが、人はそうはいきませんので」
皇帝の視線が、少しだけ細くなった。
俺は水路の分岐を指した。
「水は、汲み上げたあとが面倒なんだ。飲む水と汚す水を一緒にすると、だいたい腹を壊す」
「腹を壊すだけでは済みませんわ」
白湯の壺を抱えたエレノアが、当然の顔で横から入ってきた。
「子供と老人から先に倒れますもの。洗い場と飲み水を分けるだけでも、ずいぶん違いますわ」
皇帝は、少し遅れてエレノアを見た。
「聖女が水路を見ておるのは、帝都では見られぬ光景だな」
エレノアは胸を張る。
「命に関わる場所ですもの。水を軽く見ると、あとで大変なことになりますわ」
「白湯の壺を抱えて言う台詞でもないな」
俺が小さく呟くと、エレノアが振り返った。
「師匠?」
「いや、何でもない」
皇帝は、沈殿槽と浄化槽の方へ歩いた。護衛がついて行こうとしたが、ロイルが手で止める。足元の石には、入ってよい線と、踏んではいけない線が刻んである。
皇帝はそれを見て、少しだけ笑った。
「ここでも境界線か」
「安全のためだ。落ちたら濡れる」
「なるほど」
濡れるだけで済めばいい方だ。
◇
次は鍛冶場だ。
炉の前にドルガンがいた。腕を組んで、見るからに機嫌が悪い。
だが、顎の下の髭が、少しだけ落ち着かない。
「珍しいな」
俺が言うと、ドルガンがぎろりと睨む。
「何がだ」
「お前が緊張してる」
「してねぇ」
「してるだろ」
「してねぇと言っとるだろうが」
皇帝が面白そうに見ている。
俺は肩をすくめた。
「まあ、皇帝が鍛冶場に来るなんて、普通はないからな」
「うるさいわ」
ドルガンは吐き捨てるように言い、炉へ向き直った。
その瞬間、ドルガンの顔つきが変わった。
火口の色を見る。送風の音を聞く。
鉄棒で炉の縁を軽く叩いたころには、もういつものドルガンだった。
「そこから先へは近づくな」
ドルガンが低く言った。
帝国の護衛が動きかける。
ドルガンは皇帝を見たまま、床の線を顎で示した。
「火は皇帝だろうと容赦しねぇぞ。火傷したくなければ、下がって見るんだな」
鍛冶場の空気が、ひやりとした。
皇帝は一瞬だけ黙り、それから短く笑った。
「火の前では、そなたが主というわけか」
「主じゃねぇ。火の番だ」
ドルガンは送風口へ手を戻す。
俺は横から言った。
「炉は偉い奴を区別しない。近づきすぎれば焼ける」
皇帝は炉を見たまま、少し黙った。
ドルガンが炉の奥を指す。
「こいつは、火をただ強くする炉じゃねぇ。熱を逃がさず、流して、当てる。そのための炉だ。煉瓦が悪けりゃ割れる。継ぎ目が甘けりゃ、そこから漏れる。欲をかいて火力を上げりゃ、炉が悲鳴を上げる」
「炉が悲鳴を上げるのか」
「割れるって意味だ」
俺が補足すると、ドルガンが舌打ちした。
「いちいち訳すな」
「詩的すぎるんだよ」
「うるさいわ」
皇帝は笑っていたが、目は炉から離れていなかった。
カインが小さく言う。
「……完成品より、こういう失敗の記録を集めた方がよさそうですね。特に、技術検証院では」
皇帝は短く答えた。
「悔しいが、見えた」
◇
そこから建築現場と倉庫へ回った。
ヘイムは梁を見上げたまま、短く頭を下げただけだった。
それ以上は、作業の邪魔になるとでも言いたげだった。
簡易クレーンの横で、男が二人、滑車を引いていた。梁が少しずつ上がっていく。
少し離れた場所では、女たちがネコ車で石材を運んでいる。
皇帝が言う。
「魔法で持ち上げぬのか」
ヘイムは梁を見上げたまま答えた。
「毎回、魔法使いを呼ぶ方が時間がかかります」
俺も続ける。
「それに、この村にそんな都合のいい魔法使いはいない。人を増やすより、持ち上げる回数を減らした方が早いこともある」
