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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第14章 学び舎と王冠

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第200話 王冠と切れた糸

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

翌朝。


シャルロッテは、会議室へ向かう前に、控えの間で一枚の羊皮紙を見ていた。

記録室でまとめ直させた、未決案件の一覧だ。


食糧管理、治安維持、衛生対策、水路や建物の修繕。


それぞれの項目の横には、止まっている理由が短く書き添えられている。


倉庫の開放は、許可を出す者が定まらない。

北門の治安隊は、命令系統が二つに分かれている。

下町の水路修繕は、貴族街の工事に職人を取られている。


どれも、余計な言葉を削ぎ落とした短い記録だった。だが、その短さの中に、王都が抱えている詰まりがはっきりと表れていた。


「昨日より、お顔が落ち着いておられます」

半歩後ろに控えていたクラウスが、低い声で言った。


シャルロッテは羊皮紙から目を離さず、小さく首を振る。


「落ち着いているわけではありません。ただ、何を見るべきかを決めただけです」


昨日、彼女は人に本音を聞こうとして失敗した。


今日は違う。


誰が正しいかを裁くことでも、誰が忠臣かを見極めることでもない。

まず見るべきなのは、何が止まり、どこで滞っているのか。

そこを間違えれば、また昨日と同じ沈黙を招く。


シャルロッテは、胸元の内側にそっと指を添えた。衣の下には、小さな木札がある。


ロッテ、と歪な字で刻まれた札。


指先に硬い感触を確かめてから、彼女は羊皮紙をクラウスへ渡した。


「行きましょう」


「はい」


扉の向こうでは、王都に残った主だった貴族たちが待っている。



会議室には、前回とは違う張り詰めた空気が漂っていた。

場所は王城内の政務用会議室。

だが今日は、ただの意見交換では済まないことを、集まった者たちの多くが理解していた。


リヒテンブール公爵は、会議室の中央に近い席に腰を下ろしていた。

彼は、上座には座っていなかった。

それでも、貴族たちの視線は、自然と一度は彼の方へ向く。長く空いた王位の隙間で、実務を動かしてきた男だ。


オリヴィエが進み出る。


「本日の議題は、王位空白に伴う政務停止、ならびに今後の王国統治についてです」


その言葉に、数名の貴族がわずかに身じろぎした。


王位継承、とはまだ言わない。

部屋にいる者たちは皆、その先にある言葉を避けていた。


「まず、現在滞っている案件を確認いたします」


オリヴィエが合図をすると、書記官が羊皮紙の束を運び込んだ。

食糧や治安、衛生、修繕といった案件ごとの羊皮紙が会議室の机へ並べられていく。


リヒテンブール公爵は、その羊皮紙へ一瞥を向けただけで表情を変えなかった。


「王女殿下のご帰還は、王国にとって大きな慶事である」


公爵は、ゆっくりと口を開いた。

声は低く、よく通る。


「しかし、王位継承は拙速に進めるべきものではない。地方諸侯の意見も整えねばならぬ。各地の状況を確かめ、しかるべき準備を経るべきであろう」


筋は通っていた。


地方諸侯への配慮を求めるその主張は、表向きは慎重で穏当なものに聞こえる。王国の安定を思えば、拙速を戒める意見として受け取ることもできた。


実際、会議室にいる何人かは、ほとんど反射的に頷きかけていた。

けれど、その動きは前回ほど早くなかった。


シャルロッテは、それを見逃さなかった。


昨日なら、公爵の言葉に真っ先に同調したはずの子爵が、今日は視線を伏せている。

商会とつながりの深い男爵は、食糧について記された羊皮紙をじっと見ていた。

末席に近い若い代理人たちは、誰が先に口を開くかを探るように互いの顔を見ている。


リヒテンブール公爵は、わずかに目を細めた。


