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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第15章 世界の基準点と木陰のまどろみ

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第204話 学び舎と帰還

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

学び舎の入口で、朝から子供たちが木札を手に騒いでいた。


「違う。煙の札はそっちじゃねえ」


キドが腰に手を当て、年少の子を見下ろしている。少しきつめの言い方だが、以前のキドならここで大声を出していた。


小さな男の子が、手にした札を不満そうに揺らした。


「だって、煙は上にいくって、聞けばすぐ分かるよ」


「すぐ聞いて終わりにすると、たぶんアシュラン様に面倒な顔される」


「面倒な顔?」


「こういう顔だ」


キドが眉間に皺を寄せた。

俺の真似らしいが、まったく似ていない。


「怒りはしない。面倒な顔はするかもしれないがな」


横から口を挟むと、キドは勝ち誇ったように男の子を見た。


「ほらな。ほとんど怒ってるのと同じだろ」


「違う。俺は怒るほど勤勉じゃない」


「もっと悪いじゃん」


周りで見ていた子供たちが笑った。


問い札の板は、今朝も少し重そうだった。


『なぜ煙は上に行くの』


『濡れた布はどうして風で早く乾くの』


『白湯と冷たい水は、どっちが腹にいいの』


『去年より薬草園の収穫が増えたのはなぜ?』


キドが札を見て、首を傾げる。


「それならエレノアに聞けば早いだろ」


近くにいた女の子が、すぐに首を振った。


「聞いた」


「聞いたのか」


「でも、自分で考えてから来なさいって言われた」


「正しいな」


俺が頷くと、子供たちはそろって不満そうな顔をした。


「ヒントくらいくれてもいいのに」


「ヒントはくれました!」


別の子が元気よく手を挙げる。


「土と水と虫を見ろって!」


「それ、ほとんど答えじゃねえか」


キドが呆れたように言う。


「じゃあ、見てきたのか」


「見た!」


「何が違った」


「えっと……」


誰もすぐには答えなかった。


キドは少し考え、それから薬草園の方を指差した。


「なら、もう一回見てこい。去年の畑と今の畑で違うところを探せ。あと、虫をちゃんと見ろ」


「虫ぃ?」


「嫌そうな顔するな。エレノアが見ろって言ったなら理由がある」


「キド兄ちゃんは知ってるの?」


「少しな」


「教えて!」


「駄目だ。先に見てこい」


子供たちはぶつぶつ言いながらも、ぞろぞろと薬草園へ走っていった。

その背中を見送り、俺はキドを見る。


「答えを言わなかったな」


「言ったら終わりだろ」


キドは肩を竦めた。


「せっかく考えてるんだから、自分で見つけた方が覚える」


また笑いが起きる。


少し前のキドなら、こういう面倒は避けていただろう。聞かれれば答えを言うか、「知らねえ」と追い払うか。そのどちらかだった。


口は悪い。手つきも雑だ。

それでも、子供が札を掛け終えるまで待っている。


キドは、煙の札を持った男の子の隣にしゃがみ、板の前を指で示した。


「煙は見えるだろ。なら、まず見る。火の上でどう動くか見て、それでも分からなかったら聞け。いきなり答えだけもらうと、あとで忘れる」


「キド兄ちゃんは忘れたの?」


「俺は……忘れたんじゃなくて、まだ調べてる途中だ」


「ずるい」


「問い札ってのは、そういうもんだ」


妙な言い訳だったが、男の子は納得したらしい。


木札は『すぐ聞く札』ではなく、『試してみる札』の下に掛けられた。


カインが帝国へ戻って、もう一年になる。

仮学舎は、いつの間にか誰も「仮」と呼ばない場所になっていた。


板は何度も削り直され、札を掛ける釘も随分と増えた。最初は三つしかなかった分類も、今では少しだけ増えている。増えすぎると子供が迷うので、キドとリュックが時々揉めながら減らしていた。


