第203話 賢者と帰路
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王都からの伝令がウルム村へ着いたのは、シャルロッテの戴冠から数日が過ぎた朝だった。
仮学舎では、子供たちが問い札の板の前に集まり、昨夕から増えた木札を見て騒いでいた。
『なぜ煙は上に行くの』
『どうして濡れた布は風で早く乾くの』
『帝国にも、問い札はあるのか』
最後の札だけは、誰が書いたのか分からないまま、板の端に残されている。
俺がそれを眺めていると、外から自警団員の声がした。
「アシュラン様。村長のところへ、王都からの使者が来ています」
「……王都から?」
キドが先に反応した。
俺は窓の外へ目を向ける。迎賓館の前で、泥の跳ねた外套を着た男が馬から降りていた。ただ、急ぎの伝令らしく、馬も人も道中の疲れを隠せない有様だった。
「ロッテからか?」
キドが聞く。
「さあな。見れば分かる」
俺が仮学舎を出ると、カインも迎賓館の方から歩いてきた。手には革の鞄を持っている。帝国へ持ち帰る資料の最終確認をしていたのだろう。
「王都からですか」
「ああ。ちょうどお前の荷造りが終わる頃に来るとは、間がいいのか悪いのか分からんな」
「王都の事情がこちらの都合に合わせることはないでしょう」
「正論で返すな。面倒くさい」
カインは小さく笑った。
◇
封書は、ギード宛てだった。
正確には、「ウルム村 ギード殿、ならびにアシュラン殿」とある。
報せとして届いたものだと、宛名だけで分かった。
ギードは封を切り、まず正式な文書に目を通した。周囲には、エレノア、キド、カイン、リュック、それに近くにいた何人かの村人が集まっている。
「……シャルロッテ王女殿下は、王位継承の儀を終え、女王として即位した、とのことじゃ」
しばらく、誰も声を出さなかった。
一番先に口を開いたのは、キドだった。
「女王って……ロッテが?」
「シャルロッテ女王陛下だな」
俺が言うと、キドは心底困ったような顔をした。
「……呼びにくいな」
「本人もたぶんそう思ってる」
「だよな」
そのやり取りで、張り詰めかけた空気が少しだけほどけた。
エレノアは胸の前で手を重ね、ほっと息をついた。
「無事に終えられたのですね」
「らしいな」
「無理をなさらず、少しでも休めているとよいのですけれど」
「戴冠してすぐ書類漬けだろうから、期待はするな」
「師匠」
「事実だ」
ギードが、もう一枚の小さな紙片を取り出した。
正式な文書とは違う。こちらは短い私信だった。字は丁寧だが、かしこまった文の端に、少しだけロッテらしさが残っていた。
ギードはそれを俺へ渡した。
「これは、アシュランが読んだ方がよかろう」
俺は受け取り、視線を落とした。
文は短かった。
王位継承の儀を終えたこと。
王都で止まっていた政務を動かし始めたこと。
そして、最後に一行だけ。
『木札は、今も手元にあります』
俺は、その一文を声に出して読んだ。
キドが、黙った。
キドが作った、少し歪んだ字の木札だ。
「……持ってったんだな」
「ああ」
「王城まで?」
「そう書いてある」
キドは鼻の頭をこすり、少しだけそっぽを向いた。
「捨てるような奴じゃないとは思ってたけどさ」
「なら、心配するな」
「別に心配してねえよ」
そう言いながら、キドは問い札の板の方をちらりと見た。
白い木札が並んでいる。
ロッテの名前は、そこにはない。
それでも、木札というだけで何かを思い出すのだろう。
◇
ギードは、その日のうちに村の掲示板へ報せを出した。
シャルロッテ王女殿下、王位継承の儀を終え、女王として即位。
文面はそれだけだ。
それでも、村人たちは足を止めた。
王国へ戻ると決めていた者は、安堵した顔をした。帰った先で、誰に願い出ればよいのかが、ようやく見えたからだ。
