第204話 学び舎と帰還
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学び舎の入口で、朝から子供たちが木札を手に騒いでいた。
「違う。煙の札はそっちじゃねえ」
キドが腰に手を当て、年少の子を見下ろしている。少しきつめの言い方だが、以前のキドならここで大声を出していた。
小さな男の子が、手にした札を不満そうに揺らした。
「だって、煙は上にいくって、聞けばすぐ分かるよ」
「すぐ聞いて終わりにすると、たぶんアシュラン様に面倒な顔される」
「面倒な顔?」
「こういう顔だ」
キドが眉間に皺を寄せた。
俺の真似らしいが、まったく似ていない。
「怒りはしない。面倒な顔はするかもしれないがな」
横から口を挟むと、キドは勝ち誇ったように男の子を見た。
「ほらな。ほとんど怒ってるのと同じだろ」
「違う。俺は怒るほど勤勉じゃない」
「もっと悪いじゃん」
周りで見ていた子供たちが笑った。
問い札の板は、今朝も少し重そうだった。
『なぜ煙は上に行くの』
『濡れた布はどうして風で早く乾くの』
『白湯と冷たい水は、どっちが腹にいいの』
『去年より薬草園の収穫が増えたのはなぜ?』
キドが札を見て、首を傾げる。
「それならエレノアに聞けば早いだろ」
近くにいた女の子が、すぐに首を振った。
「聞いた」
「聞いたのか」
「でも、自分で考えてから来なさいって言われた」
「正しいな」
俺が頷くと、子供たちはそろって不満そうな顔をした。
「ヒントくらいくれてもいいのに」
「ヒントはくれました!」
別の子が元気よく手を挙げる。
「土と水と虫を見ろって!」
「それ、ほとんど答えじゃねえか」
キドが呆れたように言う。
「じゃあ、見てきたのか」
「見た!」
「何が違った」
「えっと……」
誰もすぐには答えなかった。
キドは少し考え、それから薬草園の方を指差した。
「なら、もう一回見てこい。去年の畑と今の畑で違うところを探せ。あと、虫をちゃんと見ろ」
「虫ぃ?」
「嫌そうな顔するな。エレノアが見ろって言ったなら理由がある」
「キド兄ちゃんは知ってるの?」
「少しな」
「教えて!」
「駄目だ。先に見てこい」
子供たちはぶつぶつ言いながらも、ぞろぞろと薬草園へ走っていった。
その背中を見送り、俺はキドを見る。
「答えを言わなかったな」
「言ったら終わりだろ」
キドは肩を竦めた。
「せっかく考えてるんだから、自分で見つけた方が覚える」
また笑いが起きる。
少し前のキドなら、こういう面倒は避けていただろう。聞かれれば答えを言うか、「知らねえ」と追い払うか。そのどちらかだった。
口は悪い。手つきも雑だ。
それでも、子供が札を掛け終えるまで待っている。
キドは、煙の札を持った男の子の隣にしゃがみ、板の前を指で示した。
「煙は見えるだろ。なら、まず見る。火の上でどう動くか見て、それでも分からなかったら聞け。いきなり答えだけもらうと、あとで忘れる」
「キド兄ちゃんは忘れたの?」
「俺は……忘れたんじゃなくて、まだ調べてる途中だ」
「ずるい」
「問い札ってのは、そういうもんだ」
妙な言い訳だったが、男の子は納得したらしい。
木札は『すぐ聞く札』ではなく、『試してみる札』の下に掛けられた。
カインが帝国へ戻って、もう一年になる。
仮学舎は、いつの間にか誰も「仮」と呼ばない場所になっていた。
板は何度も削り直され、札を掛ける釘も随分と増えた。最初は三つしかなかった分類も、今では少しだけ増えている。増えすぎると子供が迷うので、キドとリュックが時々揉めながら減らしていた。
悪くない。
俺が口を出さなくても、勝手に揉めて、勝手に削って、勝手に直す。
俺の出番が減る。
それは良いことだ。……良いことのはずだ。
◇
学び舎の隅では、リュックが薄い板を何枚か並べていた。
欠席した子の家へ持っていく板らしい。