悪くない。

俺が口を出さなくても、勝手に揉めて、勝手に削って、勝手に直す。


俺の出番が減る。

それは良いことだ。……良いことのはずだ。



学び舎の隅では、リュックが薄い板を何枚か並べていた。

欠席した子の家へ持っていく板らしい。


今日やったことや見たもの、誰から話を聞いたか、そしてまだ分からないことまで、板には簡潔に書き込まれていた。


その横には、簡単な絵まで添えてある。煙の絵は少し曲がっていたが、何を描いたかは分かる。


「短いな」


覗き込むと、リュックは少し得意げに笑った。


「長くすると読まれませんから」


「よく分かってる」


「アシュラン様に何度も言われましたので」


「俺はそんなに何度も言ってない」


「言われた方は覚えていますよ」


入口近くでは、エレノアが白湯の壺を覗き込んでいた。小さな椀を手に、顔色の悪い子供を呼び止めている。


「朝から走り回る前に、少し飲みなさいな」


「え〜、だって熱いもん」


「熱すぎないようにしてありますわ。ほら、両手で持って」


隣には手洗い用の桶。学び舎の裏には、小さな薬草の乾燥棚まで増えていた。


「壺が増えてないか」


「増やしましたもの」


エレノアは当然のように答えた。


「また仕事を増やしたな」


「子供たちは増えましたし、喧嘩も増えました。でも、倒れる子は減りましたの」


「効果は出てるわけか」


「良いことですわ」


そう言って、エレノアは少し笑った。


かつて帝国でどんな顔をしていたのか、俺は知らない。

ただ、白湯の壺を覗き込み、子供に椀を持たせている今の姿は、少なくとも俺の知っているエレノアにはよく似合っていた。


本人に言えば、胸を張って面倒な返事をしそうなので黙っておいた。



学び舎を出ると、村の通りはもう動いていた。


市場へ向かう荷車が一台。鍛冶場へ運ばれる炭俵が二つ。井戸端では、水を汲む手を動かしながら、戻る者と残る者、それにまだ決めかねている者たちが言葉を交わしていた。


王都便の荷を確認していたロイルが、窓口の前で帳面を開いていた。


動きに無駄がない。


「王都行きの荷は三箱です。荷札は確認済みで、武器類は含まれていません。滞在希望者は二名、目的は商談とのことです」


「すっかり役人だな」


俺が言うと、ロイルは顔も上げずに返した。


「誰かさんが窓口を一本化したせいです」


「俺は面倒を減らしたかっただけだ」


「減ったんですか?」


「俺の分は少し減ったぞ」


「こちらは増えましたよ」


淡々と言いながら、ロイルは次の荷札へ目を落とした。


王都管理局発。

宛先、ウルム管理窓口。

品目、配給窓口用の記録紙と予備の色札。


その端に添えられた公文書の封蝋を見て、ロイルの指がほんの一瞬だけ止まる。


シャルロッテ女王陛下の印。


王都から届く荷には、もうその印が当たり前のように押されている。


ロイルはすぐに作業へ戻った。


「王都側の印、確認済み。こちらの受領印を押します」


「……そうか」


俺はそれ以上、何も言わなかった。

言わない方がいいこともある。


それに、ロイルももう、誰かに言葉を足してもらわなければ立てない男ではない。


少し離れた場所では、ギードが外来商人と話していた。訪れる者は昔より増えたが、門と窓口の手順は変わらない。


名前を書く。目的を書く。荷を見せる。武器を預ける。

ただそれだけだ。だが、ただそれだけを崩さず続けるのが、案外難しい。


俺がいなくても回るものが増えている。


悪くない。


昼寝の予定に、ほんの少し光が差す。


「アシュラン様、少しだけ確認を」


どこからともなくリュックの声が飛んできた。


俺は空を見上げた。


「その少しだけで、俺の午前が消えるんだが」


「本当に少しです」


「それで少しだったことがない」


それでも足は向く。


非常に不本意だ。



昼前になって、門の方から自警団員が走ってきた。


「アシュラン様!」


周囲の動きが、わずかに変わる。慌てるほどではない。だが、ロイルが帳面を閉じ、ギードが商人との話を切り上げた。


「帝国からの一行です。先頭に、カイン様がいます」


「カインが?」


