第205話 皇帝と主導権
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「ウルムのことを話すなら、王国も蚊帳の外には置けまい」
皇帝ヴァレリアンは、門の内側に立ったまま、さらりとそう言った。
一瞬、周りの声が止まった。
自警団の若い者たちは帝国の護衛へ目を向け、商人たちは馬車の紋章を見ている。村人たちは、俺とギードの顔を交互に見ていた。
俺は額に手を当てる。
「……言い方が既に面倒だ」
「面倒な話をしに来たのでな」
「堂々と言うな。こっちは昼寝を潰されたばかりなんだ」
カインが、申し訳なさそうに視線を逸らした。
ベアトリクスは表情を変えない。ただ、門の両脇に立つ自警団員の配置を、目だけで数えている。
皇帝が一歩、門の奥へ進もうとした。
その前に、ロイルが静かに出た。
「滞在目的は記録しました。次に、滞在場所と同行者の行動範囲を確認します」
帝国の護衛の一人が、わずかに肩を動かした。
ロイルは見ていないふりをする。
「護衛の方々は、迎賓館一階の控室までです。武器はすべてこちらで預かります。皇帝陛下、カイン様、ベアトリクス殿のみ、応接室へお通しします。例外はありません」
皇帝が楽しそうに口元を緩める。
俺は横から釘を刺した。
「そこで笑うな。こいつは真面目に仕事してる」
「分かっている。続けよ」
ベアトリクスが腰の短剣へ手をやった。
ロイルはすぐに言う。
「そちらもお預かりします」
「これは護身用だ」
「門内では、こちらが護衛します」
ベアトリクスの眉が、ほんの少しだけ動いた。
彼女は皇帝を見る。
皇帝は頷いた。
「預けよ。ここでは、それが礼儀らしい」
「……承知しました」
短剣が外される。
自警団員が両手で受け取り、記録板に品名と本数を書き込んだ。
帝国の皇帝が来ても、ウルム村はウルム村だ。
名前を書く。武器を預ける。目的を記録する。
それだけのことを崩さずに済むまで、ずいぶん手間がかかった。
だが、崩さずに済んでいるなら、手間をかけた意味はある。
「では、迎賓館へご案内します」
ロイルが告げると、皇帝は村の通りへ目を向けた。
「余が来ても、村が止まらぬのだな」
水場では、当番札を首から下げた者たちが桶を運んでいる。
学び舎の方からは子供たちの声が聞こえた。市場では、荷車の順番を巡って商人が揉めかけ、窓口の若い職員に列へ戻されている。
エレノアは白湯の壺を抱えたまま、こちらに気づいて足を止めた。
それから皇帝を見て、少しだけ目を丸くする。
「止めたら困る。皇帝が来るたびに水汲みが止まる村なんて、脆すぎるだろ」
カインが小さく笑った。
「マスターらしいですね」
「笑ってる場合か。原因の一部はお前だぞ」
「返す言葉もありません」
その時、聖樹の方から、ふらりとリナが現れた。
裸足のまま、いつものように当然の顔で通りを横切る。
皇帝の前で止まり、じっと見上げた。
「重い人が来た」
周囲が固まる。
俺は深く息を吐いた。
「リナ。せめて初対面の相手には、もう少し普通の呼び方をしろ」
リナは首を傾げた。
それを見て、皇帝は声を立てて笑った。
「面白い娘だ。精霊か」
「あんまり詮索するな。ここでは、ただの子供扱いでいい」
「子供扱いでよいのか」
「本人が嫌がってないから、それでいいんだよ」
リナは皇帝の周りを一度回り、次にベアトリクスの前で足を止めた。
「こっちは、細い。……刃物みたい」
ベアトリクスの目が、初めて少しだけ細くなった。
「……鋭いですね」
「やっぱり刃物」
「褒め言葉として受け取っておきます」
リナは満足したのか、俺の袖を軽く引いた。
「アシュラン、木陰は使う?」
「今は無理だ」
「また?」
「まただ」
リナは不満そうに枝の葉を一枚、俺の肩へ落とした。
それから、聖樹の方へ戻っていく。
皇帝はその背を見送っていた。
「ウルムは、人間だけの村ではないらしいな」
俺は、皇帝の言葉には返事をしなかった。
そんな話をしているうちに、迎賓館へ着いた。
本来は外からの客を迎えるために建てた館だ。
今では村の役場で、倉庫で、会議室で、時々俺の頭痛の原因にもなる。
一階では、皇帝の護衛たちが控室へ通された。
武器は番号札とともに棚へ収められる。迎賓館の職員は、相手が帝国兵でもいつも通りに茶器を並べていた。
ギードが進み出る。
「改めまして、遠路ようこそ、皇帝陛下。ここでは村の定めに従っていただきますぞ」
