第200話 王冠と切れた糸
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翌朝。
シャルロッテは、会議室へ向かう前に、控えの間で一枚の羊皮紙を見ていた。
記録室でまとめ直させた、未決案件の一覧だ。
食糧管理、治安維持、衛生対策、水路や建物の修繕。
それぞれの項目の横には、止まっている理由が短く書き添えられている。
倉庫の開放は、許可を出す者が定まらない。
北門の治安隊は、命令系統が二つに分かれている。
下町の水路修繕は、貴族街の工事に職人を取られている。
どれも、余計な言葉を削ぎ落とした短い記録だった。だが、その短さの中に、王都が抱えている詰まりがはっきりと表れていた。
「昨日より、お顔が落ち着いておられます」
半歩後ろに控えていたクラウスが、低い声で言った。
シャルロッテは羊皮紙から目を離さず、小さく首を振る。
「落ち着いているわけではありません。ただ、何を見るべきかを決めただけです」
昨日、彼女は人に本音を聞こうとして失敗した。
今日は違う。
誰が正しいかを裁くことでも、誰が忠臣かを見極めることでもない。
まず見るべきなのは、何が止まり、どこで滞っているのか。
そこを間違えれば、また昨日と同じ沈黙を招く。
シャルロッテは、胸元の内側にそっと指を添えた。衣の下には、小さな木札がある。
ロッテ、と歪な字で刻まれた札。
指先に硬い感触を確かめてから、彼女は羊皮紙をクラウスへ渡した。
「行きましょう」
「はい」
扉の向こうでは、王都に残った主だった貴族たちが待っている。
◇
会議室には、前回とは違う張り詰めた空気が漂っていた。
場所は王城内の政務用会議室。
だが今日は、ただの意見交換では済まないことを、集まった者たちの多くが理解していた。
リヒテンブール公爵は、会議室の中央に近い席に腰を下ろしていた。
彼は、上座には座っていなかった。
それでも、貴族たちの視線は、自然と一度は彼の方へ向く。長く空いた王位の隙間で、実務を動かしてきた男だ。
オリヴィエが進み出る。
「本日の議題は、王位空白に伴う政務停止、ならびに今後の王国統治についてです」
その言葉に、数名の貴族がわずかに身じろぎした。
王位継承、とはまだ言わない。
部屋にいる者たちは皆、その先にある言葉を避けていた。
「まず、現在滞っている案件を確認いたします」
オリヴィエが合図をすると、書記官が羊皮紙の束を運び込んだ。
食糧や治安、衛生、修繕といった案件ごとの羊皮紙が会議室の机へ並べられていく。
リヒテンブール公爵は、その羊皮紙へ一瞥を向けただけで表情を変えなかった。
「王女殿下のご帰還は、王国にとって大きな慶事である」
公爵は、ゆっくりと口を開いた。
声は低く、よく通る。
「しかし、王位継承は拙速に進めるべきものではない。地方諸侯の意見も整えねばならぬ。各地の状況を確かめ、しかるべき準備を経るべきであろう」
筋は通っていた。
地方諸侯への配慮を求めるその主張は、表向きは慎重で穏当なものに聞こえる。王国の安定を思えば、拙速を戒める意見として受け取ることもできた。
実際、会議室にいる何人かは、ほとんど反射的に頷きかけていた。
けれど、その動きは前回ほど早くなかった。
シャルロッテは、それを見逃さなかった。
昨日なら、公爵の言葉に真っ先に同調したはずの子爵が、今日は視線を伏せている。
商会とつながりの深い男爵は、食糧について記された羊皮紙をじっと見ていた。
末席に近い若い代理人たちは、誰が先に口を開くかを探るように互いの顔を見ている。
リヒテンブール公爵は、わずかに目を細めた。
公爵の言葉が終わっても、以前のように賛同の声は続かなかった。頷く者はいても、誰もすぐには同調しない。
「拙速を避けるべきとのご意見は、もっともです」
シャルロッテは、すぐには切り込まなかった。
「ですが、その準備の間にも、止まっているものがあります」
彼女は、机の上の羊皮紙へ目を落とした。
「王都東区の共同倉庫。北門の治安隊。下町の排水路。どれも、判断が定まらないために止まっています」
「それらは実務上の混乱でありましょう」
公爵が応じる。
「内乱の後である以上、ある程度の遅れは避けられません」
「ええ。混乱はあると思います」
シャルロッテは頷いた。
「ですが、いくつかの書類には、公爵家の名代印が押されていました。その印があるものは、他の案件より早く動いています」
会議室の空気が、わずかに変わった。
リヒテンブール公爵の指先が、机の上で止まる。
「殿下。それは、王都が完全に止まらぬよう、やむなく行われた確認でございます」
公爵の側近が、慌てたように口を挟んだ。
「閣下の名代印があったからこそ、実務は辛うじて動いてまいりました。ですが、今後もそれを続けるとなれば、責任の所在が……」
そこまで言って、側近は口を閉じた。
言ってしまった、と気づいたのだろう。
公爵は側近へ視線を向けた。その視線だけで十分だった。
だが、言葉はもう会議室に落ちていた。
王命ではない印で、政務が動いていた。
そして、それを続けるには責任の置き場がない。
「責めるつもりはありません」
シャルロッテの声に、何人かが顔を上げる。
「王位が空いたままでは、誰かが代わりに印を押さなければ、民の暮らしが止まります。公爵家の印で動いた案件があるなら、それで助かった者もいたのでしょう」
リヒテンブール公爵の表情は動かない。
だが、会議室の端で、老伯爵がゆっくりと息を吐いた。
「ですが、その印は王命ではありません」
シャルロッテは続けた。
「動いた者も、止めた者も、最後に誰へ責任を返せばよいのか分からない。だから、倉庫は開かず、兵は動かず、水路は詰まったままになるのです」
誰もすぐには返さなかった。
シャルロッテは、前回の沈黙を思い出した。
