第193話 始業と若葉
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朝の柔らかな光が、空き地に建てられた仮学舎の壁を明るく染めていた。
「子供を集めるだけで、朝からこんなに騒がしくなるとは思わなかったな」
少し離れた場所からその光景を眺めながら、俺は思わずぼやいた。
入り口前には、もともとウルム村にいた子供たちや、王都から避難してきた子供たちが保護者と共に集まっている。
早く来すぎて広場を走り回る子、母親の服の袖を固く握りしめて離れない子、新しい建物に目を輝かせる子など様々だ。
文字を学ぶということがどういうことか、まだよく分かっていない様子の子供も多い。むしろ、子供より親の方がよほど緊張して見えた。
入り口の扉が開き、キドが名簿を片手に顔を出した。
「順番に並んでくれ。自分の名前を言ってから中に入るんだ」
キドは、集まってきた子供たちを順に中へ通していく。
彼の手元には、昨日自分が並べ終えた席札の配置図があった。
「お前はこっち。同じ名前のやつがいるから、親父さんの名前も言ってくれ」
「泣いててもいいけど、席はこっちだ。案内するからついてこい」
キドが、自分より小さな子の手を取って席まで連れていく。少し前なら、考えられなかった光景だった。
◇
子供たちがなんとか机につき、室内がざわめきで満たされる中、ギードがゆっくりと教壇の前に立った。
ギードが杖の先で床を一度鳴らす。子供たちの声が、そこで一気にしぼんだ。
「ここは、誰かに物事を教え込まれる場所ではない」
ギードは、緊張して強張る子供たちの顔をゆっくりと見渡した。
「お前たち自身が、自分で自分の人生を選べるようになるための場所じゃ」
ギードはそれだけ言って、一歩下がった。
続いて、俺が横から口を開く。
「分からない時は、分かったふりをするな」
子供たちが目を丸くしてこちらを見る。
「分からないと言えれば、次に進める。黙って頷くと、あとで面倒になる。……それだけ覚えれば、今日は十分だ」
俺が喋り終えると、カインが進み出た。
「では、始めます。まずは、手元にある石板に自分の名前を書いてみましょう」
カインは黒板代わりに用意された大きな板に、手本となる文字を書き始めた。
「まず、自分の名前です。書けるようになれば、名前を聞かれた時、自分で示せます」
子供たちが、おそるおそる石筆を握る。すぐに見よう見まねで書けて誇らしげな子もいれば、手の動かし方が分からずに焦る子もいる。
カインなら、最初から形を正しく書かせようとするかと思っていた。口を挟むつもりで見ていたが、彼は急がなかった。
書けない子の横に立ち、まずは手本をなぞらせる。
(……カインのやつ、今日は意外と急がないな)
◇
一方で、教室へ入れずにいる子供もいた。
入り口の扉の外で、母親のスカートの陰から出られず、ぐずって泣き出してしまった避難民の幼い少女だ。
エレノアがそっと近づき、少女の目の高さに合わせてしゃがみ込んだ。
「最初から立派に座れなくても構いませんわ」
エレノアは、少女の頭を優しく撫でた。
「今日は、お部屋の中を見られたら、それだけで十分です。少し向こうで、お茶でも飲みましょうか」
エレノアは、教室の隅に用意しておいた長椅子と毛布のスペースへ、親子の手を引いて案内した。
昨日用意しておいた長椅子と毛布が、さっそく役に立った。学校は、字や数だけを教える場所ではない。自分の得意も苦手も知って、少しずつできることを増やしていく。そちらの方が大事だ。
そして、安心して来られる場所でなければならない。
少なくとも、ウルムで作るならそういう場所にしたかった。
◇
最初の時間が終わり、短い休憩に入ると、緊張から解放された子供たちが一斉に外の広場へと飛び出していった。
その時、仮学舎のすぐ横にある聖樹の太い枝から、ひょいと小さな顔が覗いた。
「あ、リナだ!」
子供の一人が指を差す。
リナは枝の上から器用に飛び降り、ふわりと着地した。
「みんないっぱい集まってる。何してるの?」
「学校だよ! 字を書くんだ」
「あの子も学校に来るの?」
避難民の子供たちが、不思議そうにリナを囲む。
「私?」
リナは小さな胸を張って、得意げに言った。
「木のことなら、教えられるよ!」
「木のこと? リナはどんなことができるの?」
子供の一人が尋ねると、リナは少し首を傾げて考えた。
「う〜ん。なんだろう? あ! 知ってる気配の人の近くなら、行けることがあるよ?」
「……じゃあ、ロッテのところにもすぐに行けるのか?」
子供たちの輪の少し外側から、キドがふと尋ねた。
キドの視線が、ほんの一瞬だけ王都のある西へ流れた。
その問いに、リナは少しだけ考える仕草をした。
「近くに木があって、知ってる気配なら、少しだけ」
近くにいた大人たちの手が、そこで止まった。
「……少しだけ、とはどの程度ですか」
一番に反応したのは、カインだった。
「遠いとすごく疲れる。長くいるのも無理」
リナはあっけらかんと答える。
「木がない場所は?」
俺も横から尋ねた。
「行けない」
「知らない人は?」
「無理。見えない」
どこにでも飛べるわけではないらしい。条件は多い。だが、覚えておく価値はある。
「勝手に王都見物へ行くなよ」
俺が軽く釘を刺すと、リナは「行かないよー」と笑って、再び子供たちの輪の中へと戻っていった。
◇
夕方。
騒がしかった子供たちがそれぞれの家へ帰り、仮学舎の周りもようやく静かになった。
教室の片付けを終えて外へ出ると、聖樹の根元でリナがのんびり座っていた。
俺は彼女の横に立ち、西の空を見ながら尋ねた。
「シャルロッテのそばに植物があれば、王都にも行けるんだな」
リナは少し考えてから、こくりと頷いた。
「たぶん。遠いから、すごく疲れるけど」
「そうか」
俺は、西の空を見た。
使わずに済むなら、それが一番いい。
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