表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第13章 王女と覚悟

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
212/239

第186話 残る場所と戻る場所

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

翌朝の迎賓館前。

前日のような大勢の避難民が押し寄せることもなく、聞き取り窓口の片付けはすでに一段落していた。

長机の端には、戻る、残る、未定と墨で書かれた三つの木札が、まだそのまま置かれている。

そして、未定と書かれた板の下には、シャルロッテ自身の名前札が、ぽつんと一つだけ置かれたままになっていた。


シャルロッテは、少し離れた場所からその札を静かに見つめていた。


すぐ後ろには、クラウスが控えている。

彼はシャルロッテが何を考えているのか察しているはずだったが、急かすような言葉は口にしなかった。


しばらくの沈黙の後、シャルロッテの方から口を開いた。

「未定、というのは……思っていたより、居心地が悪いものですね」


「決められぬことを、恥じる必要はございません」

クラウスが、いつもと変わらぬ穏やかな声で返す。


「決められないのではないのです。……きっと、決めたくないのです」


クラウスは、すぐには答えなかった。風が吹き抜け、長机の上に残された羊皮紙の端をかすかに揺らす。


「戻るべき理由は、もう分かっています。王国には、民の言葉を聞く人間が必要です。その役割を放棄してよいとは思っていません」


シャルロッテは、自分の名前札から目を離さずに言った。


「それでも……どうしても、手が伸びないのです」


何に引っかかっているのかは、まだ自分でも分からない。ただ、名前札へ手を伸ばそうとすると、胸の奥が重く詰まった。



その足でシャルロッテが向かったのは、救護所の付近だった。


そこでは、王都へ戻ると決めた者たちが、出発前の最終的な健康確認や物資の配分を受けていた。


テントの脇の丸太に腰掛け、足を伸ばして手当てを受けている中年男性の姿があった。

昨日、王都に妹が残っているから戻る、と語った男だ。


彼の足に巻かれた汚れた包帯は、真新しい白い布に取り替えられていた。


「お加減は、いかがですか」


シャルロッテが声をかけると、男は少し驚いたように顔を上げ、慌てて姿勢を正そうとした。


「そのままにしておいてください。無理に動かしてはいけません」


「……ありがとうございます。薬を塗ってもらって、だいぶ楽になりました」


男は、少しだけ安堵したような表情を見せた。それでも、彼の目はどこか遠く、ここではない別の場所を見つめているようだった。


「王都へ戻るのが、怖くはありませんか」

シャルロッテは、彼にそっと尋ねた。


「怖いですよ」

男は、誤魔化すことなく頷いた。


「家が残ってるかも分からない。妹が生きてるかも分からない。もしかしたら、焼け野原を掘り返すだけになるかもしれない」


「それでも、戻るのですね」


「戻った先に希望があるからじゃありません。まだ、探したい人がいるからです」


男は、自分の膝に置いた両手をぎゅっと握りしめた。


「妹が生きているかも分からない。見つけられるかも分からない。それでも、行かなかったら……たぶん俺は、一生そこから動けなくなる」


シャルロッテは、すぐには言葉を返せなかった。


「だから戻ります。怖いですけど、それでも行きます」



その後、シャルロッテは仮学舎の裏手にある作業場へと足を向けた。


そこでは、ウルムに残ると決めた者たちが、村の補修に使う木材の運搬や、薪割りの作業に汗を流していた。


その中に、昨日、「今日、自分が何をすればいいか分かるから」と残留を選んだ初老の男の姿があった。

彼は、切り出された薪を一つずつ丁寧に積み上げているところだった。


「お仕事中、少しよろしいですか」


「あ、これは……」


男はシャルロッテに気づくと、慌てて手元の木片を置き、服の裾で手を拭った。


「そのまま続けてくださって構いません」


シャルロッテは男の隣に並び、彼が積み上げた薪の山に目を向けた。


「王国へ戻ることを、もう考えてはいないのですか」


「考えてないわけじゃありません」


男は、再び薪を手に取りながら、ゆっくりと答えた。


「では、いつかは」


「ええ。戻りたいと思える日が来たら、戻りたいです。でも今は、ここで立て直したい。昨日まで何も持ってなかった俺に、今日やることをくれた場所ですから」


男は、額の汗を拭いながら、村の中を行き交う人々の姿を見渡した。


「まずは、自分の足で立てるようにならないと。何も持たないまま焼け野原に帰っても、また誰かのお荷物になるだけですからね」


「王国を、捨てるわけではないのですね」


その言葉に、男は少し困ったように笑った。


「捨てられたと思ったことはあります。税を払って、真面目に働いてきたのに、いざという時はあっさり見捨てられるんだなって。……でも、こっちから国を憎み切れるほど、簡単な話でもないんです」


男は、積み上げた薪の形を綺麗に整えた。

その顔に、怒りはなかった。ただ、今は帰れない。それだけだった。


シャルロッテは、男の横顔を見つめた。


いつか、この人が迷わず戻れる日が来るのだろうか。



人々の声を聞いて回った後、シャルロッテの足取りは重かった。


どちらの言葉も、簡単には受け流せない。


礼拝堂の脇の道を俯きがちに歩いていると、ふと横に並ぶ気配があった。


「お疲れのようですわね」


エレノアだった。彼女は救護所での確認作業を終えたのか、手にはいくつかの記録板を抱えていた。


「エレノア様……」


シャルロッテは、足を止めずに、ぽつりと本音を漏らした。


「王都へ戻らなければならないのだと思います」


「ええ」


エレノアは否定も肯定もせず、ただ相槌を打った。


「でも、戻れば……ここを離れることになります」


エレノアは、すぐには慰めの言葉を口にしなかった。


少しだけ間を置いて、静かに問い返す。


「残れば、王都を見捨てたように感じるのですね」


「……はい」


シャルロッテは、小さく頷いた。


「戻る方の背中を押すことも、残る方の明日を守ることも、私一人ではできません。どちらかを選べば、もう片方を見捨てることになるのではないかと……そう思ってしまうのです」


