第186話 残る場所と戻る場所
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翌朝の迎賓館前。
前日のような大勢の避難民が押し寄せることもなく、聞き取り窓口の片付けはすでに一段落していた。
長机の端には、戻る、残る、未定と墨で書かれた三つの木札が、まだそのまま置かれている。
そして、未定と書かれた板の下には、シャルロッテ自身の名前札が、ぽつんと一つだけ置かれたままになっていた。
シャルロッテは、少し離れた場所からその札を静かに見つめていた。
すぐ後ろには、クラウスが控えている。
彼はシャルロッテが何を考えているのか察しているはずだったが、急かすような言葉は口にしなかった。
しばらくの沈黙の後、シャルロッテの方から口を開いた。
「未定、というのは……思っていたより、居心地が悪いものですね」
「決められぬことを、恥じる必要はございません」
クラウスが、いつもと変わらぬ穏やかな声で返す。
「決められないのではないのです。……きっと、決めたくないのです」
クラウスは、すぐには答えなかった。風が吹き抜け、長机の上に残された羊皮紙の端をかすかに揺らす。
「戻るべき理由は、もう分かっています。王国には、民の言葉を聞く人間が必要です。その役割を放棄してよいとは思っていません」
シャルロッテは、自分の名前札から目を離さずに言った。
「それでも……どうしても、手が伸びないのです」
何に引っかかっているのかは、まだ自分でも分からない。ただ、名前札へ手を伸ばそうとすると、胸の奥が重く詰まった。
◇
その足でシャルロッテが向かったのは、救護所の付近だった。
そこでは、王都へ戻ると決めた者たちが、出発前の最終的な健康確認や物資の配分を受けていた。
テントの脇の丸太に腰掛け、足を伸ばして手当てを受けている中年男性の姿があった。
昨日、王都に妹が残っているから戻る、と語った男だ。
彼の足に巻かれた汚れた包帯は、真新しい白い布に取り替えられていた。
「お加減は、いかがですか」
シャルロッテが声をかけると、男は少し驚いたように顔を上げ、慌てて姿勢を正そうとした。
「そのままにしておいてください。無理に動かしてはいけません」
「……ありがとうございます。薬を塗ってもらって、だいぶ楽になりました」
男は、少しだけ安堵したような表情を見せた。それでも、彼の目はどこか遠く、ここではない別の場所を見つめているようだった。
「王都へ戻るのが、怖くはありませんか」
シャルロッテは、彼にそっと尋ねた。
「怖いですよ」
男は、誤魔化すことなく頷いた。
「家が残ってるかも分からない。妹が生きてるかも分からない。もしかしたら、焼け野原を掘り返すだけになるかもしれない」
「それでも、戻るのですね」
「戻った先に希望があるからじゃありません。まだ、探したい人がいるからです」
男は、自分の膝に置いた両手をぎゅっと握りしめた。
「妹が生きているかも分からない。見つけられるかも分からない。それでも、行かなかったら……たぶん俺は、一生そこから動けなくなる」
シャルロッテは、すぐには言葉を返せなかった。
「だから戻ります。怖いですけど、それでも行きます」
◇
その後、シャルロッテは仮学舎の裏手にある作業場へと足を向けた。
そこでは、ウルムに残ると決めた者たちが、村の補修に使う木材の運搬や、薪割りの作業に汗を流していた。
その中に、昨日、「今日、自分が何をすればいいか分かるから」と残留を選んだ初老の男の姿があった。
彼は、切り出された薪を一つずつ丁寧に積み上げているところだった。
「お仕事中、少しよろしいですか」
「あ、これは……」
男はシャルロッテに気づくと、慌てて手元の木片を置き、服の裾で手を拭った。
「そのまま続けてくださって構いません」
シャルロッテは男の隣に並び、彼が積み上げた薪の山に目を向けた。
「王国へ戻ることを、もう考えてはいないのですか」
「考えてないわけじゃありません」
男は、再び薪を手に取りながら、ゆっくりと答えた。
「では、いつかは」
「ええ。戻りたいと思える日が来たら、戻りたいです。でも今は、ここで立て直したい。昨日まで何も持ってなかった俺に、今日やることをくれた場所ですから」
男は、額の汗を拭いながら、村の中を行き交う人々の姿を見渡した。
「まずは、自分の足で立てるようにならないと。何も持たないまま焼け野原に帰っても、また誰かのお荷物になるだけですからね」
「王国を、捨てるわけではないのですね」
その言葉に、男は少し困ったように笑った。
「捨てられたと思ったことはあります。税を払って、真面目に働いてきたのに、いざという時はあっさり見捨てられるんだなって。……でも、こっちから国を憎み切れるほど、簡単な話でもないんです」
男は、積み上げた薪の形を綺麗に整えた。
その顔に、怒りはなかった。ただ、今は帰れない。それだけだった。
シャルロッテは、男の横顔を見つめた。
いつか、この人が迷わず戻れる日が来るのだろうか。
◇
人々の声を聞いて回った後、シャルロッテの足取りは重かった。
どちらの言葉も、簡単には受け流せない。
礼拝堂の脇の道を俯きがちに歩いていると、ふと横に並ぶ気配があった。
「お疲れのようですわね」
エレノアだった。彼女は救護所での確認作業を終えたのか、手にはいくつかの記録板を抱えていた。
「エレノア様……」
シャルロッテは、足を止めずに、ぽつりと本音を漏らした。
「王都へ戻らなければならないのだと思います」
「ええ」
