第196話 記録室と詰まり
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翌朝。
シャルロッテは、自室を出る前に中庭へと足を向けた。
冬枯れの木の枝先に、昨夜見た一枚の若葉が、まだ落ちずに残っていた。
昨夜のことは、夢ではなかった。
それだけを確かめると、シャルロッテは踵を返した。
回廊に出ると、すでに準備を整えたクラウスが静かに控えていた。
「記録室の者には、殿下が閲覧を望まれているとだけ伝えてあります」
クラウスが、周囲を確認してから声を落とした。
「分かりました。まずは、見に行きます」
シャルロッテは短く答えた。
昨日は、言葉を求めて失敗した。
今日は、書類を見る。
誰が何を止めているのか。
そこに、言葉にならなかった理由が残っているはずだった。
◇
記録室は、王城の奥まった一角にあった。
天井は低く、小さな窓から入る光だけでは、部屋の奥まで届かない。部屋の中には、古い紙と乾いたインクの匂いがこもっていた。
壁際に並ぶ巨大な棚には、紐で縛られた羊皮紙の束が隙間なく詰め込まれており、入りきらなかった木箱が廊下にまではみ出していた。
机に向かっていた書記官たちは、シャルロッテの姿に気づくと、慌てて手を止めた。
立ち上がる動きは揃っていたが、皆、目の下に濃い隈を浮かべている。
紙をめくる音と羽ペンの乾いた音が、そこで一斉に途切れた。
「どうか、そのまま作業を続けてください」
シャルロッテがそう告げると、書記官たちは戸惑いながらも、再び机へ向かった。
止まっていた羽ペンの音が、少しずつ戻ってくる。
部屋を見渡すと、思っていたよりもはるかに多くの書類が残っていた。
問題は、それだけの書類が作られながら、王都の現状が何も改善されていないことだった。
「王女殿下を、このような埃っぽい場所へお通しすることになるとは……」
記録室長のマルセルが、深く頭を下げながら恐縮したように言った。
初老の男で、上着の袖口まできちんと整えている。
彼は書類の山を一度だけ見て、すぐに目を伏せた。
「取り繕われた場所を見に来たのではありません」
シャルロッテは、積まれた木箱の一つを見つめながら言った。
「どの記録をお求めでしょうか。税の徴収記録、あるいは軍の配置図でしょうか」
「止まっているものを見せてください」
その一言に、マルセルは一瞬、言葉を失った。
それから、机の奥に積まれた書類の束へ目を向ける。
「……承知いたしました。こちらへ」
◇
マルセルに案内された奥の机には、処理されないまま積み上げられた未決の書類が山になっていた。
シャルロッテは、その中から具体的な案件を三つ、抜き出して説明を求めた。
一つ目は、王都東区にある共同倉庫の開放申請だった。
「この倉庫には、まだ麦が残っているのですね」
書類の日付と備蓄量を確認しながら、シャルロッテが問う。
「はい。十分な量とは言えませんが、数日分はしのげるはずです」
マルセルが答える。
「倉庫の鍵も、あるのですね」
「はい」
「では、なぜ出ないのですか」
マルセルは、気まずそうに目を伏せた。
「倉庫の名義は、旧王家の財務官のままとなっております。あの地区の治安管理は現在、軍の残党が担っておりまして、配給の実務は市中の組合が……。それだけでも既に複雑なのですが、最近になりまして、ある貴族家の監査印が途中から必要とされるようになりまして。結果といたしましては……誰の許可で鍵を開けるのか、誰が責任を持つのかが、その、定まっておらず——誰も、手が出せない状況でございます」
開けた者が、後で責任を問われる。
だから、誰も開けない。
二つ目は、北門付近での治安隊の出動命令書だった。
「略奪騒ぎの報告に対し、出動要請は出ています。ですが、命令書が二種類あるのです」
マルセルの横で、若い書記官のニコラが、二枚の羊皮紙を並べて説明した。
「一つは文官側からの治安維持命令。もう一つは、軍の残党側からの巡回命令です。どちらも正式な書式と印が使われています。ですが、それぞれで向かうべき場所の優先順位が違うのです」
「……現場の兵士は、どちらかを選べば、もう一方の命令違反として責められるわけですね」
シャルロッテが呟くと、ニコラは無念そうに頷いた。
「はい。ですから、兵士は動けません。結局、周辺の貴族が雇った私兵だけが勝手に動き、かえって混乱を招いています」
