幕間14-1 女王と記録室
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王城の一角にある女王執務室に、乾いた風が入り込むようになっていた。
シャルロッテが王冠を戴いた朝、窓の外にはまだ冬の名残があった。あれから春が過ぎ、雨の季節が過ぎ、王都の石畳にはまた強い日差しが落ちるようになっている。
執務机の上には、朝から記録室から上がってきた報告書が並んでいた。
食糧の管理。治安維持。衛生環境。施設修繕。移住者対応。孤児の保護。住民の争議。
戴冠直後は四つしかなかった分類が、今では少し増えている。
増えたから楽になったわけではない。けれど、何がどこで止まっているのかは、前よりも見えるようになった。
シャルロッテは、報告書の端に添えられた小さな札を一枚めくった。
南区井戸、濁りあり。
その短い一文で、手が止まった。
「クラウス」
「はい」
「記録室へ行きます」
半歩後ろに控えていたクラウスは、少しだけ眉を動かした。
「マルセル室長をこちらへ呼びましょうか」
「いいえ。未決箱を見たいのです」
「……承知いたしました」
クラウスは、それ以上止めなかった。
◇
記録室に入ると、紙と乾いたインクの匂いがした。
古い紙。革紐で括られた書類の束。棚に収まりきらず、壁際に積まれた木箱。
その匂いも景色も、一年前と大きくは変わらない。
ただ、山の形は変わっていた。
以前のように、処理されないまま積み上がっているだけではない。箱にはそれぞれ札がつけられ、どこで止まっているのかを示す短い書き込みが添えられている。
「陛下」
記録室長のマルセルが、慌てて立ち上がった。
周囲の書記官たちも一斉に手を止める。
「このような場所までお運びいただかずとも、用がございましたら、すぐにこちらから伺いましたものを」
「私が気になっただけです。お気になさらないで」
シャルロッテは、できるだけ穏やかに言った。
「皆さんは、作業を続けてください。手を止めさせたいわけではありません」
書記官たちは戸惑いながらも、マルセルの目配せで席へ戻った。すぐに羽ペンの音が戻る。ただ、先ほどより少しだけ背筋が伸びている者が多かった。
マルセルは恐縮したまま、机の脇へ控える。
「今朝の未決箱は、分類まで終わっております」
「見せてください」
「はい。こちらでございます」
マルセルが開いた箱の中には、細い木札がいくつも入っていた。
食糧の管理。治安維持。衛生環境。施設修繕。移住者対応。孤児の保護。住民の争議。
シャルロッテは、その中から衛生の札を手に取る。
「南区の井戸は」
「濁りが出始めております。水路修繕の時ほどではございませんが、放置すれば熱病につながる恐れがあります」
「医師と井戸職人へは」
「すでに確認を回しております」
「早いですね」
マルセルは、少しだけ困ったように笑った。
「後でまとめるより、気づいた時点で回した方が早いと分かりまして」
シャルロッテは小さく頷いた。
一年前の記録室なら、その言葉は出なかっただろう
「食糧は」
「東区の倉庫については、配給量の記録が安定してまいりました。先月、一度不足しかけましたが、早めに報告が上がったため、商会側の追加分で補えています」
「早めに」
シャルロッテは、その言葉を静かに繰り返した。
「はい。咎められるのを覚悟で、足りないと書いた者がおりました」
そばで書類を抱えていた若い書記官、ニコラが答える。彼は一年前より、ずいぶん声が通るようになっていた。
「その者の名を」
シャルロッテが言うと、ニコラは一瞬だけ身を固くした。
「罰しますか」
「いいえ。礼を出します」
ニコラが目を瞬かせる。
「足りないと早く分かったから、次を用意できました。なら、その報告は責めるものではありません」
「……承知しました」
ニコラは、少しだけ口元を引き結び、書類の端に小さく印をつけた。
マルセルが次の箱を開く。
「治安は、北門周辺の命令系統が一本化されてから、大きな混乱は減っております。ただ、周辺貴族の私兵が、いまだに独自の巡回を続けている地区がございます」
「王都の治安隊の巡回路と重なっていますか」
「一部、重なっております」
「では、命令違反として責める前に、巡回路を見せてください。彼らが何を守ろうとしているのかを見ます」
ニコラが、また少し驚いた顔をする。
「処罰ではなく、確認でございますか」
「先に処罰すれば、次から隠します」
そう言ってから、シャルロッテは机上の札をひとつ動かした。
治安維持。
その横に、私兵巡回路確認、と短く書き添えられた札を置く。
記録室の隅に、かつて処理されないまま積み上がっていた未決の書類は、今もある。
すべてが消えたわけではない。
ただ、山の形は変わった。
誰かの顔色を見て積まれる山ではなく、どこが詰まっているかを示す山へ、少しずつ変わり始めている。
誰かを呼べば、報告は上がってくる。
女王の執務室で待っていれば、必要な書類は机の上に揃えられる。マルセルもニコラも、こちらが呼べばすぐに来るだろう。
それでも、シャルロッテは時折、自分の足で記録室まで来ていた。
書類の束の重さや、箱の置かれ方。書記官たちが目を伏せる一瞬の間。そういうものは、整えられた報告書だけでは見えない。
かつての自分は、ただ訊ねればよいのだと思っていた。
けれど、答えられる場所を作らなければ、人は本当のことを口にできない。言葉にならないものは、書類の遅れや、箱の隅に押し込まれた札に残る。
だからこそ、足が向く
王冠を戴いたからといって、見なくてよい立場になったわけではない。
むしろ、最後に命じる者になったからこそ、どこで止まっているのかを、自分の目で確かめなければならなかった。
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