「でも、どちらを選んでも、誰かを捨てることにはなりませんわ」


エレノアの声は、静かに胸へ届いた。


「本当に、そうでしょうか」


「選ばなかった方を、なかったことにしなければよいのですわ。見ないふりをせず、大切に思い続けることはできますもの」


エレノアは、空を見上げて優しく微笑んだ。


「あなたがこの村で私たちと一緒に過ごした時間は、王都へ戻ったからといって消えませんわ。あなたが王国の民を思う気持ちも、村に残ったからといって消えるわけではないのと同じです」


シャルロッテは、すぐには返事ができなかった。


それでも、胸に張りついていた苦しさが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。



迎賓館の前まで戻ってくると、ギードが手元の残留者名簿に目を通しているところだった。


「ギード様」


「おお、ロッテか。聞き取りの調子はどうじゃ」


ギードは名簿から目を離し、白く長い髭を撫でた。


「皆さんの声を聞いて、分かったことがあります」


シャルロッテは、ギードの前に進み出た。


「王国へ戻らない人たちを、王都の人々は、裏切り者や国を捨てた者として見るかもしれません。それが、不安です」


「それは、おぬしが戻った先で、そう決めさせぬようにすればよい」


ギードは、事もなげに言った。


「私が?」


「そうじゃ。戻る者を迎えるのも国の役目じゃ。じゃが、残る者に負い目を背負わせぬのも、また国の役目じゃろう」


ギードの深く響く声に、シャルロッテは息を呑んだ。


「おぬしが上に立つなら、おぬしの言葉がそのまま国の言葉になる。残った者たちを、決して国を捨てた者にはさせぬと、おぬし自身が示せばよいのじゃ。……それができるのは、他でもないおぬしだけじゃろう」


シャルロッテは、名簿へ目を落とした。


戻る者を迎えるだけでは足りない。ウルムに残った者が、その選択を責められずに済むようにする。


戻った先で、自分が言わなければならないことが、一つ見えた。



夕方。


シャルロッテは、村の端にある見晴らしの良い丘へと足を運んだ。


冷たい風が吹くその場所には、村の全景を見下ろすように、アシュランが一人で立っていた。


「アシュラン様」


背後から声をかけると、アシュランは振り返らずに短く応じた。


「いろんな奴の重い話を聞いて回ってたそうだな。ご苦労なことだ」


相変わらずのぶっきらぼうな口調だったが、そこに冷たさはなかった。


シャルロッテは、彼に直接「戻るべきでしょうか」とは聞かなかった。


彼女自身、もうその問いが間違っていることに、薄々気づき始めていたからだ。


「私が王都へ戻れば、ここを離れることになります」


「距離の話なら、そうだな。馬車で数週間はかかる」


アシュランは淡々と返す。


「そういう意味ではありません」


アシュランは、ふっと息を吐いてから、ゆっくりと振り返った。


「ここで覚えたことまで置いていくなら、離れたことになる。持っていくなら、場所が変わるだけだ」


「……持っていく」


「そうだ」


アシュランは、シャルロッテを真っ直ぐに見据えた。


「配給の列も、名前の札も、記録の重さも。ここで見たものを全部置いて、王宮の豪華な椅子に座るなら、そりゃ離れたことになる。でも、持っていくなら違う」


シャルロッテは、両手を胸の前で強く握りしめた。


「戻るか残るかじゃない。お前が、何を抱えてどこへ行くのかの話だ」


さっきまで胸の内で絡まっていたものが、少しずつほどけていく気がした。


「王都へ戻るのが怖いのか?」


アシュランが尋ねる。


「……いいえ」


シャルロッテは、静かに首を振った。


王都が怖くないわけではない。権力争いの渦中へ戻ることに、何の恐れもないわけではない。


けれど、それだけが自分の足を止めているのではないと分かった。


「じゃあ、何が怖い」


少し、長い沈黙があった。


風の音だけが、二人の間を通り抜けていく。


シャルロッテは、ようやく口を開いた。


「ここを離れるのが、怖いのです」


口にした瞬間、それが本当の答えなのだと分かった。


王都へ戻ることが怖いのではない。王女として生きることが怖いのでもない。


朝早く起きて水場へ向かうこと。キドたちと言葉を交わすこと。管理窓口で、避難民たちの顔を見ること。


ただのロッテとして過ごした日々が、ここにはある。


ここでは、王女ではない自分でいられた。それを失うことが、怖かった。

けれど、置いていくかどうかは、まだ誰にも決められていない。


アシュランが言う通り、それを抱えたまま別の場所へ行くことだってできるのだ。


シャルロッテは、夕暮れに赤く染まり始めたウルム村の景色を、静かに見つめた。


仮学舎の屋根。救護所のテント。煙突から立ち上る夕餉の煙。


その一つ一つが、彼女の中に残っている。

未定の札は、まだ動かせない。けれど、オリヴィエに返す言葉の輪郭だけは、初めて見えた気がした。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

新連載のお知らせ
『星降りの欠片と瀬戸内の巫女
〜役立たずと言われた研究者が、世界の理を繋ぎ直すまで〜』を投稿開始しました。

岡山の研究者と瀬戸内の巫女が、星降りの夜から始まる怪異に触れていく現代ローファンタジーです。
瀬戸内、神社、巫女、怪異、研究者主人公がお好きな方は、よければ覗いてみてください。

『星降りの欠片と瀬戸内の巫女』はこちら

+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