第195話 若葉と助言
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中庭の隅に、冬枯れした小さな木が立っていた。
その枝先が、風もないのに小さく揺れた。
シャルロッテは、胸元の木札を強く握りしめたまま、その枝を見つめた。
「……疲れているのかしら」
シャルロッテが目を伏せようとした時、細く乾いた枝の先に、鮮やかな若葉が一枚だけ開いた。
そこだけ、春が来たようだった。
その若葉の陰から、見覚えのある小さな顔がひょいと覗いた。
「……ロッテ?」
王城の中で、誰も呼ぶはずのないその名前。
聞き覚えのある軽い声に、シャルロッテは弾かれたように顔を上げた。
「リナちゃん……?」
「うん。来た」
枝の上にふわりと降り立ったのは、リナだった。
いつも通りの声だった。
けれど、頬の色は少し薄く、枝の上で足元がわずかに揺れている。
「どうして、ここに」
シャルロッテが駆け寄ろうとした時、背後からかすかな衣擦れの音がした。
「リナ様……なぜ、こちらに」
いつの間にか中庭に出てきていたクラウスが、鋭い視線を枝の上に向けていた。
クラウスの右手が、腰の剣へわずかに動いたが、リナの顔を見て、そのまま止まった。
シャルロッテが事情を説明しようとするより早く、クラウスは素早く周囲の気配を探り、声を潜めて言った。
「ここはウルム村ではありません。王城の敷地内でそのお姿を見られれば、殿下にいらぬ疑いや危険が向きます」
ウルム村なら、リナは子供たちに囲まれて笑っていられた。
だが、ここは王城だ。見られれば、面倒な噂になる。
「クラウス、ぴりぴりしてる」
リナが、枝の上から足をぶらぶらと揺らしながら言った。
「ぴりぴりもいたします。ここは、そういう場所ですので」
クラウスが至って真剣に返すと、張り詰めていた空気が少しだけやわらいだ。
◇
クラウスが周囲の警戒を続け、三人は中庭の木の陰へと身を寄せた。
リナは枝のすぐそばの石積みに腰掛け、シャルロッテを見上げている。
「ロッテ、元気ないね」
そのストレートな言葉に、シャルロッテは苦笑を漏らした。
最初は何から話せばいいのか分からなかった。だが、ウルムの空気そのものを纏っているようなリナの顔を見ているうちに、心の奥でつっかえていたものが自然と口をついて出た。
「……聞いたのです」
シャルロッテは、自分の手をそっと重ね合わせて言った。
「今、この国に何が必要なのか、と。そうすれば、皆さんがそれぞれの思いを話してくれると思っていました。でも……誰も、本当のことを言ってくれませんでした」
リナは、少しだけ難しい顔をして首を傾げた。
「本当のことを言うと、困るの?」
シャルロッテは、一瞬言葉を失った。
「困る……そうですね。たぶん、とても困るのです」
シャルロッテは、オリヴィエが廊下で語った言葉を自分の中で反芻した。
「あのような大勢がいる場で答えてしまえば、その人の立場が、そこで決まってしまうから」
「ふぅん」
リナは分かったような、分からないような顔をして、足をパタパタと揺らした。
「家主様、よく言ってるよ」
リナの口から出たその名前に、シャルロッテは思わず顔を上げた。
「いっぺんに流すと、詰まるって」
「詰まる……?」
「水も、人も。いっぺんに同じところへ行かせようとすると、どこかで絶対詰まるんだって。だから、分けるんだって」
いっぺんに流せば詰まる。
だから、分ける。
いかにもアシュラン様らしい言葉だった。
「みんなの前で聞いたら、みんな困るんじゃない?」
リナが、当たり前のことのように言った。
「本当のことを言った人だけ、みんなに見られるから」
シャルロッテは、リナの言葉を胸の中で何度も繰り返した。
(……私は、本音を聞こうとした。けれど)
本音を言える場所を作っていなかった。
ウルム村で人々が答えてくれたのは、ただ素直だったからではない。
戻る、残る、未定。どれを選んでも、その場で責められることはなかった。
だから、言葉にできたのだ。
「私は、ただ聞けばよいのだと思っていました」
言葉にして、ようやく分かった。
「でも、答えられる場所を作っていませんでした。全員の前で、いきなり本音を求めたのですから……詰まって当然です」
「うん。たぶん、それ」
リナは、シャルロッテの顔を見て、満足そうにこくりと頷いた。
◇
失敗の理由が分かれば、次にやるべきことは変わる。
シャルロッテは、冷たい夜気を深く吸い込んだ。
いきなり貴族たちを説得して回っても、きっとうまくいかない。
本音を言えない彼らの言葉を待つより、彼らが何を止めているのかを探るべきだ。
「まず、記録を見ます」
シャルロッテはクラウスへ向き直った。
「誰が何を動かし、どこで止まっているのか。治安、食糧、物資。言葉にならない本音も、物資や決済の詰まりには現れているはずです」
クラウスは、しばらくシャルロッテを見つめ、それから深く頭を下げた。
「では、明日は貴族ではなく、書記官から始めますか」
「お願いします」
沈黙が怖くなくなったわけではない。
けれど、次に見るべき場所だけは分かった。
「そろそろ帰る。遠いと眠くなる」
リナが、大きな欠伸をして目をこすった。
「大丈夫なのですか」
シャルロッテが心配そうに身をかがめる。
「帰ったら、家主様の木のそばで寝る」
リナはふにゃっと笑い、立ち上がった。
「このことは、伏せておくべきかと」
クラウスが、周囲を再び警戒しながら言った。
「ええ。今は、まだ」
シャルロッテも頷く。リナの存在が王都で知られれば、無用な混乱を招く。
「じゃあね、ロッテ。またね」
リナの小さな姿が、ふっと薄れて消えた。
あとに残されたのは、冷たい風の吹く静かな中庭だけだ。
「クラウス」
「はい」
「明日の朝、記録室へ案内してください」
クラウスは一瞬だけ目を細め、それから深く頭を下げた。
「承知いたしました」
シャルロッテは、中庭の小さな木を見た。
枝先には、先ほどまでなかった若葉が一枚だけ残っている。
冬の王城で、その若葉だけが青かった。
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