一方で、ウルムに残ると決めた者たちは、少し複雑そうだった。自分たちはもう王都へ戻らない。それでも、王都との縁まで切れたわけではない。
未定の札を掛けたままの者たちは、掲示板の前で長く立ち止まっていた。
「どうするんですか、これ」
若い避難民の一人が、遠慮がちに聞いてきた。
「どうするも何も、報せは報せだ」
俺は掲示板の横に掛けられた、戻る、残る、未定の札を見た。
「女王が生まれたからといって、ここで決めた札が勝手に動くわけじゃない。戻る、残る、未定。決めるのは本人だ」
ギードが頷く。
「そうじゃな。報せは報せ、選択は選択じゃ」
「王国へ戻りたい奴は、戻ればいい。残りたい奴は残ればいい。迷ってる奴は、もう少し迷え。迷う時間くらいは、ここにある」
「……迷ってても、いいんですか」
「迷ってる間に飯を食って寝て働けるならな」
その若者は少し笑い、頭を下げた。
大きな報せが届いても、ウルム村の朝は急には変わらない。
炊き出しの煙は上がるし、鍛冶場からは槌の音が聞こえる。仮学舎では子供たちが問い札を増やしている。
王都では女王が動き始めた。
こちらでは、いつも通り面倒が増えている。
◇
カインの荷物は、迎賓館の一室にまとめられていた。
革の鞄が一つ。木箱が二つ。
机の上には、最後に確認するための書類が並んでいる。
小型炉の試験手順書。
炉材が割れた時の記録。
燃料の減り方を比べた表。
問い札の運用様式。
欠席した子供向けの記録様式。
そして、学び舎の引き継ぎ表。
俺はそれらを見て、まず言った。
「まだ多いな」
「これでも三分の一に減らしましたよ」
カインは真面目な顔で答える。
「帝国の奴らに全部読ませるつもりなら、戻る前に老けるぞ」
「……要約を先頭につけます」
「そうしろ。読ませたいなら短くしろ」
「マスターの言う短いは、時々短すぎます」
「長すぎるよりはましだ」
カインは反論しなかった。代わりに、机の端に置いていた一枚の図面へ目を向ける。
それは、反射炉の簡単な模式図だ。熱がどこから逃げるのか、どこへ集めるのか、それだけが分かるように描かれている。
「反射炉は、完成図を見せびらかすなよ」
「はい。概念、試験手順、失敗記録を中心に伝えます」
「炉の形を持っていくな。熱の逃げ方を見る目を持っていけ」
カインは、小さく頷いた。
「帝国の職人たちが、自分たちの材料で試せるようにします」
「そうだ。最初から完成品を置くと、職人は考える前に真似る。真似たものは、壊れた時に直せん」
「試して、壊して、直す。そこまで含めて渡します」
「ならいい」
その時、扉の向こうからキドが顔を出した。
「カイン様、問い札、持ってくのか?」
聞いていたらしい。
カインは少しだけ表情を柔らかくした。
「いいえ。子供たちの札は置いていきます。あれは、この村のものですから」
「じゃあ、帝国で同じのを作るのか」
「同じものになるかは分かりません。帝国には帝国のやり方があるでしょうから」
キドはしばらく考え、それから言った。
「じゃあ、向こうでも色々試してきてくれよ」
カインは一瞬、言葉に詰まった。
そして、少し笑う。
「……ええ。色々試してきます」
「そうか」
キドは頷いた。
「帝国にも、面白い問いがあるといいな」
「あると思います」
「見つけたら、今度聞かせてくれ」
「はい」
キドは少し照れくさそうに鼻の頭をこすった。
◇
出立は、その日の午後になった。
村の門前には、思ったより多くの人が集まっていた。
仮学舎の子供たちだけでなく、開拓民や避難民、自警団、職人や農民たちまで、仕事の合間に顔を出している。
リュック、ヘイム、ギード、エレノア、キドはもちろん、顔見知りの村人たちが次々と声を掛けた。学び舎で文字を覚えた子供たちの中には、自分で書いた手紙を握りしめている者もいた。