あの時の沈黙は、彼女を拒む壁だった。
今の沈黙は、違う。
逃げ場を探す沈黙だ。
「王女殿下」
商会とつながりの深い男爵が、慎重に口を開いた。
「食糧倉庫については、開放が遅れれば下町の商いにも影響が出ます。王命として責任の所在が示されるのであれば、組合は動けましょう」
続いて、軍に近い伯爵が口を開いた。
「北門の治安隊も同じです。命令系統が一本になれば、兵は動きます。逆に、このままでは私兵が増えるだけです」
公爵は黙っていた。
以前なら、公爵の顔色を見て言葉を飲んだはずの者たちが、今日は一人ずつ口を開いていく。
熱烈な忠誠ではない。
むしろ、どの声にも疲れが混じっていた。
だが、それでも流れは変わり始めていた。
「王位継承を急ぐべきでないとの公爵閣下のご意見は、理解しております」
オリヴィエが、慎重に言葉を選んで場を整えた。
「しかし、王位空白による政務停止が、民の暮らしを直接損なっていることも事実です」
老伯爵が、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、シャルロッテ王女殿下を、正統なる王位継承者として推挙いたします」
その声にはかすかな震えが混じっていた。
老いによるものだけではない。長く胸の内に抱えてきた思いを、ようやく口にした者の言葉だった。
それに続くように、別の貴族が席を立った。
「王位空白を終える必要があることに、異論はございません」
続いた中堅貴族の声は、熱のこもったものではなかった。
けれど、それでよかった。今必要なのは、熱狂ではない。
止まったものを動かすための責任の置き場だ。
シャルロッテは、彼らの言葉を聞きながら、机の上に置かれた羊皮紙を見た。
食糧管理、治安維持、衛生対策、水路や建物の修繕。
そこに並ぶ文字の向こうに、王都へ入る道で見た疲れた顔が浮かぶ。
「私は、王冠が欲しくて戻ったのではありません」
シャルロッテの声は、決して大きくはなかった。
それでも、会議室の奥まで届いた。
「戻れば何が待っているのかも、分かっていたとは言えません。昨日も、私は問い方を間違えました」
一瞬、オリヴィエが目を伏せた。
クラウスは何も言わず、彼女の半歩後ろに立っている。
「けれど、空白のままでは、誰も最後の責任を負えません」
シャルロッテは、リヒテンブール公爵ではなく、会議室にいる者たち全員を見た。
「その空白を終える役目が私にあるのなら、逃げません」
その言葉の後、会議室はしばらく静まり返っていた。
歓声が上がるわけでも、拍手が湧くわけでもない。
だが、やがて一人の貴族が静かに立ち上がり、恭しく頭を下げた。
それに続くように、また一人、さらにもう一人と、貴族たちは順に礼を示していった。
深く頭を垂れる者もいれば、最低限の礼だけを示す者もいる。
周囲の様子を確かめてから、遅れて頭を下げる者もいた。
それぞれの思惑は、隠しきれていない。
それでも、席を立ち、頭を下げた。
リヒテンブール公爵は、机の縁を指先で一度だけ叩いた。
乾いた音が、小さく響く。
いつもなら、その音だけで誰かが動いたのだろう。
だが、今日は誰も顔を上げなかった。
公爵は、長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。
「……王国の安定のためであれば、私も異を唱えるものではない」
それは祝福の言葉ではなかった。
かといって、敗北を認める降伏でもない。
ただ、これ以上ここで糸を引いても、もう誰も動かないと悟った者の声だった。
シャルロッテは、深く一礼した。
「これまで王都の実務を支えてくださったこと、感謝いたします」
公爵の眉が、わずかに動いた。
責められると思っていたのかもしれない。
あるいは、感謝されるとは思っていなかったのかもしれない。
「ただし、これからは王命として動かします」
シャルロッテは、まっすぐに言った。
「公爵家の印ではなく、王国の責任として」
リヒテンブール公爵は何も答えなかった。
ただ、ゆっくりと頭を下げた。
◇
会議の終わりに、オリヴィエが議事録をまとめた。
「では、王位継承の儀について、日取りを定めます」
その言葉が出た瞬間、会議室の空気がもう一度変わった。
王位を誰に継がせるかという話ではない。
具体的な日付の話になったのだ。
書記官が候補日を読み上げ、老伯爵と数名の貴族が短く意見を交わす。
これ以上の混乱を避けるため、準備に長くはかけられない。
急ぐ必要はある。
だが、王位継承ともなれば、儀式を簡略化しても準備は必要だ。
主要諸侯への通達、官吏や証人の手配、王城の警備再編。
さらに、遠方から集まる者たちの移動時間も考慮しなければならなかった。
協議の結果、二十日後に執り行うことに決まった。
本来なら数か月かけてもおかしくないところを、できる限り切り詰めた結果の日程だった。
シャルロッテは、その日程を聞いても、すぐには現実味を感じられなかった。
まだ王冠を手にしたわけではない。
それでも、会議室にいる者たちの視線は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
王女ではなく、次の王を見る目。
そこには、好意が、打算が、警戒が、期待が入り混じっていた。
会議が終わり、貴族たちが一人ずつ退出していく。
最後にリヒテンブール公爵が通り過ぎた時も、彼は足を止めなかった。
ただ、その横顔はどこか少し老け込んだように見えた。
シャルロッテは、胸元の内側に指を添えた。
衣の下には、ロッテと刻まれた木札がある。
王冠は、まだない。
けれど、その重さから逃げないと決めたのは、今だった。
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