公爵の言葉が終わっても、以前のように賛同の声は続かなかった。頷く者はいても、誰もすぐには同調しない。


「拙速を避けるべきとのご意見は、もっともです」


シャルロッテは、すぐには切り込まなかった。


「ですが、その準備の間にも、止まっているものがあります」


彼女は、机の上の羊皮紙へ目を落とした。


「王都東区の共同倉庫。北門の治安隊。下町の排水路。どれも、判断が定まらないために止まっています」


「それらは実務上の混乱でありましょう」


公爵が応じる。


「内乱の後である以上、ある程度の遅れは避けられません」


「ええ。混乱はあると思います」


シャルロッテは頷いた。


「ですが、いくつかの書類には、公爵家の名代印が押されていました。その印があるものは、他の案件より早く動いています」


会議室の空気が、わずかに変わった。


リヒテンブール公爵の指先が、机の上で止まる。


「殿下。それは、王都が完全に止まらぬよう、やむなく行われた確認でございます」


公爵の側近が、慌てたように口を挟んだ。


「閣下の名代印があったからこそ、実務は辛うじて動いてまいりました。ですが、今後もそれを続けるとなれば、責任の所在が……」


そこまで言って、側近は口を閉じた。

言ってしまった、と気づいたのだろう。


公爵は側近へ視線を向けた。その視線だけで十分だった。

だが、言葉はもう会議室に落ちていた。


王命ではない印で、政務が動いていた。

そして、それを続けるには責任の置き場がない。


「責めるつもりはありません」


シャルロッテの声に、何人かが顔を上げる。


「王位が空いたままでは、誰かが代わりに印を押さなければ、民の暮らしが止まります。公爵家の印で動いた案件があるなら、それで助かった者もいたのでしょう」


リヒテンブール公爵の表情は動かない。

だが、会議室の端で、老伯爵がゆっくりと息を吐いた。


「ですが、その印は王命ではありません」


シャルロッテは続けた。


「動いた者も、止めた者も、最後に誰へ責任を返せばよいのか分からない。だから、倉庫は開かず、兵は動かず、水路は詰まったままになるのです」


誰もすぐには返さなかった。


シャルロッテは、前回の沈黙を思い出した。

あの時の沈黙は、彼女を拒む壁だった。

今の沈黙は、違う。

逃げ場を探す沈黙だ。


「王女殿下」


商会とつながりの深い男爵が、慎重に口を開いた。


「食糧倉庫については、開放が遅れれば下町の商いにも影響が出ます。王命として責任の所在が示されるのであれば、組合は動けましょう」


続いて、軍に近い伯爵が口を開いた。


「北門の治安隊も同じです。命令系統が一本になれば、兵は動きます。逆に、このままでは私兵が増えるだけです」


公爵は黙っていた。


以前なら、公爵の顔色を見て言葉を飲んだはずの者たちが、今日は一人ずつ口を開いていく。


熱烈な忠誠ではない。


むしろ、どの声にも疲れが混じっていた。

だが、それでも流れは変わり始めていた。


「王位継承を急ぐべきでないとの公爵閣下のご意見は、理解しております」


オリヴィエが、慎重に言葉を選んで場を整えた。


「しかし、王位空白による政務停止が、民の暮らしを直接損なっていることも事実です」


老伯爵が、ゆっくりと立ち上がった。


「私は、シャルロッテ王女殿下を、正統なる王位継承者として推挙いたします」


その声にはかすかな震えが混じっていた。

老いによるものだけではない。長く胸の内に抱えてきた思いを、ようやく口にした者の言葉だった。


それに続くように、別の貴族が席を立った。


「王位空白を終える必要があることに、異論はございません」


続いた中堅貴族の声は、熱のこもったものではなかった。

けれど、それでよかった。今必要なのは、熱狂ではない。

止まったものを動かすための責任の置き場だ。


シャルロッテは、彼らの言葉を聞きながら、机の上に置かれた羊皮紙を見た。


食糧管理、治安維持、衛生対策、水路や建物の修繕。


そこに並ぶ文字の向こうに、王都へ入る道で見た疲れた顔が浮かぶ。


