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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第13章 王女と覚悟

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幕間13-1 皇帝と帰還の報

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

帝都ヴィンデル。


皇帝の執務室には、夜更けになっても魔導ランプの冷たい光が落ちていた。


皇帝ヴァレリアン・フォン・アドラーは、分厚いマホガニーの机に積まれた書類の束に目を通していた。そのほとんどが、国境を接するエルディナ王国の混乱に関する報告書だ。


アルベール軍の瓦解以降、王国の支配体制は事実上麻痺している。国境付近の警戒は強めているものの、帝国としては今のところ静観の構えを崩していなかった。


不意に、部屋の空気がわずかに揺れた。


音もなく現れた黒い影が、皇帝の机の前で滑らかに片膝をつく。

帝国諜報部『黒鴉』の総隊長、ベアトリクス・フォン・アイゼンだった。


「陛下。報告が入りました」


感情を一切交えない、透き通るような声。


ヴァレリアンは書類から視線を上げ、手元のペンを静かに置いた。


「王国か。あるいは、あの村か」


「双方にございます」


ベアトリクスが短く答える。


ヴァレリアンの目が、わずかに細くなった。


「シャルロッテ・ド・エルディナ。今朝、ウルム村を西へ出立いたしました」


「……戻るか」


ヴァレリアンは、感情の読めない声で応じた。


「はい。王国より使者として赴いたオリヴィエ・ド・ラ・ヴァレット、従者クラウス、ならびに王都方面への帰還を望んだ避難民の一部が同行しております」


「一部、か」


ヴァレリアンは、その単語を拾い上げた。


「確認できた範囲では、ウルム村は避難民を王女と共に一括で引き渡すことはしませんでした」


ベアトリクスは、村の周囲から得た観測と、出入りした者たちから拾った断片的な情報を照らし合わせ、確認できた範囲だけを報告した。


「帰る者、残る者、決めかねる者を分け、村の広場で一人一人に本人の意思を確認していた模様です」


「ほう」


「聞き取りの場では、王女本人も残る者たちを気にかけていた様子が確認されています。村の運営側が帰還を強要したり、逆に引き留めたりした形跡はありません」


ベアトリクスはそこで言葉を切った。

ヴァレリアンは椅子の背に深く寄りかかり、目を細めた。


「留め置けば、いくらでも使い道はあったろうに」


「ウルムは、そのような動きを見せませんでした」


「そうだろうな」


ヴァレリアンは、口元に微かな笑みを浮かべた。


「あの村は、人を動かす前に、まず選ばせる」


ウルム村が置かれている状況は、いくらでも他国を牽制できる特異なものだった。

聖女エレノアを受け入れながらも、その名を権威の札にせず。

賢者カインを受け入れながらも、帝国への敵対に利用せず。


そして、王国の正統な後継者であるシャルロッテを留め置ける立場にありながら、恩を売ることもなく、本人の選択を尊重して、あっさりと送り出した。


「王女を抱えたまま、王国の首根っこを押さえることもできた。王国へ多大な恩を売り、政治的な取引の材料にすることも容易かったはずだ。……だが、奴らはやらなかった」


「アシュラン・ド・ランテームは、自らの快適さを最優先とする男です。王国の政治に巻き込まれることを嫌ったのではないでしょうか」


ベアトリクスが、冷徹な分析を口にする。


「それもあるだろう。だが、結果としてどうだ」


ヴァレリアンは、手元の報告書を指先で軽く弾いた。


「人材を囲わぬ。恩にも変えぬ。そのくせ、去る者の中に、あの村で得たものをしっかりと残していく」


ウルムで選ぶことを知った王女が、かつてと同じように王国へ戻るはずがない。


彼女は、あの村で得たものを、確実に持ち帰る。


「武力で奪わず、権力で囲わず、それでなお人の行き先を変えるか。……実に厄介だ。力で押してくる相手より、よほど手強い。王国は、帰る王女を受け止められるかな」


ヴァレリアンは、関心を西へ向けた。


「王都の貴族層は、アルベール軍の瓦解以降、いまだまとまりを欠いております。王女の帰還を大義名分として歓迎する者、己の傀儡として利用を企む者、そして責任の所在を恐れて距離を置く者に分かれるかと」


「ならば、最初の一歩を見逃すな」


ヴァレリアンの声が、硬く冷たいものに変わった。


「御意」


「誰が膝をつき、誰が頭を下げずにいるか。王女の帰還そのものより、そちらの方が余ほど今の王国を雄弁に語る」


ベアトリクスは、静かに頭を垂れた。


「……賢者は」


ふと、ヴァレリアンは別の名を口にした。


「カイン様は、引き続きウルムに滞在しております。今回の帰還準備でも、記録と整理に加わっていた模様です」


「そうか」


ヴァレリアンは短く応じ、少しの間、沈黙した。


静まり返った執務室の中で、ランプの火がわずかに揺れる。

やがて、皇帝は自らに言い聞かせるように、静かに呟いた。


「王国は、王女を必要とした。では帝国は、いつ賢者を必要とするのだろうな」


ベアトリクスは深く頭を下げたまま、何も答えない。


「まだ急ぐな」


ヴァレリアンは、カインへ帰還の勅命を出すことはしなかった。


「呼び戻すなら、命令だけでは足りん。人は、呼べば戻るものではない。彼が帝国へ戻るに足る、明確な意味を用意せねばなるまい」


ヴァレリアンは、そこで一度言葉を切った。


「王女の帰還を追え」


ヴァレリアンは、再びベアトリクスに命じた。


「だが、王都だけを見るな。それがウルムへどう返るかまで見ておけ」


「御意」


「王国が変わるのか。王女が潰されるのか。それとも、ウルムのやり方が王都へ入り込むのか……見物だな」


ベアトリクスは、音もなく立ち上がると、一礼して暗闇の中へ影のように溶けていった。


残されたヴァレリアンは、机の上の報告書に視線を落とす。


そこには、簡潔な報告文が記されていた。


『シャルロッテ・ド・エルディナ。ウルム村を出立。進路、西』


数ヶ月前、東へ消えた王女が、今度は自らの意思で西へ戻っていく。


「さて、王国よ」


ヴァレリアンは、誰もいない執務室で静かに呟いた。


「戻ってきた王女を、お前たちはどう扱う」

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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