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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第14章 学び舎と王冠

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第202話 王冠と名前札

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

王位継承の儀の日取りが定められてから、ちょうど二十日が過ぎた。


その朝、王城の大鐘が厳かに鳴り響いた。


しかし、その鐘の音はどこか鈍く聞こえた。塔の上部はまだ修繕の途中で、白い布を巻かれた足場が冷たい風に揺れている。城壁の一部には新しい石がはめ込まれ、玉座の間へ続く廊下にも、磨いても落ちきらない煤の跡が残っていた。


王都は、まだ整っていなかった。

それでも、人々は玉座の間へ集まり始めていた。


王位は、長く空いたままだった。

その空白に終わりを告げるため、この日の儀が開かれる。



控えの間には、黒檀の台座に王冠が置かれていた。


金の輪には磨き直された艶があり、いくつかの宝石も嵌め直されている。だが、近くで見れば細かな傷が残っていた。縁の内側には古い擦れ跡があり、片側の装飾には、ほんのわずかな歪みもある。


決して、新品の飾り物ではない。

それは、代々の王が戴き、守り、時には奪われかけたものだ。


シャルロッテは、その王冠をしばらく見つめていた。


女官が外套の裾を整え、老侍従が式次第を確認している。その声は低く抑えられていたが、控えの間全体に張り詰めた気配があった。


「ご気分は」


半歩後ろに控えていたクラウスが、静かに尋ねた。


シャルロッテはすぐには答えず、ゆっくりと息を吸った。


「良いとは言えません。でも、逃げ出したいほどではありません」


「それで十分かと」


「十分なのですか」


「怖さを知らぬ方が王冠を戴くより、よほど」


クラウスの声は、いつも通り落ち着いていた。慰めるでもなく、励ますでもない。ただ、そこにいる。


シャルロッテは胸元の内側にそっと手を当てた。


衣服の下には、小さな木札がある。

ロッテ、と少し歪んだ字で刻まれた札だ。


磨かれた王冠と、手の中の木札。


「儀礼は、できる限り簡略化しております」


オリヴィエが書類を手に近づいてきた。


「地方諸侯の一部は間に合っておりませんが、王都に残る主要貴族、官吏、軍代表、商会代表は参列します。王位空白を終えるための手続きとして、必要な者は揃っております」


「全員が納得しているわけではありませんね」


シャルロッテが言うと、オリヴィエは迷わず頷いた。


「はい。納得というより、これ以上空けておけないと判断した者も多いかと」


「それでも、始めなければならないのですね」


「はい。止まっているものが、多すぎます」


その言葉に、シャルロッテは記録室の薄暗さを思い出した。


記録室で見た書類には、開かない倉庫も、動けない兵も、淀んだ水路も並んでいた。

どれも、誰かが最後に引き受けるのを待って止まっていた。


美しい祝辞よりも、未決の書類の方がはるかに多くを語っていた。


「分かりました」


シャルロッテは、もう一度だけ王冠を見た。

それから、胸元の木札から手を離した。


「参ります」



玉座の間は儀式のために整えられていた。


赤い絨毯は敷き直され、柱の装飾も元の位置へ戻されている。だが、壁際には火災の痕がなお残り、床の一角には補修したばかりの新しい石が目立っていた。


そこに集まった貴族たちは、皆、礼服を整えている。


旧王家寄りの老伯爵は、シャルロッテの姿を見ると、深く頭を下げた。顔を上げた時、その目は少し潤んでいるように見えた。


中堅の貴族たちは、周囲の反応を確かめてから礼をする。

若い貴族たちは、形だけは正確に整えていたが、その視線には新たな女王を値踏みするような慎重さが残っていた。