今日やったことや見たもの、誰から話を聞いたか、そしてまだ分からないことまで、板には簡潔に書き込まれていた。
その横には、簡単な絵まで添えてある。煙の絵は少し曲がっていたが、何を描いたかは分かる。
「短いな」
覗き込むと、リュックは少し得意げに笑った。
「長くすると読まれませんから」
「よく分かってる」
「アシュラン様に何度も言われましたので」
「俺はそんなに何度も言ってない」
「言われた方は覚えていますよ」
入口近くでは、エレノアが白湯の壺を覗き込んでいた。小さな椀を手に、顔色の悪い子供を呼び止めている。
「朝から走り回る前に、少し飲みなさいな」
「え〜、だって熱いもん」
「熱すぎないようにしてありますわ。ほら、両手で持って」
隣には手洗い用の桶。学び舎の裏には、小さな薬草の乾燥棚まで増えていた。
「壺が増えてないか」
「増やしましたもの」
エレノアは当然のように答えた。
「また仕事を増やしたな」
「子供たちは増えましたし、喧嘩も増えました。でも、倒れる子は減りましたの」
「効果は出てるわけか」
「良いことですわ」
そう言って、エレノアは少し笑った。
かつて帝国でどんな顔をしていたのか、俺は知らない。
ただ、白湯の壺を覗き込み、子供に椀を持たせている今の姿は、少なくとも俺の知っているエレノアにはよく似合っていた。
本人に言えば、胸を張って面倒な返事をしそうなので黙っておいた。
◇
学び舎を出ると、村の通りはもう動いていた。
市場へ向かう荷車が一台。鍛冶場へ運ばれる炭俵が二つ。井戸端では、水を汲む手を動かしながら、戻る者と残る者、それにまだ決めかねている者たちが言葉を交わしていた。
王都便の荷を確認していたロイルが、窓口の前で帳面を開いていた。
動きに無駄がない。
「王都行きの荷は三箱です。荷札は確認済みで、武器類は含まれていません。滞在希望者は二名、目的は商談とのことです」
「すっかり役人だな」
俺が言うと、ロイルは顔も上げずに返した。
「誰かさんが窓口を一本化したせいです」
「俺は面倒を減らしたかっただけだ」
「減ったんですか?」
「俺の分は少し減ったぞ」
「こちらは増えましたよ」
淡々と言いながら、ロイルは次の荷札へ目を落とした。
王都管理局発。
宛先、ウルム管理窓口。
品目、配給窓口用の記録紙と予備の色札。
その端に添えられた公文書の封蝋を見て、ロイルの指がほんの一瞬だけ止まる。
シャルロッテ女王陛下の印。
王都から届く荷には、もうその印が当たり前のように押されている。
ロイルはすぐに作業へ戻った。
「王都側の印、確認済み。こちらの受領印を押します」
「……そうか」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
言わない方がいいこともある。
それに、ロイルももう、誰かに言葉を足してもらわなければ立てない男ではない。
少し離れた場所では、ギードが外来商人と話していた。訪れる者は昔より増えたが、門と窓口の手順は変わらない。
名前を書く。目的を書く。荷を見せる。武器を預ける。
ただそれだけだ。だが、ただそれだけを崩さず続けるのが、案外難しい。
俺がいなくても回るものが増えている。
悪くない。
昼寝の予定に、ほんの少し光が差す。
「アシュラン様、少しだけ確認を」
どこからともなくリュックの声が飛んできた。
俺は空を見上げた。
「その少しだけで、俺の午前が消えるんだが」
「本当に少しです」
「それで少しだったことがない」
それでも足は向く。
非常に不本意だ。
◇
昼前になって、門の方から自警団員が走ってきた。
「アシュラン様!」
周囲の動きが、わずかに変わる。慌てるほどではない。だが、ロイルが帳面を閉じ、ギードが商人との話を切り上げた。
「帝国からの一行です。先頭に、カイン様がいます」
「カインが?」