俺が言うと、皇帝はネコ車の方を見た。
「これは、力の弱い者でも扱えるのか」
「道が悪ければ無理だ」
ヘイムが即答する。
「だから先に道です。道具だけ渡しても、足場が悪ければ転びますから」
皇帝は足元の石畳と、排水の溝を見た。
「道具だけ渡して終わり、とはいかぬか」
「大抵のものはそうだ」
ローマン・コンクリートの試験片を見せると、皇帝は指で叩いた。硬い音が返る。
「これも、炉と同じか」
「配合を間違えると割れるな。急ぎすぎても割れる」
「割れてばかりだな」
「建てるのは時間がかかるが、崩れる時は一瞬だ。もし、下に人がいれば、それで終わるからな」
皇帝は、それ以上笑わなかった。
◇
市場と倉庫では、ロイルが案内した。
荷には荷札が付いている。行き先札と受領札もある。
どこから来た荷なのか。誰が受け取ったのか。今どこで止まっているのか。
札を追えば、だいたい見当はつく。
皇帝は、ここでの視察が一番静かだった。
「荷の迷子が減るな」
「迷子にすると、誰かが探す羽目になりますから」
ロイルは淡々と答える。
俺も言った。
「探す時間が一番無駄だ。あと、責任を押し付けやすくなる」
皇帝は札の束を見た。
「戦場で使えそうだ」
「最初に軍へ持っていくのはお薦めしないな。たぶん現場が壊れる。まず倉庫で試せ」
「余の考えを先に読むな」
「皇帝が物流を見て軍を考えない方が怖いけどな」
ベアトリクスが、少しだけ口元を緩めた。
ロイルは帳面から目を上げない。
「軍でも商人でも、荷が迷子になる理由はあまり変わりません。名がない。行き先がない。受け取った者が記録しない。だいたい、そのあたりです」
皇帝はロイルを見た。
「そなたは、よく見ている」
「見ないと詰まりますので」
ロイルはそれだけ言って、次の札を確認した。
◇
魔法応用の工房に入ると、机の上に記録板が並んでいた。
荷運び用、危険区域用、見回り用。
その中で、一番奥の板だけが裏返しにされていた。
カインはその上に手を置いた。
「まずは荷運び用からご覧ください」
指先だけ、少し白い。
俺はそれを見て、あえて何も言わなかった。
荷運び用のスマートゴーレムが、木箱を抱えてゆっくり歩いていた。別の一体は、炉の近くで腕を広げている。
あれは、人が入りすぎないようにするためのものだ。
皇帝が足を止める。
「これを戦場に並べれば、かなり変わるな」
「武器は議題にするなよ。今日見せるのは制御の仕組みだけだ」
「議題にしないとは言っておらぬ」
「じゃぁ、帰れ」
カインが慌てて手を上げる。
「マスター、せめて明日までお待ちください」
皇帝は笑った。
訓練場の奥には、自動迎撃型連射式バリスタが停止状態で置かれている。布をかけてあるが、存在感は隠せない。
「見せるだけだ。動かさない」
「動かぬ兵器ほど、つまらぬものはないな」
「面白がるな。兵器だぞ」
そこから冷蔵庫とフリーザーへ回る。
エレノアが薬草の箱を開けた。
「薬草と肉を長く保てますの。夏場は特に助かりますわ」
皇帝の顔が少し変わった。
「食料が腐らないというのは、都市の生活を変えるぞ」
「変える前に、過信しすぎると腹を壊す。冷えていることと安全なことは同じじゃない」
皇帝は黙った。
カインが頷く。
「完成品だけ持ち帰ると、たぶん事故が増えます。帝国で先に作るべきなのは、技術そのものより、記録と検証の仕組みなのかもしれませんね」
「また技術検証院の仕事が増えるな」
「仕事があるうちは、失敗が表に出る。悪いことではありません」
カインはそう言ったが、最後だけ少し声が小さくなった。
「自分に返ってくると気づいたか」
「……少しだけ」
◇
学び舎に入ると、子供たちは案の定そわそわしていた。