商会代表は王冠よりも、式の後にどんな命令が出るかを気にしているようだった。軍代表は、これで命令系統が一本になるのかを見極めようとしていた。


そして、リヒテンブール公爵は、誰よりも正確に礼をした。

深すぎず、浅すぎず、王女に対する敬意として過不足がない。

そこに露骨な反発はなかった。

だが、心まで膝を折ったわけではないことも、シャルロッテには分かった。


オリヴィエが一歩進み、式の開始を告げる。


長い祈りも、過剰な賛辞もなかった。王国の継承法に基づき、王家の血統と、王都に残る諸侯および官吏の承認が読み上げられていく。


王位は空いていた。

その空位を、シャルロッテが継ぐ。


高位文官が王冠を捧げ持ち、老侍従が一歩下がった。


玉座の間の空気が、そこで一段深く沈んだ。


シャルロッテは膝を折る。


王冠が、頭上に置かれた。


金冠も埋め込まれた宝石も、想像していたほど、重くはなかった。

だが、顔を上げた瞬間、その場にいる者たちの視線が一斉に集まった。


期待する者もいれば、安堵する者もいる。反対に、この若い女王の器を測ろうとする視線も少なくなかった。

この若い女王に、どこまで任せてよいのか。どこまで使えるのか。どこまで押せるのか。


それぞれの目が、違う重さを持っていた。

王冠よりも重いものがそこにあった。


オリヴィエが膝を折り、続いて老伯爵が深く頭を垂れる。官吏、軍代表、商会代表、貴族たちが、順に礼を示していった。


遅れる者もいた。深く下げる者も、最低限に留める者もいた。


それでも、玉座の間に集まった者たちは皆、頭を下げた。


「新たなる女王陛下、シャルロッテ陛下の御即位をここに宣言する」


オリヴィエの声が、玉座の間に響いた。


その呼び名は、まだ自分のものではないように聞こえた。

けれど、もう後へは戻れない。



シャルロッテは、集まった者たちを見渡した。


話す言葉は、あらかじめ整えられていた。


老侍従が用意した式辞もある。オリヴィエが確認した無難な言葉もある。


だが、シャルロッテはそれらをそのまま読むつもりはなかった。


「この国を、元に戻すとは申しません」


玉座の間が、かすかに揺れた。


声に出した者はいない。だが、何人もの視線が一瞬、隣へ動いた。


シャルロッテは、そのざわめきが広がりきる前に続けた。


「壊れた場所を見ないまま、形だけ戻しても、また同じところで止まります」


立派な演説ではなかったかもしれない。

それでも、声にした言葉は、確かに彼女自身のものだった。

昨日までなら、それだけでも足が震えていたかもしれない。


「私は、訊ねます。ただ、訊ねるだけで終わらせるつもりはありません」


オリヴィエが、わずかに顔を上げた。


「誰の声が、どこで止まったのか。どの仕事が、誰の手前で滞っているのか。そこまで見ます」


食糧の書類を見ていた商会代表が、ほんの少し姿勢を正した。


軍代表の目が細くなる。


リヒテンブール公爵は、表情を変えない。だが、その視線はわずかに鋭さを増した。


「そして、必要なものは動かします」


シャルロッテは、自分でも少しだけ息が浅くなっているのを感じた。

それでも、言い切らなければならなかった。


「王命とは、人を黙らせるものではなく、止まったものを動かすために使うものだと、私は思います」


完璧な言葉ではなかったのかもしれない。

王としては、少し弱い言い方だったのかもしれない。

それが、今のシャルロッテに言える精一杯だった。


しばらく、誰も声を出さなかった。


最初に頭を下げたのは、オリヴィエだった。

続いて老伯爵が、深く膝を折る。官吏たちがそれに倣い、軍代表と商会代表も礼を示した。


最後の方で、リヒテンブール公爵が頭を下げた。


「女王陛下に、王国の安寧を」


その一言は、祝福にも聞こえた。

同時に、距離を置いた言葉にも聞こえた。


シャルロッテは、そのどちらとも決めつけなかった。


ただ、静かに頷いた。



式が終わると、玉座の間はすぐに政務の場へ戻った。


華やかな余韻に浸る暇はない。


オリヴィエはすぐに官吏を呼び、未決案件の命令書を整え始めた。


東区の共同倉庫を開放するための王命。


