第201話 学び舎と留守番
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仮学舎の壁に掛けた問い札の板は、作ってからまだ数日しか経っていない。
それなのに、朝の時点ですでに白い木札がいくつも増えていた。
『どうしてパンはふくらむの』
『井戸の水はなぜ冷たいの』
『なぜ濡れた布は風に当てると早く乾くの』
どれも、子供の字らしく歪んでいる。字の大きさも揃っていないし、途中で線が曲がっている札もある。だが、書いた本人なりに、気になったことを残そうとした跡だけは分かった。
「……増えるの早すぎだろ」
問い札係を任されたキドが、板の前で腕を組んで唸っていた。
「いいことだろ」
俺が横から覗き込むと、キドは不満そうに振り返った。
「よくねえよ。どこに置けばいいか分かんねえ札があるんだよ」
「例えば?」
キドは一枚の札を外し、俺に突き出してきた。
『キドはどうして怒ると声が大きいのか』
「これを書いた奴、出てこい」
キドが教室の方へ振り返ると、何人かの子供が一斉に視線をそらした。誰が書いたかは、だいたいそれで分かった。
俺は木札を受け取り、板の三つの区画を見た。
すぐ聞く札。あとで考える札。誰かと調べる札。
「これは、すぐ聞く札だな」
「誰にだよ」
「本人が一番詳しいだろ」
「俺に聞くのかよ」
キドが本気で嫌そうな顔をしたので、近くにいた子供たちがくすくすと笑った。
「いいか、キド。問い札は、答えを知ってそうな奴のところへ持って行けば終わりじゃない。まず、誰に聞けばよさそうか考えるんだ」
「じゃあ、俺に聞くのも間違いじゃねえのか」
「そうだ。ただし、怒らないで答えろよ。声が大きい理由を聞かれて怒鳴ったら、札を書いた奴の勝ちだ」
「勝ち負けなのかよ」
キドはぶつぶつ言いながらも、その札をすぐ聞く札の枠に掛けた。
それを見ていたカインが、少しだけ眉を寄せる。
「分類基準としては曖昧です。このままでは後で整理に支障が出る可能性があります」
「最初から細かく分けすぎるな。子供が考える前に、やることだけが増えて追いつかなくなるぞ」
「ですが、自然現象と人物に関する疑問を同じ板で扱うのは……」
「今はそれでいい。まず札を書かせる。次に、置き場所で迷わせる。迷ったら誰かに聞く。そこまでできれば上出来だ」
カインはまだ何か言いたそうだったが、板の前で真剣に札を睨んでいるキドを見て、ひとまず口を閉じた。
◇
その日の最初の時間は、問い札の扱いから始まった。
俺は黒板代わりの板の前に立ち、子供たちが持ってきた札をいくつか机の上へ並べる。
「今日は、この中から一つ選ぶ」
「答えを教えてくれるの?」
年少の子が目を輝かせて聞いてきた。
「教えん」
「なんで?」
「答えを聞いて終わるなら、問い札じゃない」
子供たちが、よく分からないという顔でこちらを見る。キドまで似たような顔をしていた。
俺は『どうしてパンはふくらむの』と書かれた札を持ち上げる。
「これは、俺は答えを知ってる。だが今は教えん。先にどう調べるかを考えろ」
「パン屋に聞く!」
王都から来た商家の子がすぐに手を上げた。
「いいな。ほかには」
「食べる!」
「それは調べる前に減るだけだ」
教室に小さな笑いが起きる。
「割って見る」
今度はウルムの子が言った。
「焼く前と、焼いた後を比べる」
「それだ」
俺は、その子を指差した。
「まず見る。次に聞く。できるなら少し試す。分かったことと、まだ分からないことを分ける。最後に、みんなへ話す。難しい言葉はいらん。自分で見たことを言え」
カインが横から何かを言いかけた。
「それは体系化すれば——」
「体系化は後でいい。先に子供を動かせ」
俺が遮ると、カインは眼鏡の奥で少し悔しそうに目を細めた。
「……承知しました」
「悔しそうだな」
「体系化は重要です」
「重要だ。だが、先に棚だけ作っても中身がなければ意味がない」
カインは反論しかけたが、子供たちがパンの中身を想像して口々に話し始めているのを見て、今度は何も言わなかった。