「先ほどから、その定めとやらを身に染みて味わっている」
「定めは、偉い方を困らせるためのものではありません。偉い方が来ても、下の者が慌てずに済むためのものです」
「なるほど。考えられている」
「あと、俺の仕事を増やさないためだ」
横から言うと、ギードが呆れたようにこちらを見る。
「それは副次的な理由じゃ」
「主目的でもいい」
「よくないわ」
廊下の奥から、エレノアが姿を見せた。
皇帝に気づくと、足を止め、きちんと礼を取る。
「皇帝陛下。ようこそお越しくださいました」
「久しいな、エレノア」
皇帝はエレノアを見て、わずかに目を細めた。
「帝国の聖女は、ここでは村の仕事に励んでいるのか」
エレノアは胸を張った。
「はい。白湯の番も、大事な務めですわ」
皇帝の表情が、少しだけ柔らかくなる。
「そうか。よい顔になった」
エレノアは一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく笑った。
「ありがとうございます」
帝国でどんな顔をしていたのか、俺は知らない。
だが、今の返事に迷いがないのは分かった。
それで十分だ。
◇
皇帝を通したのは、二階の小会議室だった。
本来なら、村の内輪で使う部屋だ。机は一つ。椅子は六脚。窓際には書類棚がある。
皇帝を迎えるには狭い。
だが、用件を聞くだけなら足りる。
「三階の大会議室は使わぬのか」
皇帝が面白そうに言う。
「使わない。まだ何の話か聞いてない。部屋だけ大きくすると、話まで大きくなる」
「部屋で話の重さが変わると?」
「変わる。人間は机と椅子の形にすぐ騙される」
「なるほど。では、騙されぬうちに話そう」
皇帝は椅子に腰を下ろした。
俺は向かいではなく、少し斜めの椅子を引いた。
真正面に座ると、どうしても対決みたいになる。対決がしたいわけではない。したくもない。
なによりも、面倒だ。
カインは横に控え、ベアトリクスは扉に近すぎない位置へ立った。
ロイルは記録板を持ったまま、壁際に立つ。
皇帝が口を開く。
「帝国の黒皇石は、これまでウルムを守った」
ギードの手が、髭の上で止まった。
門の外に置かれた黒皇石。
帝国皇帝の署名を持つ不可侵の証。あれがあったから、ウルムに手を出せなかった者もいる。
だが同時に、あれは帝国の影でもあった。
「だが、今のままでは帝国の色が濃すぎる。余はそう見ているがどうだ?」
皇帝が、俺の目を見る。
「黒皇石を外せと言いに来たのか」
「そうではない。外せば、別の者が手を伸ばすだろう」
「だが、置いたままだと、帝国の庭に見える」
「そういうことだ」
カインが静かに補足する。
「王国側から見れば、ウルムは帝国の庇護下にあるように見えます。聖教国から見れば、帝国と結んだ危険な自治拠点に見える。帝国から見ても、このままでは黒皇石の意味が重くなりすぎます」
重い。
さっきのリナの声が、妙に耳に残った。
「……重い、か」
「何か?」
「いや。こっちの話だ」
皇帝は、俺の顔を見て少し笑った。
そして、さらりと言った。
「王国には、すでに使いを出してある」
その瞬間、部屋の中に静寂が訪れた。
俺はカインを見る。
「……知ってたな」
「すべてではありません」
「一番嫌な返し方をするな」
カインは目を伏せた。
皇帝は悪びれもしない。
「王国……シャルロッテ女王は、ウルムで会談を行うことに同意している。順調なら、一両日中には到着するそうだ」
「また勝手なことをしてくれたな」
「勝手ではない。帝国と王国の間では合意済みだ」
「それを勝手だと言うんだ」
俺は小会議室の机を指で叩いた。
「ここはウルムだ。ウルムの話をするなら、最初にウルムへ聞け」
皇帝の笑みが、少しだけ薄くなる。
「その順番を守っている間に、別の者がちょっかいを掛けぬとも限らぬからな」
「その理屈で押し切る気か」
「押し切るつもりなら、門で名など書かぬ」
腹立たしいほど筋は通っている。
皇帝は力で押してきたわけではない。
門で名を書き、武器を預け、ウルムの手順に乗っている。
「それで、聖教国は」
「そちらにも話は通してある」
「王国だけじゃなく、聖教国まで勝手に巻き込んだのか」
「巻き込まねば、後で外から口を挟む」
「先に口を挟ませておけば、後の面倒が減ると?」
「そういうことだ」
「合理的なのが腹立つ」
皇帝は笑った。
「褒め言葉として受け取ろう」
「褒めてない。で、誰が来る」