北門付近の治安隊を一本の命令系統へ戻す通達。


下町の排水路修繕を優先する指示。


医師の派遣と、職人の再配置。


王冠を戴いた直後の女王の前に並べられたのは、祝宴の献立ではなく、処理を待つ書類だった。


シャルロッテは、一つ一つに目を通した。


「倉庫の開放には、配給量の記録を必ず残してください。足りなくなった時に、誰か一人の責任にしないためです」


「承知しました」


「治安隊の命令は、北門だけでなく周辺の私兵にも写しを出してください。命令が一本化されたことを知らなければ、また勝手に動きかねません」


「承知しました」


「水路の修繕は、職人の数と作業日を明記してください。途中で貴族街の工事へ戻されないように」


オリヴィエが少しだけ目を細めた。


「陛下」


その呼び名に、シャルロッテは一瞬だけ反応が遅れた。


「……はい」


「すぐに手配いたします」


王冠は、まだ頭にある。


けれど、その重さを感じる暇もなく、書類が次々と運ばれてくる。


これが王になるということなのだろう。


きっと、玉座に座ることではない。

それは、最後に引き受ける場所に立つ者のことだ。



夕刻近くになって、ようやく控えの間へ戻ることができた。


女官が儀礼用の外套を外し、王冠を一度、専用の台へ置く。頭が軽くなったはずなのに、肩の辺りにはまだ重さが残っているようだった。


人が少なくなり、控えの間にはクラウスだけが残った。


「お疲れ様でございました、陛下」


その呼び方に、シャルロッテは少し困ったように笑った。


「……まだ、その呼ばれ方には慣れません」


「慣れる必要は、急がずともよいかと」


「でも、逃げるわけにはいきませんね」


「はい」


クラウスは短く答える。


シャルロッテは、そっと胸元へ手を当てた。


木札の硬い感触が、布越しに伝わってくる。


「ロッテという名を、王城に持ち込むことになるとは思いませんでした」


「捨てずに済んだのなら、よろしいのでは」


クラウスは、少しも不思議そうには言わなかった。


シャルロッテは木札を握ったまま、王冠の置かれた台を見る。


王冠は外せる。


だが、ロッテという名は、もう外すものではなかった。


「クラウス」


「はい」


「ウルム村へ、知らせを出します」


「かしこまりました」


「報告と……私信です」


クラウスは、そこで初めてほんの少しだけ表情を緩めた。


「その方が、届いた時に驚かれずに済むかと」


「驚かれるでしょうか」


「多少は」


「……そうですね」


シャルロッテは、小さく息を吐いた。


それから机に向かい、短い文をしたためた。


王位継承の儀を終えたこと。

王都では、止まっていた政務を順に動かし始めること。

ただ、無事を知らせるための文だ。


そして最後に、シャルロッテは少し迷ってから、もう一行だけ加えた。


木札は、今も手元にあります。


書き終えると、彼女はしばらくその一文を見つめた。


ロッテと呼んでくれた人々は、まだ遠くにいる。


この知らせが届く頃には、王都ではまた別の書類が山積みになっているかもしれない。自分も、今より少しは女王という呼び名に慣れているかもしれない。


それでも、この一文だけは、今のうちに書いておきたかった。



夜。


王城の門から、数騎の伝令が出ていった。


即位を知らせる公文書は、王国各地へ向かう。


倉庫の開放と配給管理の指示、北門周辺の治安隊を統合する通達、下町の排水路修繕の命令、そして医師や職人の派遣に関する文書。新しい王命は、止まっていた場所へそれぞれ送られていく。


そのうちの一通は、王都から遠く離れた、小さな村へ向かうものだった。


封の中には、即位を知らせる文書と、短い一文だけの私信が入っている。


木札は、今も手元にあります。


それを読む者たちは、まだ遠い場所にいた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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