窓の外では、聖樹の葉が一枚揺れている。
そこから、リナがひょいと顔を覗かせた。
「木のことなら、私に聞いてもいいよ」
「お前は勝手に授業に混ざるな」
「木の札、ある?」
「ある。だが今日はパンだ」
「パンも木からできる?」
「できない」
「じゃあ、つまんない」
リナはそう言って葉の陰へ引っ込んだ。子供たちはまた笑ったが、すぐに机の上のパン札へ視線を戻した。
笑って終わらず、また札へ戻る。
悪くない。
◇
休憩の時間になると、エレノアが白湯の壺を持ってきた。
「冷えた手で石筆を握る子が、やはり多いですわ。白湯の壺は、こちらへ置いておきます」
「置き場所は決めておけ。毎日違う場所にあると、次は白湯はどこだという札が増える」
「それはそれで、すぐ聞く札ですわね」
エレノアが少し笑う。
彼女は白湯を配りながら、子供たちの手や顔色を自然に見ていた。誰が緊張しているか、誰が眠そうか、誰が朝から何も食べていなさそうか。俺が板を見ている間に、彼女はそういうところを拾っている。
仮学舎の外へ出ると、エレノアは少し離れた結界柱の方へも目を向けた。
「結界柱の周りも、後ほど見ておきますわ。子供たちが走り回るようになってから、近くに物を置きっぱなしにすることが増えましたもの」
「壊すなとは言ってあるが、子供は言っただけでは止まらんからな」
「ええ。ですから、先に見ておきます」
予防という言葉を、エレノアはもう自然に使わずとも分かっている。怪我人が出てから治すより、怪我をしそうな場所を先に見る。その感覚が、彼女の中では当たり前になっていた。
そこへ、カインが分厚い紙束を抱えてやってきた。
嫌な予感がした。
「……それは何だ」
「学び舎運用に関する引き継ぎ要項です」
「一枚にしろと言ったはずだ」
「これでも、重要事項を削ったつもりです」
カインは真顔だった。
俺は紙束を受け取り、ぱらぱらとめくる。問い札の分類基準、記録様式、欠席者への対応、実習時の安全確認、例外処理。必要なことは確かに書いてある。問題は、これを読まされる側が途中で気絶しそうなことだ。
「これは読ませるための紙束じゃなくて、相手を黙らせる紙束だ」
「そこまででしょうか」
「そこまでだ」
カインは納得しきれない顔をしたが、エレノアが紙束を覗き込んで、にこりと微笑んだ。
「カイン。これは、たしかに少し重いですわ」
「エレノアまで……」
「子供たちを見る係がこれを読んでいたら、その間に子供が机から落ちます」
カインは黙った。
俺は紙束を机に置き、必要なところだけ指で叩いていく。
「問い札の分類はキド。読めない札はリュックが読む。記録の清書もリュック。子供の体調、白湯、休憩はエレノア。机、椅子、踏み台はヘイムと木工職人。全体の判断はギード」
「危険な実験はどうしますか」
「火、炉、薬、結界に関わるものは止めろ。俺かお前が見るまでやらせるな」
「それ以外は?」
「止めなくていい。だが、全部任せる必要もない。危ないものは止めろ。止めなくていいものまで止めなければそれでいい」
カインは、その言葉を手元の小さな紙に書きつけた。
「……危ないものは止める。止めなくていいものは動かす」
「そうだ。管理ってのは、全部を縛ることじゃない」
カインはしばらく紙面を見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。
「分かりました。もう一度、作り直します」
「一枚だぞ」
「一枚にします」
「裏までびっしり書くなよ」
「……努力します」
そこは即答しろ。
◇
午後になると、キドがリュックを連れて問い札の板の前に戻ってきた。
「俺、まだ読めねえ札があるぞ」
キドは不機嫌そうに言ったが、逃げる気はなさそうだった。
「読めない札は、僕が読みます。キドは、どこに掛けるかを決めてください」
リュックが、短く区切った羊皮紙を見せる。
そこには、問い、分類、聞いた相手、試したこと、まだ分からないこと、という欄だけがあった。カインの紙束とは違い、余白もある。
「短いな」
俺が言うと、リュックは少し得意そうに頷いた。