三つ目は、下町の排水路の修繕申請だった。
「下町の水路が詰まっているという申請は、八日前から出ています」
シャルロッテは、ウルム村でのエレノアの言葉を思い出しながら、その書類に目を落とした。
「職人はいる。材料も最低限はある。では、なぜ止まっているのですか」
「同じ工事班に、貴族街の噴水修繕が割り込んでいるからです」
ニコラが、別の書類を重ねて示した。
「貴族街の申請には、有力な貴族家の確認印があります。下町の申請は『治安上の優先確認中』という理由で、ずっと保留にされたままです」
「八日も水が淀んでいれば、病人が出ます」
シャルロッテの鋭い指摘に、ニコラは小さく頷いた。
「はい。確かに病人は増えています。ですが……医師を回すための申請も、別の棚で止まっています」
一つ止まると、別の棚の書類まで止まる。
その間にも、下町の水は淀んだままだ。
◇
シャルロッテは、山積みの書類からゆっくりと顔を上げた。
何がないのではない。ありすぎるのだ。
各部署からの印も、様々な立場の者からの命令も、それぞれの言い分も。
けれど、最後に引き受ける者の名だけがない。
「あなたは、この状況をどう見ていますか」
シャルロッテは、記録室の隅で、ニコラに向かって静かに尋ねた。
大勢の貴族がいる会議室ではない。ここにいるのは、実務官と、シャルロッテ、クラウス、オリヴィエだけだった。
ニコラはすぐには答えず、おずおずと室長のマルセルを見た。
マルセルは止めなかった。クラウスも急かすことなく、ただ静かに立っている。
「……誰も、間違えた人間になりたくないのです」
ニコラは、絞り出すように本音をこぼした。
「倉庫を開けて配給が足りなくなれば、開けた者の責任になります。兵を出して死人が出れば、出動させた者の責任です。下町の水路を直して、貴族街の工事が遅れれば、判断した者の責任です」
「だから、止まる」
「はい。……止めている方が、誰からも責められにくいのです」
シャルロッテは、昨日の会議室を思い出した。
立派な言葉は、いくつもあった。
だが、誰も自分の名で何かを動かそうとはしなかった。
◇
シャルロッテは、小さく息を吐いた。
今すぐすべての倉庫を開けろと命令することは簡単だ。だが、それではただ別の混乱を生むだけだ。
「マルセル室長」
シャルロッテは、記録室長に向き直った。
「未決の書類を、種類ごとに分けてください」
「種類ごと、でございますか」
マルセルが目を瞬かせる。
「食糧、治安、衛生、修繕。まずはその四つに」
昨夜のリナの言葉が、ふと頭をよぎった。
「そして、それぞれに、止まっている理由を一行で添えてください。誰が悪いか、誰の責任かではなく、ただ、どこで、何が足りなくて止まっているかだけを書いてください」
誰かを責めるためではない。
どこで止まっているのかを、見えるようにするためだ。
その指示を聞いて、ニコラが初めて顔を上げた。
「……それなら、書けます」
ニコラは、初めて書類の山をまっすぐ見た。
書ける形があれば、手は動く。
「では、さっそく取り掛かります」
ニコラが書類の山に手を伸ばし、古い木箱の底から、紐でくくられた薄い束を引き出した時だった。
「あれ……? これは、ここに入れた覚えがありません」
彼が首を傾げて取り出したのは、薄い皮装丁の帳簿だった。
他の書類より、埃が少ない。つい最近、誰かが触れたように見えた。
シャルロッテがその帳簿を受け取り、ページを開く。
そこには、食糧倉庫の管理や修繕の優先順位に関する、様々な部署間の照会記録が記されていた。
そして、その端には、ある一つの印がいくつも押されている。
「これは、正式な命令書ではないのですね」
シャルロッテは、横に立つオリヴィエに帳簿を示した。
「はい。形式上は、ただの照会や確認の記録です。命令ではありません」
オリヴィエが答える。
「ですが、この印がある書類だけ、他のものより早く動いている」
シャルロッテは、帳簿の端に押された小さな印を見つめた。
王命ではない。正式な命令でもない。それでも、その印があるだけで、誰もがその意向をくみ、物事を動かしている。
あるいは、この印がないから、他のすべてが止まっている。
「……この印は」
オリヴィエが、わずかに声を落とした。
「リヒテンブール公爵家の名代印です」
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