第199話 封書と選択
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その日の暮れ。
迎賓館の執務室に戻ると、ギードが一通の書状を差し出した。
送り主の名は書かれていない。だが、重厚な羊皮紙の封を閉じる赤い封蝋には、見間違うはずのない紋章が深く刻み込まれていた。
「……帝国の正式な封蝋ですね。宛名は、私のようです」
隣にいたカインが、すっと顔つきを改めた。
俺は椅子の背にもたれたまま、その封書をちらりと見た。
「なら、お前のものだ」
「ここで開けてもよろしいでしょうか」
「お前宛だ。好きにしろ」
カインは「では、失礼します」と一礼し、慎重に封を切った。
エレノアとギードも、少し離れた席でその様子を見ている。
カインは書面に目を通し、しばらく黙った。
「読み上げます」
そう断ってから、カインは静かに書状の文面を読み始めた。
「皇帝ヴァレリアン陛下の名において、賢者カイン・フォン・ローゼンベルクに一時帰還を命ずる。ウルム村における技術進展、王国情勢、並びに協定運用について、速やかに報告せよ……とのことです」
簡潔にして要を得た、いかにもあの皇帝らしい命令書だった。
「今回は、わたくしの名はありませんのね」
エレノアが少しだけほっとしたように確認する。
「はい。今回の報告対象は、制度と技術、そして王国の情勢に絞られているようです。聖女としてのあなたを呼び戻す意図はないかと」
「まあ、妥当だな。知識の匂いを嗅ぎに来る。いつものことだ」
俺は軽く肩をすくめた。
カインは、書状を丁寧に折りたたみ、静かに顔を上げた。
「帝国の賢者として、帰還命令に異存はありません」
その声は落ち着いていた。
彼はこの村の実務を支えている。
だが、帝国の賢者であることに変わりはない。
「ですが」
カインは、俺の目を見てまっすぐに続けた。
「すぐに支度を始める前に、考える時間をいただけますか」
「帰るかどうかをか?」
「いいえ。何を持って戻るべきか、です」
その言葉に、俺は小さく笑った。
「まぁ、帰るのは当然だ。お前は帝国の賢者だからな」
カインは一瞬だけ目を伏せ、「……はい」と小さく頷いた。
「俺が口を出せるのは、お前が何を持ち帰るかまでだ。だから、そこは口を出させてもらうぞ」
「お願いいたします」
「そうだな……、完成品は持って帰るな。考え方を持って帰れ」
「反射炉についても、ですか」
「特に反射炉だ」
俺はきっぱりと言い切った。
「完成図面や、うちの炉の寸法、魔導補助術式の組み方なんざ、そのまま持って行っても意味がない。形だけ真似させるな。帝国の職人が、自分たちの材料で小さく試せるようにしろ」
カインは、手帳へ一言だけ書きつけた。
「概念と試験手順、そして失敗記録」
「そうだ。炉は火を強くする道具じゃない。熱の逃げ方を減らし、集め方を考える道具だ」
「……承知いたしました」
「それから」
俺は、昼間キドが扱っていた木札のことを思い出しながら付け加えた。
「問い札そのものは持っていくなよ。あれは、ここの子供たちのものだ」
「もちろんです。持っていくなら、札ではなく仕組みの方です。問いを書き、分け、調べ、残す。その一連の流れを記録としてまとめます」
カインは、すぐに頷いた。
以前なら、完成品の写しを求めたかもしれない。だが今は、そこにこだわらなかった。
◇
「しかし、カイン殿が抜けるとなると、村の記録や学び舎の運用に少し穴が空くのう」
ギードが、白髭を撫でながら現実的な問題を口にした。
「そうですね。問い札の分類も、学び舎の記録も、まだ始まったばかりです……」
「始まったばかりだからこそ、誰かに任せるってのも手だぞ」
俺は、そこで口を挟んだ。
「お前がいないと止まるような仕組みなら、それは最初から作り直しだ。問い札はキドに、記録様式はリュックに、衛生管理はエレノアに任せろ。全体はギードが判断する」
「ですが、まだ彼らには……」
「分厚い引き継ぎ書は読まれんぞ。残すなら、紙一枚にしろ」
俺の言葉に、カインは数秒だけ沈黙し、やがて小さく息を吐いた。
「……分かりました。一枚にまとめます」
「また、誰かが行ってしまうのですね」
エレノアが、少し寂しそうに呟いた。だが、すぐにいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「今度は、皇帝陛下を連れて帰ってこないでくださいましね」
「本当にやめろ。俺の昼寝の時間が消滅する」
俺が即座に返すと、部屋の中に小さな笑いが起きた。
◇
翌日の午後。
出立の準備を進めるカインの元へ、キドが小走りでやってきた。
「カイン様、帝国へ戻るのか」
「一時的にです」
カインは、荷造りの手を止めずに答えた。
「じゃあ、問い札はどうすんだよ。俺、答えなんて知らねえぞ」
「答えなくてよいのです。なくさず、分けて、残してください」
カインは手を止め、キドの方へ向き直った。
キドは少しの間黙ってから、不思議そうに尋ねた。
「帝国でも、こういう札を作るのか」
その素朴な問いに、カインは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……分かりません」
「賢者なのに?」
「賢者でも、見ていないものは分かりません」
口にしてから、カインは少しだけ目を伏せた。
以前なら、きっと別の言い方を探していた。
「ですから……見てきます。帝国にも、問いを残せる場所があるのかどうか」
帝国へ戻る。それは命令だ。
だが、彼が帝国で何を成すべきかは、彼自身がこの村で見つけたものだった。
「木札は置いてくんだな」
「もちろんです。これは、ここの子供たちのものですから」
カインがはっきりと答えると、キドはほっとしたように頷き、問い札の板の方へ戻っていった。
◇
その夜。
カインは一人、自室の机に向かい、帝国へ持ち帰る資料を選んでいた。
彼は、精緻に描かれた反射炉の完成図面を一度広げ、すぐに丁寧に畳み直して引き出しの奥へしまった。
ウルム村の防衛結界の詳細と、リナに触れた記録は、最初から鞄に入れなかった。
代わりに机の上に残されたのは、小型炉の試験手順書、炉材が熱で割れた時の失敗記録、燃料消費の比較表。そして、学び舎で使い始めた『問い札』の運用様式と、欠席者向けの簡単な記録フォーマットを書き写した一枚の羊皮紙だった。
カインは、それらの書類をまとめ、革の鞄へと静かに収めた。
その夜、賢者の荷物は、いつもより少しだけ重くなった。
だが、その重さのほとんどは、貴重な魔導具でも完成された図面でもなく、失敗と試行錯誤の跡を記した紙の束だった。
その紙の束を、帝都がどう受け止めるのか。
それはまだ、カインにも分からなかった。
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