返事をする前に、肩から力が抜けた気がした。


一年ぶりか。


戻るかどうかは本人が決めろと言った。席は空けておくとも言った。だが、本当に戻ってくるかどうかは分からなかった。


その緩みは、次の報告で消えた。


「それと……同行者に、帝国の紋章を持つ方がいます」


「……嫌な予感しかしない」


「どうしますか」


「門で止めろ。いや、もう止めてるな」


ロイルがすでに歩き出していた。


「当然です」


頼もしい返事だ。


だが、面倒の匂いがする。しかも濃厚なやつだ。



門前には、帝国の一行が立っていた。


人数はそれほど多くはなかった。だが、馬車の作りも、護衛の立ち方も、普通の使者ではないことを隠しきれていなかった。


門の内側では、ロイルと自警団が手順通りに対応している。


「武器は預かります。同行者の人数と滞在目的を記録します」


黒髪の女性――ベアトリクスが、静かに剣を外した。


「承知した」


帝国側の護衛たちも、それに従う。


その様子を、外套を羽織った男が面白そうに眺めていた。


見間違いであってほしかった。もちろん、見間違いではない。


その横で、カインが申し訳なさそうに立っている。


「マスター。ただいま戻りました」


「おかえり、と言う前に聞く。後ろの面倒そうなのは何だ」


カインは深く頭を下げた。


「面目ありません」


それで、だいたい事情は読めた。


その男――皇帝が愉快そうに口を開く。


「久しいな、アシュラン」


俺は額を押さえた。


「連れてくるなって言ったじゃないか」


「止めました。ですが、止まりませんでした」


カインの声は、本当に申し訳なさそうだった。


「お前が止められないものを、俺に持ってくるな」


「申し訳ありません」


「なんだ。儂が来ては都合が悪いのか」


皇帝ヴァレリアンは、近所へ茶を飲みに来たかのように気安くそう言った。


「悪い。皇帝は存在しているだけで手続きが増えるんだよ」


「随分な歓迎だな」


「歓迎じゃない。受付処理だ」


「なるほど。ならば、儂も名を書けばよいのか」


「当たり前だ」


俺が即答すると、門前の空気が少しだけ揺れた。


ロイルは顔色ひとつ変えず、記録板を差し出す。


「お名前と滞在目的をお願いします」


ベアトリクスが一瞬だけ皇帝を見る。


皇帝は楽しそうに笑い、記録板を受け取った。


「ヴァレリアン。滞在目的は……会談、でよいか」


「観光と書いたら追い返す」


「厳しい村だ」


「普通の村に皇帝は来ない」


「それもそうだ」


皇帝は笑いながら、きちんと名を書いた。


ギードが門の内側で白髭を撫でる。


「皇帝であろうと、門は門じゃ。入る者は名を記し、武器を預ける。それだけは変えられんのう」


「変えぬ方がよい」


皇帝は、今度は真面目な声で答えた。


「そのために来たようなものだ」


門前のざわめきが、一つ遅れて止まった。


カインの表情も、わずかに引き締まる。


俺は、嫌なものを感じながら皇帝を見た。


「で? 今度は何の用だ。王国なら、ロッテ……いや、シャルロッテ女王がどうにか回してるだろ」


「此度は王国のことではない。帝国のことでもない」


「じゃあ何だ」


皇帝は、門の内側をゆっくり見た。


学び舎へ向かう子供たち。荷を運ぶ商人。窓口で帳面を開くロイル。白湯の壺を抱えて戻るエレノア。遠巻きに様子を見ている村人たち。


その視線が、最後に俺へ戻る。


「ウルムのことだ」


ギードが黙り、ロイルが記録板を閉じる。


カインは目を伏せたままだった。


俺は、深く息を吐いた。


「……一番面倒なやつじゃないか」


「分かっておるなら話が早い」


「早くはない。早くは終わらせたいがな」


「残念ながら、すぐには終わらん」


皇帝は楽しげに、けれど目だけは統治者のまま言った。


「ウルムのことを話すなら、王国も蚊帳の外には置けまい」


今日の昼寝は、ここで潰れた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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