「長いと読まれませんから」
「よし。分かってきたな」
キドはリュックに読んでもらいながら、一枚ずつ札を掛けていく。パンの札は、あとで考える札。井戸の水は、誰かと調べる札。濡れた布は、あとで考える札と迷った末に、まず外で試すことになった。
「間違えたらどうすんだよ」
キドが、札を持ったままこちらを見る。
「やり直せばいい」
「そんな雑でいいのかよ」
「最初から正しい場所に置けるなら、そもそも問いにならん」
キドは少し考えたあと、濡れた布の札をあとで考える札へ掛けた。
「じゃあ、明日、濡らして干せばいいんだな」
「そうだ。ただし、服を勝手に濡らすなよ」
「やらねえよ」
言いながら、キドは少しだけ笑っていた。
その顔を見て、カインが手元の引き継ぎ紙に何かを書き足す。
俺は横から覗き込んだ。
『答えを急がせないこと』
「いいじゃないか」
「帝国へ持っていく記録にも、加えます」
「完成品じゃなくて、そういう方を持っていけ」
「はい」
カインの返事は、前より少しだけ軽かった。
◇
夕方。
子供たちが帰り始める頃、仮学舎の中は朝とは別の散らかり方をしていた。
石筆は箱に戻っているが、なぜか一つだけ窓際に転がっている。白湯の壺のそばには、誰かが置き忘れた小さな布がある。問い札の板には、朝よりも二枚ほど札が増えていた。
キドが板の前で片付けをしていると、ふと手を止めた。
「ロッテ、今ごろ何してんだろうな」
その名前が出た瞬間、教室の空気が少しだけ変わった。
俺は白い木札を一枚手に取りながら答える。
「王都で面倒な顔をしてるんじゃないか」
「面倒な顔ってなんだよ」
「逃げたいけど逃げない顔だ」
キドは少し黙った。
その顔は、納得したような、したくないような顔だった。
「……あいつ、逃げなさそうだもんな」
「逃げるのは下手そうだな」
エレノアが白湯の壺を片付けながら、少しだけ笑った。けれど、すぐに目元が曇った。
「ちゃんと食べて、眠れているとよいのですけれど」
「そこは俺も心配だ」
「師匠がそう言うと、本当に心配になりますわ」
「食って寝ないと、人間はだいたい面倒を起こす」
ギードが入り口の方からこちらへ歩いてきた。手には村の連絡板があるが、王都からの封書はない。
「王都から正式な知らせが届くには、まだかかるじゃろう。今は、こちらはこちらのことを進めるしかあるまい」
「そういうことだ」
俺は問い札の板を見た。
「向こうは向こうの仕事。こっちはこっちで、木札が増えてる」
「軽く言うのう」
「重く言ったら片付くのか?」
ギードは白髭を撫で、困ったように笑った。
「片付かんな」
「なら、それでいいだろ」
キドは、ロッテという名の残った木札を見つめるように、しばらく問い札の板を見ていた。
王都で何が決まったのか、俺たちはまだ知らない。
ただ、あいつが面倒なものを背負いに行ったことだけは分かっている。
◇
子供たちが帰った後、仮学舎の中はようやく静かになった。
俺は戸締まりを確認しようとして、問い札の板の前で足を止めた。
朝にはなかった札が、一枚増えている。
『帝国にも、問い札はあるのか』
字は歪んでいた。書いたのが誰かは分からない。年少の子供にしては言葉が整っているが、キドにしては少し丁寧すぎる。
カインもその札に気づき、しばらく黙って見つめていた。
「答えは?」
俺が尋ねる。
カインは、ゆっくりと首を横に振った。
「分かりません」
「賢者なのにか」
「賢者でも、見ていないものは分かりません」
今度は、迷わずにそう言った。
俺は少し笑って、問い札の板に掛かったその一枚を指で軽く揺らした。
「なら、見てこい」
カインは小さく頷いた。
その札は、外さなかった。
答えがないからこそ、残しておく。
問い札の板には、ウルムに残る問いと、外へ向かう問いが並んでいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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