カインに声を掛ける者は、思っていたより多かった。
「こんなに見送ってもらわなくてもよかったんですけどね」
「皆の気持ちだ。ありがたく受け取っておけ」
「……はい、マスター」
カインは革の鞄を馬車へ積ませ、最後にこちらへ向き直った。
「カイン、帝都で無理をなさらないように」
エレノアが言う。
「あなたに言われるとは」
「わたくしは師匠に鍛えられましたもの」
「俺は鍛えた覚えはない」
「鍛えられましたわ」
「聞き分けのない弟子だ」
「師匠ほどではありません」
周りから小さな笑いが漏れた。
ギードが白髭を撫でながら一歩前へ出る。
「道中、気をつけるのじゃ」
「はい。村長にも、随分お世話になりました」
「世話をしたというより、便利に使っただけじゃがな」
「それも含めて、世話です」
ギードは目を細め、何も言わずに頷いた。
キドは少し離れたところに立っていた。腕を組み、視線を逸らしている。
「キド」
カインが呼ぶと、キドは渋々こちらを見た。
「……戻ってくるのか」
その問いに、カインはすぐには答えなかった。
「分かりません」
「またそれかよ」
「ですが、戻れないと決まったわけでもありません」
キドは口をへの字に曲げた。
「そこは、戻るって言えばいいだろ」
「言えない約束は、しない方がよいと思います」
キドは何か言い返しかけ、結局やめた。
俺は、その横から口を挟む。
「戻るかどうかは、お前が決めろ。俺には命じる権利はない」
カインがこちらを見る。
少し驚いたような顔だった。
「ただ、こっちで使ってた席は、しばらく空くだけだ」
「……席、ですか」
「気に入らんなら机でもいい」
「いえ」
カインは、ほんの少し目を伏せた。
「ありがとうございます」
「礼を言うところか?」
「言うところです」
そういうものか。
◇
馬車に乗る前に、カインは俺の前で足を止めた。
「マスター」
「なんだ」
「私は、ここで随分と壊されました」
「人聞きが悪い」
「褒めていますよ」
「なお悪い」
カインは真面目な顔のままだった。冗談なのか本気なのか、相変わらず分かりにくい。
「完成した理論より、失敗した記録の方が役に立つことがある。問いに答えるより、問いを残すことが大切な時もある。帝国で、どこまで通じるかは分かりません」
「分からんものを試しに行くんだろ。賢者らしくていいじゃないか」
「……はい」
カインは深く礼をした。
俺は、それを受けてから肩をすくめる。
「皇帝によろしく言うなよ」
「言わない方がよろしいのですか」
「言ったら来るだろうが」
「……否定はできません」
「するなよ」
カインはそこで、今日初めてはっきり笑った。
それから馬車へ乗り込む。
御者が手綱を握り、車輪がゆっくりと回り始めた。
カインは一度だけ振り返った。
その視線は、迎賓館ではなく、仮学舎の方を向いていた。
あの板の前に、まだ答えのない札が残っている。
やがて馬車は門を抜け、村の道の先へ小さくなっていった。
◇
カインの姿が見えなくなったあと、キドがぽつりと言った。
「また席が、空いたな」
「空席は悪いことじゃない」
俺は仮学舎の方を見た。
「戻る場所にもなるし、次の奴が座る場所にもなる」
「……じゃあ、誰か座っていいのか」
「座って怒られるようなら、最初から札を掛けておけ」
「何て書くんだよ」
「賢者席。勝手に座るな」
キドが少し笑った。
それから、仮学舎へ戻る途中で問い札の板を見る。
『帝国にも、問い札はあるのか』
その札は、まだ外されていなかった。
答えはまだない。
だが、問いを持った賢者は、もう帰路についていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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