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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第13章 王女と覚悟

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第188話 支度と名前札

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

「熱のある方は、まだ出せませんわ。戻ると決めたことと、今日歩けることは別です」


迎賓館前の広場では、帰還第一陣に加える者の確認が始まっていた。

エレノアが、出立を急ぐ避難民の顔色や足の怪我を一人ずつ確かめ、道中に耐えられるかを見ていた。


「でも、少しでも早く出発しないと……」


王都に妹を探しに戻ると言っていた中年の男が、焦ったように食い下がる。


「道の途中で倒れられたら、探しに行くどころじゃないだろう」


横から、アシュランが容赦のない声をかけた。


「死に急ぐのは帰還じゃない。ただの迷惑だ。どうしても行きたいなら、せめて明日の朝まで熱を下げてからにしろ」


男はぐっと言葉を飲み込み、大人しく救護所のテントへと戻っていった。


その様子を見ていたオリヴィエが、小さく息を吐いた。


「……承知しました。出発は、状態に合わせていくつかに分けましょう」


「そうしてください。帰還の道中で倒れる者を出しては、本末転倒ですからね」


簡易窓口の机では、カインがすでに第一陣の編成名簿を作成していた。


「第一陣は、移動に耐えられると判断された者のみ。食料と水は、まず五日分。そこから先は、使える宿場を選びながら補給する形にしましょう」


「助かります。道中の宿場はまだ機能していないところが多い。補給できる場所を見誤らないよう、こちらでも情報を整理します」


「それと、戻る者の名簿は一部写しを残します。後日、未到着者や行方不明者が出た際の照合に必要ですから」

カインは、淡々と実務の確認を進めていく。


帰るという決断が、ウルム村の手順の中で、少しずつ出立の形を取っていった。



「王都へ行けば、ここほど素直に話を聞かせてくれる者ばかりではないじゃろう」


準備の合間、シャルロッテは迎賓館の裏手でギードに呼び止められていた。


「はい」


シャルロッテは、村長の長く白い髭を見つめて頷いた。


ギードは大仰な励ましも、王族に向けるようなへりくだった言葉も口にしなかった。


「それでも、聞くのをやめるな」


ギードの深い声が、冷たい風の中に響く。


「どれほど面倒でも、耳を塞いではならん。……聞かぬ者は、やがて勝手に決め始める。それが、すべての過ちの始まりじゃからな」


「……忘れません」


シャルロッテは、深く頭を下げた。



救護所の中では、エレノアが帰還者用の薬包を忙しく仕分けしていた。


シャルロッテが手伝おうと近づくと、エレノアは手を止めて、少しだけ困ったように微笑んだ。


「本当は、行かないでと言いたいですわ」


「……エレノア様」


「でも、そう言ってしまうのは違いますものね」


エレノアは、薬草の束を丁寧に包み直しながら言った。


「あなたは、ご自分で戻ることを決められました。ですから……ちゃんと食べて、ちゃんと眠ってくださいませ」


「はい」


「それから、何でも自分一人で抱え込まないこと。王都へ戻っても、そこは変えてはいけませんわ」


エレノアは、シャルロッテの手をそっと握った。


「あなたが疲れたり、一人で立てなくなりそうな時は、誰かに頼っていいのです。……もちろん、私たちを頼ってくださって構いませんわ」


シャルロッテは、その手をそっと握り返した。



午後になり、聞き取り窓口の片付けが完全に終わった頃。

シャルロッテの元へ、キドが小走りでやってきた。


「ロッテ。これ、どうする?」


キドが差し出した手の中には、小さな木札があった。

昨日まで未定と書かれた板の下に置かれていた、彼女の名前札だ。


シャルロッテは、その札を見つめたまま、すぐには手を出せなかった。


「……置いていくものでは、ないのですか」


「なんで。ロッテのだろ」


キドは、きょとんとした顔で首を傾げた。


「でも、私は……王都へ戻るのですから」


王女として王都へ戻る自分が、この村でロッテとして過ごした証を持っていってよいのだろうか。


だが、キドは呆れたように鼻を鳴らした。


「王都へ行っても、ロッテはロッテだろ」


シャルロッテは、はっと息を呑んだ。


王都へ戻るからといって、ここで過ごした時間まで置いていく必要はない。

配給の列に立ち、子供たちに文字を教え、何度もその名で呼ばれた時間は、確かに自分のものだった。


「……持っていきます」


シャルロッテは、キドからその木札を両手で受け取った。


少し歪んだ字で書かれた、小さな板切れ。けれど、今のシャルロッテには、どんな宝飾品より手放しがたく思えた。


握りしめた手のひらに、木札の角がわずかに食い込む感触がした。



広場の端では、荷の積み込みが着々と進んでいた。


アシュランは腕を組み、その様子を面倒そうに眺めている。


「アシュラン様」


シャルロッテが声をかけると、彼は振り返らずに口を開いた。


「向こうで、無理に立派なことを言おうとするなよ」


「……はい」


「分からなければ分からんと言え。分かったふりをする奴が、一番面倒を増やすんだ」


アシュランは荷車の方へ目を向けたまま、続けた。


「聞くのは大事だが、聞いた後で何から手をつけるかは考えろ。感情だけで動くと、すぐに破綻するぞ」


「覚えておきます」


シャルロッテが真面目に頷くと、アシュランはようやくこちらを向いた。


「あと、寝ろ」


「え?」


「睡眠不足の統治者は、だいたい余計な決断をする。疲れたら寝ろ。飯を食って寝れば、大抵のことは翌日でもなんとかなる」


「最後まで、そこなのですね」


シャルロッテは思わずふふっと笑みをこぼした。


「大事なことだ。俺の快適な睡眠時間を守るためにもな」


アシュランは肩をすくめ、再び荷車の確認へと戻っていった。



夜。


出立の準備はすべて整った。

明日の朝、陽が昇ると同時に、シャルロッテは第一陣と共に西門から王都へ向けて出発する。


挨拶できる相手には、すでに声をかけて回っていた。

けれど、まだきちんと話せていない人が、一人だけいる。


夜の冷たい空気に触れたくなり、シャルロッテは迎賓館の外へと出た。


明日の朝、自分はあの西門を通って、ここからいなくなる。

そう思いながら、暗闇の中にそびえ立つ防壁の方角へ視線を向けた。


ふと見上げると、門の上にまだ、小さな灯りが残っていた。

冷たい風の吹く中、夜番に立つロイルの姿が、そこにあった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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