第187話 王女と返答
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翌朝。村が本格的に動き出す前の、まだ薄暗い時間だった。
シャルロッテは一人で早く目を覚まし、迎賓館の外へと足を踏み出した。
吐く息は白く、冬の冷気が肺の奥まで入り込んでくる。
東の空の境界線がわずかに白み始めている。
その冷たい空気に肌を刺された瞬間、シャルロッテの脳裏に、王都を脱出したあの夜の記憶が鮮明に蘇った。
王城の一部が炎に包まれ、怒号と悲鳴が飛び交う中、彼女は王女としてのきらびやかな衣装を脱ぎ捨てた。
重い髪飾りも、母の形見の指輪も、王女だと知られる手がかりになりそうな装飾品も、衣装と一緒にその場へ残した。
『今日から、あなたはただのロッテです』
クラウスが、彼女にそう告げた。
炎に追われ、息を切らして暗い獣道を走りながら、彼女は心の中で何度も自分に言い聞かせていた。
――私は戻らない。私は、生きる。
あの夜の「戻らない」は、生き延びるための言葉だった。
それ以上の意味を考える余裕など、あの時の自分にはなかった。
けれど、今は違う。
生きて、この村に辿り着き、自分の手で働き、人々の名前と顔を知った。
ならば、今ここで口にする戻るという言葉は、誰かに決められるものであってはならない。
誰かに言われたからではなく、自分自身の足で立ち、自分自身の意思で選び取る言葉でなければならない。
シャルロッテは、白みゆく空を見上げながら、深く、静かに息を吸い込んだ。
◇
「……お早いお目覚めですね」
背後から、足音もなく静かな声がかけられた。
振り返ると、少し離れた所にクラウスが立っていた。彼もまた、主の気配を感じ取って外へ出てきたのだろう。
「ええ。少し、冷たい空気に触れたくて」
シャルロッテはクラウスに向き直ると、姿勢を正した。
正式な返答は、オリヴィエやギードたちが揃う場でしなければならない。
だが、その前にどうしても、この人には最初に伝えておきたかった。
王都からここまで、ずっと傍にいてくれた人に。
「クラウス」
シャルロッテは、真っ直ぐに彼を見て言った。
「私は、王都へ戻ります」
朝の冷たい空気の中に、その言葉が落ちる。
クラウスは、すぐには答えなかった。
「……承知いたしました」
一拍だけ遅れて返ってきた声は、いつもよりほんの少しだけ低かった。
彼はわずかに目を伏せ、その表情の奥にある感情を押し隠した。
安堵なのか、寂しさなのか。
シャルロッテには、うまく読み取れなかった。
「止めないのですね」
「お止めする理由が、もうございません」
クラウスは静かに顔を上げ、シャルロッテを見つめた。
感情を大きく表に出すことのない彼の瞳が、この時ばかりはかすかに揺らいで見えた。
「王都を出たあの日、私は姫様に、何としても生き延びてくださいと申し上げました」
シャルロッテは黙って聞く。
「今は……生きて戻られるのですね、と申し上げます」
シャルロッテは、何も言わずに頷いた。
◇
日が昇る頃、迎賓館の一室には主要な顔ぶれが揃っていた。
正面に座る村長のギード。その斜め後ろにアシュランとエレノア、記録板を持ったカインが控えている。
対面には、姿勢を正したオリヴィエが座り、その後ろに護衛と従者が待機している。
そして、その中央に立つシャルロッテと、一歩下がって控えるクラウス。
「答えは、決まったかね」
ギードが、落ち着いた声で場を開いた。
「はい」
シャルロッテが短く応じると、オリヴィエがわずかに身を乗り出し、背筋をさらにピンと伸ばした。
誰も、言葉を挟まなかった。
シャルロッテは、オリヴィエを、そしてギードやアシュランたちを真っ直ぐに見据えた。
「私は、王国へ戻ります」
短く、迷いのない声だった。
誰かに請われたからではない。自分で選び取った答えだった。
「戻りたいと願う方が、帰れる国にするために」
彼女は、前日の窓口での光景を思い浮かべながら、一つ一つの言葉を確かめるように紡いでいく。
「残ると選んだ方々が、その選択を責められずに済む国にするために」
言葉を重ねるごとに、彼女の声は確かな熱を帯びていった。
「そして、私がこのウルム村で見てきたものを、学んだことを、王国へ持ち帰るために。……私は、王国へ戻ります」
オリヴィエが、深く安堵の息を吐き出し、口を開こうとした。
だが、シャルロッテはそれを手で制した。
「ですが、一つ、先に確かめておきたいことがあります」
「何なりと」
オリヴィエが真剣な眼差しで答える。
「ウルムに残ると決めた方々を、王国が責めることは許しません」
その言葉に、オリヴィエの表情がわずかに強張った。
王都へ戻れば、必ず揉める話だ。
「……もちろんです」
オリヴィエは、慎重に言葉を選んで答えた。
「もちろん、では足りません」
その声には、退く気配がなかった。
「私が戻るなら、それは最初に確かめるべきことです。戻らないと決めた方々を、国難から逃げた者、国を捨てた裏切り者として扱わせるつもりはありません。彼らが安心してこの村で生きていける確約がなければ、私はここを動きません」
オリヴィエは、彼女の言葉の重さを正面から受け止めた。
「私の一存で、王国すべての貴族の口を封じられるわけではありません」
オリヴィエは、言葉を濁さずに答えた。
「ですが、王都へ戻り次第、帰還を強制しない方針を明文化できるよう、私が責任を持って動きます。少なくとも、残る者を罰し、帰還を迫るために殿下をお迎えしたのではないことは、この場で明確に宣言いたします」
シャルロッテは、しばらくオリヴィエを見つめ、それから静かに頷いた。
「ひとつだけ聞く」
不意に、それまで黙ってやり取りを聞いていたアシュランが口を開いた。
「はい」
シャルロッテが向き直る。
アシュランは、いつもと変わらない静かな目で彼女を見ていた。
「旗になるために戻るのか」
シャルロッテは、迷うことなく答えた。
「いいえ」
「なら?」
「声を聞くために戻ります」
シャルロッテは、そこで一度言葉を切った。
「そして、聞いた声を、王宮の都合で無かったことにされないようにするために。……それが、私の役割です」
民の声を聞く。そして、聞いただけで終わらせない。
それは、この村で何度も目にしてきたことだった。
アシュランは、彼女の答えを聞いて、短く息を吐いた。
「……なら、好きにしろ」
それ以上、彼は何も言わなかった。
エレノアが、少し寂しそうに、けれど誇らしげに微笑む。
カインが、静かに記録板を閉じた。
ギードは、長い白髭を撫でながら、ゆっくりと頷いた。
そしてクラウスは、表情を崩さないまま、わずかに肩の力を抜いた。
「では、出立の支度を整えます。シャルロッテ王女殿下」
オリヴィエが、片膝をついて深く頭を下げた。
シャルロッテ王女殿下。
その呼び名に、彼女は一瞬だけ目を伏せた。
けれど、もう背を向けるつもりはなかった。
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