「そこまでは知らぬ。聖教国が選ぶことだ」
「丸投げか」
「こちらが人選まで口を出せば、それこそ帝国が場を仕切ったことになる」
俺は舌打ちしたくなるのを飲み込んだ。
確かに、そこまで帝国が決めるよりはましだ。
ましだが、面倒なことに変わりはない。
ギードが低く言う。
「つまり、王国、帝国、聖教国が、このウルムで顔を合わせるということか」
「そうなるな」
皇帝は頷いた。
「今のまま放っておけば、誰かが勝手にウルムの立場を決めてしまう。帝国の庇護地。王国から逃げた者の巣。聖教国が警戒すべき異端の温床。好きに呼ばれるぞ」
「脅しか」
「事実だ」
「事実を並べる脅しが一番たちが悪い」
「それも褒め言葉として受け取ろう」
「褒めてないと言ってるだろ」
俺は息を吐き、記録板を持つロイルを見た。
ロイルは表情を変えずに待っている。
怒るだけなら簡単だ。
追い返すこともできる。
ただ、追い返したところで、外の連中が勝手にウルム村の立場を決めてしまうことには変わりがない。
この場を捨てる方が、たぶん悪い。
「分かった。ただし、条件がある」
皇帝は静かにこちらを見た。
「聞こう」
「会談はウルムの手順でやる。各国の儀礼を持ち込んで椅子取り合戦を始めるなら、その時点で解散だ」
「よかろう。それを見に来た」
「見世物じゃない」
「似たようなものだ。国という大きな獣を、村の手順でおとなしくさせようとしている」
「おとなしくなるとは限らない」
「ならぬなら、ならぬ理由が分かる。十分だ」
面倒な皇帝だ。
だが、話が通じない相手ではない。
そこだけは救いだった。
◇
ロイルは門前台帳を開き、残りの欄を確認していた。
「木札は足ります。武器預かり札は、念のため一束追加します。馬房は西側を空ければ対応できます」
「王国女王の一行でも、手順は同じでいけるか」
「やります」
ロイルは即答した。
俺は横顔を見る。
ロイルは台帳から目を上げなかった。
「特別扱いをすれば、後で他の者にも同じことを求められます。ウルムの門は、そういう場所ではありません」
「そうだな」
「ですから、同じにします」
声は落ち着いていた。
ただ、紙を押さえる指先に、少しだけ力が入っている。
俺は何も言わなかった。
窓の外では、夕方の学び舎から子供たちが出てくるところだった。木札を揺らしながら、ばらばらに家へ帰っていく。
その向こうで、帝国の馬車が迎賓館の前に置かれている。
妙な眺めだった。
俺は、この村に立派な看板を掲げるつもりなどなかった。
帝国の庇護地だの、王国から逃げた者の巣だの、聖教国が警戒すべき場所だの。
どれも、頼んだ覚えがない。
ただ、水を通し、道を敷き、札を作り、窓口を作った。
快適に暮らしたかったからだ。
昼寝の時間が欲しかったからだ。
それなのに、皇帝が門で名を書き、王国女王がこちらへ向かい、聖教国まで立会人を寄こすという。
名前を勝手に付けられるのは、もう十分だった。
俺にも。
エレノアにも。
ロッテにも。
この村にも。
「まずは、誰が何を決めるのかを決める。そこからだ」
俺が言うと、カインが頷いた。
「本題へ入る前に、本題の入口を設計する。マスターらしいですね」
「入口を間違えると、出口で揉める」
「帝国では、その入口に飾りを付けすぎます」
「王国は入口の前で名乗り合戦を始める」
「聖教国は祈りを捧げますね」
「……全員、面倒だな」
「はい」
二人で少しだけ黙った。
ロイルだけが、変わらず台帳をめくっていた。
◇
夜。
小会議室には、まだ白紙の記録帳と、黒皇石についての覚書だけが置かれていた。
大会議室は明日でいい。
今、手をつけると俺の負けだ。何に負けるのかは分からないが、そんな気がした。
皇帝は迎賓館の客室へ入っている。
ベアトリクスは廊下の窓から、村の灯りを見ていた。
カインは一年ぶりの迎賓館に、少しだけ懐かしそうな顔をしていた。
その時、門の方で鐘が鳴った。
夜の来訪を知らせる、短い鐘だ。
ロイルが扉を開ける。
「アシュラン様。王国からの先触れです」
「……早すぎるだろ」
「シャルロッテ女王陛下の一行は、明後日の昼までに到着予定とのことです」
俺は深く息を吐いた。
名前を勝手に付けられるよりはましだ。
そう思ったばかりだった。
だが、勝手に日程まで詰められるのは、やはり腹が立つ。
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