第189話 門前と約束
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夜風に当たりなくなったシャルロッテは、迎賓館の外へ出た。
視線の先、暗闇に沈む西門の上で、小さな灯りが揺れていた。
夜番に立つロイルの姿が、そこにあった。
シャルロッテは、その灯りを見つめたまま、西門へ向かった。
足音に気づいたのか、門の上から見下ろしていたロイルが、静かに階段を降りてくる。
ランタンの淡い光が、彼の顔の輪郭を照らし出した。
「眠れないのか」
ロイルが、いつもと変わらぬ、ぶっきらぼうな声で尋ねる。
「……少しだけ」
シャルロッテは、自分の声が微かに上ずっているのを感じた。
「明日、出るんだろ」
「はい」
言葉が続かない。
明日の朝には、ここを出る。それだけで、最初の一言が見つからなかった。
気まずい沈黙が流れる中、シャルロッテは彼が意識的に一歩引いた立ち位置にいることに気がついた。
「……ロッテとは、もう呼ばないのですね」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
「呼びづらいだろ。今のあんたは、王女殿下だ」
ロイルは視線を外し、暗い夜の闇の方へと目を向けた。
「ここでは、ロッテでした」
シャルロッテが食い下がると、ロイルはすぐには返事をしなかった。
昼間、キドは王都へ行ってもロッテはロッテだろと笑ってくれた。
けれど、ロイルは違う。その名を、もう今までのようには呼べなくなることを知っている。
「……そうだな」
少しの間の後、ロイルは小さく息を吐いた。
「今だけなら、いいか」
「はい」
「……ロッテ」
その低い声に、シャルロッテは一瞬、息の仕方を忘れた。
「……引き止めては、くださらないのですね」
口にしてから、自分で少し驚いた。
引き止められれば困る。それくらい、分かっていた。
それでも、少しだけ期待していたのだ。
ロイルは困ったように眉間を掻いた。
「引き止めたら、困るだろ」
「少しは、困ってみたかったのかもしれません」
ロイルは、すぐには答えなかった。
「……俺が何か言って、あんたの足を止めるのは違う」
「はい」
「行くと決めたのは、ロッテだろ」
「はい」
「なら、ちゃんと行ってこい」
シャルロッテは、小さく頷いた。
「あの時、焚き火の前で、役割の話をしましたね」
シャルロッテは、冬の寒空の下で火を囲んだあの夜のことを思い出しながら言った。
「覚えてる」
「ロイルは門の前を守る。私は、人々の前に立つ」
あの夜、ロイルは門の前を守ると言った。その言葉を、シャルロッテは今も覚えている。
「あの時は、この村での話だった」
ロイルが言う。
「今度は、場所が離れるだけです」
シャルロッテが答えると、ロイルは少しだけ目を細めた。
「……王都で、やるんだな」
「はい。あの時の続きを」
「なら俺も、こっちで続きをやる。門が開くべき時に開いて、閉じるべき時に閉じるようにな」
シャルロッテは、静かに頷いた。
「王都へ戻れば、私はきっと、今までのようにはここへ来られません」
シャルロッテは、自らに言い聞かせるように現実を口にした。
「だろうな」
「……随分、あっさり仰るのですね」
「分かりきったことを、違うみたいに言う方が嫌だろ」
ロイルは、いつでも会えるとは言わなかった。
そんな慰めで、ごまかすつもりはないのだろう。
「ロッテが王都で何かを変えようとするなら、そうそう気軽に抜け出してくる暇はない。俺も、門を開けて待ってるだけの人間にはなりたくない」
「……はい」
シャルロッテは、少しだけ視線を落とした。
「……王都で、窓口がうまく回らなくなったら」
「うん?」
「相談しても、よろしいですか」
ロイルは一瞬だけ目を瞬かせ、それから少し困ったように口元を緩めた。
「仕事としてなら、いつでも」
「……仕事として、ですね」
「ああ。仕事として」
シャルロッテは、少しだけ目を伏せて微笑んだ。
「王都で、誰も話を聞かなくなったら思い出せ」
ロイルが、ふと真面目な声で言った。
「門の前で騒ぐ奴らは、大抵、何かを怖がってる。……怒ってるように見えても、本当は怯えてるだけだってことがよくあるんだ」
「……怖がっている」
「ああ。だから、まずは何に怯えてるのか、見極めてやれ」
シャルロッテは、何度も門前に立つ彼の姿を思い出した。
「はい……覚えておきます」
夜風が、二人の間を通り抜けていく。
ロイルが、短く息を吐いて背を向け、防壁への階段へ戻ろうとした。
「ロイル」
シャルロッテが、最後にその背中を呼び止める。
「ん?」
少しだけ迷ってから、彼女は真っ直ぐに彼の目を見て言った。
「……行ってまいります」
ロイルは足を止め、振り返らずに短く返した。
「行ってこい、ロッテ」
シャルロッテは、静かに笑みを浮かべ、踵を返した。
◇
翌朝。西門前。
空はまだ薄明るく、冷たい空気が村を包んでいる。
西門の前には、馬車と護衛、そして王都への帰還を希望した避難民の第一陣が整列していた。
オリヴィエは、出立する人数と荷の確認を、最後にもう一度行っていた。
クラウスは、シャルロッテの外套の留め具と手袋を、いつも通り静かに確かめていた。
「道中、身体を冷やさないように。お薬も用途ごとに分けてありますからね」
エレノアが、いくつもの薬包を渡し、優しく微笑む。
「道中の記録や、宿場での連絡書式はこちらにまとめてあります。必要になればお使いください」
カインが、実務的な道具一式を詰めた革袋を手渡す。
「達者でな」
ギードは、多くを語らず、杖をつきながら深く頷いた。
「王都で詰まったら、詰まってる場所から直せ。無理に流そうとしても水は溢れるだけだ」
アシュランは腕を組んだまま、彼らしい短い言葉だけを投げかけた。
少し離れた場所から、キドが大きく手を振っているのが見えた。シャルロッテも、小さく手を振り返す。
◇
そして、西門の傍らにはロイルが立っていた。
朝の光の中の彼は、昨夜の彼とは違った。
西門の開閉を指揮し、村の境界を守る自警団の長としての顔に戻っていた。
彼はシャルロッテの前に進み出ると、姿勢を正し、深く頭を下げた。
「ご無事をお祈りしております。シャルロッテ王女殿下」
シャルロッテは一瞬だけ目を伏せた。昨夜彼が呼んでくれた名前の響きが、胸の奥でかすかに疼いた。
けれど、彼女は顔を上げ、しっかりと彼を見返して頷いた。
昨夜呼ばれたロッテという名と、今朝告げられたシャルロッテ王女殿下。
そのどちらも、今の自分の名だった。シャルロッテは、西門へと向き直る。
「開門!」
ロイルの鋭い声が響き、ウルム村の重厚な西門が、ゆっくりと外の世界へ向けて開かれた。
馬車が進み出し、帰還者たちの列がそれに続く。
シャルロッテは、馬車の窓から一度だけ村を振り返った。
大きな歓声があるわけではない。それでも、静かで確かな見送りがそこにあった。
手を振るキド、微笑むエレノア、深く頷くギード、腕を組んで立つアシュラン、そして門の脇で微動だにしないロイル。
ウルム村へ来た時、彼女は王都を背に、東へ向かって泥道を歩いた。
二度と戻らないと、あの凍てつく土の上で決意した。
けれど今、シャルロッテは同じ道を、今度は自らの意思で西へ向かっている。
もう、逃げるためではない。
王都に残された人々の声を聞くために。
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