そして、その真ん中でキドの声が飛んだ。
「気にするなとは言わねえ。でも手を止めるな」
年少の子が、問い札を胸の前に抱えていた。
『水車はなぜ止まらないの』
『冷たい箱の中で、なぜ肉が長くもつの』
『濡れた布はどうして風で早く乾くの』
リュックが横で、短い記録板を書いていた。
誰が見たか。何を試したか。まだ分からないこと。
それだけを、短く残している。
皇帝はしばらく黙っていた。
「技術の展示場じゃないぞ」
俺が言うと、皇帝は首を振った。
「分かっている。だから驚いている」
「何にだ」
「子供まで、次の不具合を探すのか。ここでは」
その時、キドの声が飛んだ。
「答えだけ聞くな。先に見ろ。水車なら水の流れを見てこい。箱なら、冷たいところとそうじゃないところで何が違うか書いとけ」
年少組が文句を言いながらも走っていく。
皇帝はその背中を見送った。
「技術は奪える。職人も、金で動くことはある。だが……これは違うな。簡単には持ち出せぬ」
「すぐに持ち出すことを考えるな。学びに来い」
言った直後、俺は嫌な顔をした。
自分で面倒を増やした気がした。
皇帝はそこを逃さない。
「ならば、学びに来る道を作れぬか」
「俺が決める話じゃない」
「そなたが決めぬのか」
「決めない。村のことだ。まずギードとギルドの長に話す。工房も学校も関わるなら、ヘイムとドルガンとロイルとエレノア……あと、カインもだな」
皇帝はしばらく俺を見た。
「それも、ウルムの手順か」
「そうだ。面倒だろ」
「面倒だな」
「だが、あとで揉めるよりいい」
ギードが頷いた。
「学びに来るなら悪い話ではないじゃろう。盗みに来るなら、門前で帰すがな」
ドルガンが腕を組んだまま言う。
「炉だけ持って帰る馬鹿には教えんぞ」
カインが眼鏡を押し上げる。
「交流するなら、完成品からではない方がいいでしょう。記録と失敗例、そのあたりから始めるべきです」
俺は皇帝を見た。
「どうせ話すなら、面子が揃ってからだな。明日の議題に入れる」
皇帝は静かに頷いた。
◇
夕方、迎賓館へ戻る道で、皇帝はもう一度村を見た。
水場では、桶を抱えた住民たちが行き交っていた。
炉から立つ煙が、ゆるく空へ流れ、市場には新しい札が並んでいる。
学び舎から帰る子供たちの声が通りに響き、門ではロイルが台帳を見ていた。
エレノアは、白湯の壺を片づけているところだった。
皇帝は、しばらく何も言わなかった。
炉の煙を見て、水場へ目を移し、最後に学び舎の方を見る。
どこか一つを見ているというより、村のつながりを測っているようだった。
皇帝が低く言った。
「この村は、帝国が囲うには狭すぎる。だが、放っておくには……大きすぎる」
「変な言い方をするな。面倒が増えるじゃないか」
「増えるな。だからこそ、増やし方を間違えぬようにせねばならん」
「それを明日やるのか」
「そうだ」
「嫌な日になりそうだ」
皇帝は少し笑った。
「歴史が動く日は、たいてい誰かにとって嫌な日だ」
「俺にばかり押しつけるな」
◇
夜。
ロイルが迎賓館へ報告に来た。
「王国女王一行、明日昼前には到着予定です」
「聖教国は」
「ベアトリクスさんによると、別路から立会人が向かっているとのことです」
俺は窓の外を見る。
誰かに勝手な名を貼られる前に、こちらから境目を引く。
なかなか面倒な作業になりそうだ。ただ、あとで剥がす方が、もっと面倒だ。
……面倒だが、逃げるわけにはいかない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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