エレノアは否定も肯定もせず、ただ相槌を打った。
「でも、戻れば……ここを離れることになります」
エレノアは、すぐには慰めの言葉を口にしなかった。
少しだけ間を置いて、静かに問い返す。
「残れば、王都を見捨てたように感じるのですね」
「……はい」
シャルロッテは、小さく頷いた。
「戻る方の背中を押すことも、残る方の明日を守ることも、私一人ではできません。どちらかを選べば、もう片方を見捨てることになるのではないかと……そう思ってしまうのです」
「でも、どちらを選んでも、誰かを捨てることにはなりませんわ」
エレノアの声は、静かに胸へ届いた。
「本当に、そうでしょうか」
「選ばなかった方を、なかったことにしなければよいのですわ。見ないふりをせず、大切に思い続けることはできますもの」
エレノアは、空を見上げて優しく微笑んだ。
「あなたがこの村で私たちと一緒に過ごした時間は、王都へ戻ったからといって消えませんわ。あなたが王国の民を思う気持ちも、村に残ったからといって消えるわけではないのと同じです」
シャルロッテは、すぐには返事ができなかった。
それでも、胸に張りついていた苦しさが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
◇
迎賓館の前まで戻ってくると、ギードが手元の残留者名簿に目を通しているところだった。
「ギード様」
「おお、ロッテか。聞き取りの調子はどうじゃ」
ギードは名簿から目を離し、白く長い髭を撫でた。
「皆さんの声を聞いて、分かったことがあります」
シャルロッテは、ギードの前に進み出た。
「王国へ戻らない人たちを、王都の人々は、裏切り者や国を捨てた者として見るかもしれません。それが、不安です」
「それは、おぬしが戻った先で、そう決めさせぬようにすればよい」
ギードは、事もなげに言った。
「私が?」
「そうじゃ。戻る者を迎えるのも国の役目じゃ。じゃが、残る者に負い目を背負わせぬのも、また国の役目じゃろう」
ギードの深く響く声に、シャルロッテは息を呑んだ。
「おぬしが上に立つなら、おぬしの言葉がそのまま国の言葉になる。残った者たちを、決して国を捨てた者にはさせぬと、おぬし自身が示せばよいのじゃ。……それができるのは、他でもないおぬしだけじゃろう」
シャルロッテは、名簿へ目を落とした。
戻る者を迎えるだけでは足りない。ウルムに残った者が、その選択を責められずに済むようにする。
戻った先で、自分が言わなければならないことが、一つ見えた。
◇
夕方。
シャルロッテは、村の端にある見晴らしの良い丘へと足を運んだ。
冷たい風が吹くその場所には、村の全景を見下ろすように、アシュランが一人で立っていた。
「アシュラン様」
背後から声をかけると、アシュランは振り返らずに短く応じた。
「いろんな奴の重い話を聞いて回ってたそうだな。ご苦労なことだ」
相変わらずのぶっきらぼうな口調だったが、そこに冷たさはなかった。
シャルロッテは、彼に直接「戻るべきでしょうか」とは聞かなかった。
彼女自身、もうその問いが間違っていることに、薄々気づき始めていたからだ。
「私が王都へ戻れば、ここを離れることになります」
「距離の話なら、そうだな。馬車で数週間はかかる」
アシュランは淡々と返す。
「そういう意味ではありません」
アシュランは、ふっと息を吐いてから、ゆっくりと振り返った。
「ここで覚えたことまで置いていくなら、離れたことになる。持っていくなら、場所が変わるだけだ」
「……持っていく」
「そうだ」
アシュランは、シャルロッテを真っ直ぐに見据えた。
「配給の列も、名前の札も、記録の重さも。ここで見たものを全部置いて、王宮の豪華な椅子に座るなら、そりゃ離れたことになる。でも、持っていくなら違う」
シャルロッテは、両手を胸の前で強く握りしめた。
「戻るか残るかじゃない。お前が、何を抱えてどこへ行くのかの話だ」
さっきまで胸の内で絡まっていたものが、少しずつほどけていく気がした。
「王都へ戻るのが怖いのか?」
アシュランが尋ねる。
「……いいえ」
シャルロッテは、静かに首を振った。
王都が怖くないわけではない。権力争いの渦中へ戻ることに、何の恐れもないわけではない。
けれど、それだけが自分の足を止めているのではないと分かった。
「じゃあ、何が怖い」
少し、長い沈黙があった。
風の音だけが、二人の間を通り抜けていく。
シャルロッテは、ようやく口を開いた。
「ここを離れるのが、怖いのです」
口にした瞬間、それが本当の答えなのだと分かった。
王都へ戻ることが怖いのではない。王女として生きることが怖いのでもない。
朝早く起きて水場へ向かうこと。キドたちと言葉を交わすこと。管理窓口で、避難民たちの顔を見ること。
ただのロッテとして過ごした日々が、ここにはある。
ここでは、王女ではない自分でいられた。それを失うことが、怖かった。
けれど、置いていくかどうかは、まだ誰にも決められていない。
アシュランが言う通り、それを抱えたまま別の場所へ行くことだってできるのだ。
シャルロッテは、夕暮れに赤く染まり始めたウルム村の景色を、静かに見つめた。
仮学舎の屋根。救護所のテント。煙突から立ち上る夕餉の煙。
その一つ一つが、彼女の中に残っている。
未定の札は、まだ動かせない。けれど、オリヴィエに返す言葉の輪郭だけは、初めて見えた気がした。
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