第188話 支度と名前札
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「熱のある方は、まだ出せませんわ。戻ると決めたことと、今日歩けることは別です」
迎賓館前の広場では、帰還第一陣に加える者の確認が始まっていた。
エレノアが、出立を急ぐ避難民の顔色や足の怪我を一人ずつ確かめ、道中に耐えられるかを見ていた。
「でも、少しでも早く出発しないと……」
王都に妹を探しに戻ると言っていた中年の男が、焦ったように食い下がる。
「道の途中で倒れられたら、探しに行くどころじゃないだろう」
横から、アシュランが容赦のない声をかけた。
「死に急ぐのは帰還じゃない。ただの迷惑だ。どうしても行きたいなら、せめて明日の朝まで熱を下げてからにしろ」
男はぐっと言葉を飲み込み、大人しく救護所のテントへと戻っていった。
その様子を見ていたオリヴィエが、小さく息を吐いた。
「……承知しました。出発は、状態に合わせていくつかに分けましょう」
「そうしてください。帰還の道中で倒れる者を出しては、本末転倒ですからね」
簡易窓口の机では、カインがすでに第一陣の編成名簿を作成していた。
「第一陣は、移動に耐えられると判断された者のみ。食料と水は、まず五日分。そこから先は、使える宿場を選びながら補給する形にしましょう」
「助かります。道中の宿場はまだ機能していないところが多い。補給できる場所を見誤らないよう、こちらでも情報を整理します」
「それと、戻る者の名簿は一部写しを残します。後日、未到着者や行方不明者が出た際の照合に必要ですから」
カインは、淡々と実務の確認を進めていく。
帰るという決断が、ウルム村の手順の中で、少しずつ出立の形を取っていった。
◇
「王都へ行けば、ここほど素直に話を聞かせてくれる者ばかりではないじゃろう」
準備の合間、シャルロッテは迎賓館の裏手でギードに呼び止められていた。
「はい」
シャルロッテは、村長の長く白い髭を見つめて頷いた。
ギードは大仰な励ましも、王族に向けるようなへりくだった言葉も口にしなかった。
「それでも、聞くのをやめるな」
ギードの深い声が、冷たい風の中に響く。
「どれほど面倒でも、耳を塞いではならん。……聞かぬ者は、やがて勝手に決め始める。それが、すべての過ちの始まりじゃからな」
「……忘れません」
シャルロッテは、深く頭を下げた。
◇
救護所の中では、エレノアが帰還者用の薬包を忙しく仕分けしていた。
シャルロッテが手伝おうと近づくと、エレノアは手を止めて、少しだけ困ったように微笑んだ。
「本当は、行かないでと言いたいですわ」
「……エレノア様」
「でも、そう言ってしまうのは違いますものね」
エレノアは、薬草の束を丁寧に包み直しながら言った。
「あなたは、ご自分で戻ることを決められました。ですから……ちゃんと食べて、ちゃんと眠ってくださいませ」
「はい」
「それから、何でも自分一人で抱え込まないこと。王都へ戻っても、そこは変えてはいけませんわ」
エレノアは、シャルロッテの手をそっと握った。
「あなたが疲れたり、一人で立てなくなりそうな時は、誰かに頼っていいのです。……もちろん、私たちを頼ってくださって構いませんわ」
シャルロッテは、その手をそっと握り返した。
◇
午後になり、聞き取り窓口の片付けが完全に終わった頃。
シャルロッテの元へ、キドが小走りでやってきた。
「ロッテ。これ、どうする?」
キドが差し出した手の中には、小さな木札があった。
昨日まで未定と書かれた板の下に置かれていた、彼女の名前札だ。
シャルロッテは、その札を見つめたまま、すぐには手を出せなかった。
「……置いていくものでは、ないのですか」
「なんで。ロッテのだろ」
キドは、きょとんとした顔で首を傾げた。
「でも、私は……王都へ戻るのですから」
王女として王都へ戻る自分が、この村でロッテとして過ごした証を持っていってよいのだろうか。
だが、キドは呆れたように鼻を鳴らした。
「王都へ行っても、ロッテはロッテだろ」
シャルロッテは、はっと息を呑んだ。
王都へ戻るからといって、ここで過ごした時間まで置いていく必要はない。
配給の列に立ち、子供たちに文字を教え、何度もその名で呼ばれた時間は、確かに自分のものだった。
「……持っていきます」
シャルロッテは、キドからその木札を両手で受け取った。
少し歪んだ字で書かれた、小さな板切れ。けれど、今のシャルロッテには、どんな宝飾品より手放しがたく思えた。
握りしめた手のひらに、木札の角がわずかに食い込む感触がした。
◇
広場の端では、荷の積み込みが着々と進んでいた。
アシュランは腕を組み、その様子を面倒そうに眺めている。
「アシュラン様」
シャルロッテが声をかけると、彼は振り返らずに口を開いた。
「向こうで、無理に立派なことを言おうとするなよ」
「……はい」
「分からなければ分からんと言え。分かったふりをする奴が、一番面倒を増やすんだ」
アシュランは荷車の方へ目を向けたまま、続けた。
「聞くのは大事だが、聞いた後で何から手をつけるかは考えろ。感情だけで動くと、すぐに破綻するぞ」
「覚えておきます」
シャルロッテが真面目に頷くと、アシュランはようやくこちらを向いた。
「あと、寝ろ」
「え?」
「睡眠不足の統治者は、だいたい余計な決断をする。疲れたら寝ろ。飯を食って寝れば、大抵のことは翌日でもなんとかなる」
「最後まで、そこなのですね」
シャルロッテは思わずふふっと笑みをこぼした。
「大事なことだ。俺の快適な睡眠時間を守るためにもな」
アシュランは肩をすくめ、再び荷車の確認へと戻っていった。
◇
夜。
出立の準備はすべて整った。
明日の朝、陽が昇ると同時に、シャルロッテは第一陣と共に西門から王都へ向けて出発する。
挨拶できる相手には、すでに声をかけて回っていた。
けれど、まだきちんと話せていない人が、一人だけいる。
夜の冷たい空気に触れたくなり、シャルロッテは迎賓館の外へと出た。
明日の朝、自分はあの西門を通って、ここからいなくなる。
そう思いながら、暗闇の中にそびえ立つ防壁の方角へ視線を向けた。
ふと見上げると、門の上にまだ、小さな灯りが残っていた。
冷たい風の吹く中、夜番に立つロイルの姿が、そこにあった。
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