「私は、王冠が欲しくて戻ったのではありません」


シャルロッテの声は、決して大きくはなかった。

それでも、会議室の奥まで届いた。


「戻れば何が待っているのかも、分かっていたとは言えません。昨日も、私は問い方を間違えました」


一瞬、オリヴィエが目を伏せた。


クラウスは何も言わず、彼女の半歩後ろに立っている。


「けれど、空白のままでは、誰も最後の責任を負えません」


シャルロッテは、リヒテンブール公爵ではなく、会議室にいる者たち全員を見た。


「その空白を終える役目が私にあるのなら、逃げません」


その言葉の後、会議室はしばらく静まり返っていた。

歓声が上がるわけでも、拍手が湧くわけでもない。

だが、やがて一人の貴族が静かに立ち上がり、恭しく頭を下げた。


それに続くように、また一人、さらにもう一人と、貴族たちは順に礼を示していった。


深く頭を垂れる者もいれば、最低限の礼だけを示す者もいる。

周囲の様子を確かめてから、遅れて頭を下げる者もいた。

それぞれの思惑は、隠しきれていない。


それでも、席を立ち、頭を下げた。


リヒテンブール公爵は、机の縁を指先で一度だけ叩いた。


乾いた音が、小さく響く。


いつもなら、その音だけで誰かが動いたのだろう。

だが、今日は誰も顔を上げなかった。


公爵は、長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。


「……王国の安定のためであれば、私も異を唱えるものではない」


それは祝福の言葉ではなかった。

かといって、敗北を認める降伏でもない。


ただ、これ以上ここで糸を引いても、もう誰も動かないと悟った者の声だった。


シャルロッテは、深く一礼した。


「これまで王都の実務を支えてくださったこと、感謝いたします」


公爵の眉が、わずかに動いた。


責められると思っていたのかもしれない。

あるいは、感謝されるとは思っていなかったのかもしれない。


「ただし、これからは王命として動かします」


シャルロッテは、まっすぐに言った。


「公爵家の印ではなく、王国の責任として」


リヒテンブール公爵は何も答えなかった。


ただ、ゆっくりと頭を下げた。



会議の終わりに、オリヴィエが議事録をまとめた。


「では、王位継承の儀について、日取りを定めます」


その言葉が出た瞬間、会議室の空気がもう一度変わった。


王位を誰に継がせるかという話ではない。

具体的な日付の話になったのだ。


書記官が候補日を読み上げ、老伯爵と数名の貴族が短く意見を交わす。


これ以上の混乱を避けるため、準備に長くはかけられない。

急ぐ必要はある。


だが、王位継承ともなれば、儀式を簡略化しても準備は必要だ。

主要諸侯への通達、官吏や証人の手配、王城の警備再編。

さらに、遠方から集まる者たちの移動時間も考慮しなければならなかった。


協議の結果、二十日後に執り行うことに決まった。


本来なら数か月かけてもおかしくないところを、できる限り切り詰めた結果の日程だった。


シャルロッテは、その日程を聞いても、すぐには現実味を感じられなかった。


まだ王冠を手にしたわけではない。

それでも、会議室にいる者たちの視線は、先ほどまでとは明らかに違っていた。


王女ではなく、次の王を見る目。

そこには、好意が、打算が、警戒が、期待が入り混じっていた。


会議が終わり、貴族たちが一人ずつ退出していく。


最後にリヒテンブール公爵が通り過ぎた時も、彼は足を止めなかった。

ただ、その横顔はどこか少し老け込んだように見えた。


シャルロッテは、胸元の内側に指を添えた。


衣の下には、ロッテと刻まれた木札がある。


王冠は、まだない。

けれど、その重さから逃げないと決めたのは、今だった。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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