返事をする前に、肩から力が抜けた気がした。
一年ぶりか。
戻るかどうかは本人が決めろと言った。席は空けておくとも言った。だが、本当に戻ってくるかどうかは分からなかった。
その緩みは、次の報告で消えた。
「それと……同行者に、帝国の紋章を持つ方がいます」
「……嫌な予感しかしない」
「どうしますか」
「門で止めろ。いや、もう止めてるな」
ロイルがすでに歩き出していた。
「当然です」
頼もしい返事だ。
だが、面倒の匂いがする。しかも濃厚なやつだ。
◇
門前には、帝国の一行が立っていた。
人数はそれほど多くはなかった。だが、馬車の作りも、護衛の立ち方も、普通の使者ではないことを隠しきれていなかった。
門の内側では、ロイルと自警団が手順通りに対応している。
「武器は預かります。同行者の人数と滞在目的を記録します」
黒髪の女性――ベアトリクスが、静かに剣を外した。
「承知した」
帝国側の護衛たちも、それに従う。
その様子を、外套を羽織った男が面白そうに眺めていた。
見間違いであってほしかった。もちろん、見間違いではない。
その横で、カインが申し訳なさそうに立っている。
「マスター。ただいま戻りました」
「おかえり、と言う前に聞く。後ろの面倒そうなのは何だ」
カインは深く頭を下げた。
「面目ありません」
それで、だいたい事情は読めた。
その男――皇帝が愉快そうに口を開く。
「久しいな、アシュラン」
俺は額を押さえた。
「連れてくるなって言ったじゃないか」
「止めました。ですが、止まりませんでした」
カインの声は、本当に申し訳なさそうだった。
「お前が止められないものを、俺に持ってくるな」
「申し訳ありません」
「なんだ。儂が来ては都合が悪いのか」
皇帝ヴァレリアンは、近所へ茶を飲みに来たかのように気安くそう言った。
「悪い。皇帝は存在しているだけで手続きが増えるんだよ」
「随分な歓迎だな」
「歓迎じゃない。受付処理だ」
「なるほど。ならば、儂も名を書けばよいのか」
「当たり前だ」
俺が即答すると、門前の空気が少しだけ揺れた。
ロイルは顔色ひとつ変えず、記録板を差し出す。
「お名前と滞在目的をお願いします」
ベアトリクスが一瞬だけ皇帝を見る。
皇帝は楽しそうに笑い、記録板を受け取った。
「ヴァレリアン。滞在目的は……会談、でよいか」
「観光と書いたら追い返す」
「厳しい村だ」
「普通の村に皇帝は来ない」
「それもそうだ」
皇帝は笑いながら、きちんと名を書いた。
ギードが門の内側で白髭を撫でる。
「皇帝であろうと、門は門じゃ。入る者は名を記し、武器を預ける。それだけは変えられんのう」
「変えぬ方がよい」
皇帝は、今度は真面目な声で答えた。
「そのために来たようなものだ」
門前のざわめきが、一つ遅れて止まった。
カインの表情も、わずかに引き締まる。
俺は、嫌なものを感じながら皇帝を見た。
「で? 今度は何の用だ。王国なら、ロッテ……いや、シャルロッテ女王がどうにか回してるだろ」
「此度は王国のことではない。帝国のことでもない」
「じゃあ何だ」
皇帝は、門の内側をゆっくり見た。
学び舎へ向かう子供たち。荷を運ぶ商人。窓口で帳面を開くロイル。白湯の壺を抱えて戻るエレノア。遠巻きに様子を見ている村人たち。
その視線が、最後に俺へ戻る。
「ウルムのことだ」
ギードが黙り、ロイルが記録板を閉じる。
カインは目を伏せたままだった。
俺は、深く息を吐いた。
「……一番面倒なやつじゃないか」
「分かっておるなら話が早い」
「早くはない。早くは終わらせたいがな」
「残念ながら、すぐには終わらん」
皇帝は楽しげに、けれど目だけは統治者のまま言った。
「ウルムのことを話すなら、王国も蚊帳の外には置けまい」
今日の昼寝は、ここで潰れた。
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