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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜【書籍化進行中】  作者: しいたけ
第13章 王女と覚悟

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第185話 残留と名前

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

翌朝。迎賓館前の窓口には、前日の聞き取りで作られた三つの名簿が並べられていた。


戻る、残る、未定。キドの少し歪んだ字で書かれた木札の下に、それぞれ羊皮紙の束が置かれている。

一目見ただけで、残るの束が最も厚いことは明らかだった。


「戻る方は救護所側でエレノア様の確認を。残る方は、住まいと仕事の聞き取りを続けます。未定の方は、急がなくて構いません」

ロイルが、朝から集まってきた避難民たちへ声を飛ばし、窓口を振り分けていく。


キドは、前日に作った札や名簿の束を机の上で整えながら、ふぅと息を吐いた。


「残る人の紙、昨日の分だけでこんなにあるのか……」


その様子を、ロッテとオリヴィエは少し離れた場所から見つめていた。


「今日は、その方たちの話をもう少し聞かせてください」

ロッテが、静かな声で言った。


「理由を、ですか」

オリヴィエが問う。


「はい。私は昨日、残るという答えだけを受け取りました。でも、それだけでは足りません」


ロッテは、真っ直ぐに窓口を見つめた。


「なぜ残るのか。王国が何を失い、彼らが帰れなくなったのか。それを知らなければ、私は何も決められません」



二人が最初に向かったのは、窓口ではなく救護所の前だった。


そこでは、エレノアが戻ると答えた避難民たちの健康状態を一人ずつ確認していた。


「熱がありますわ。出立は一日延ばしてくださいませ」

エレノアが、顔を紅潮させた若い男に告げる。


「でも、王都に家族が残ってるんです。早く探しに行かないと……」

男が焦ったように食い下がる。


「倒れてしまっては、会える方にも会えませんわ」

エレノアは、きっぱりとした声で男を諭した。


「急ぐために、今は休むのです。無理をして道中で行き倒れになれば、それこそご家族を悲しませることになります」


男は少しの間葛藤していたが、やがて「……分かりました」と肩を落とし、休息用のテントへと戻っていった。


足を痛めている者は出立を遅らせ、幼い子供を連れた家族には、水と防寒の注意を念押ししていた。


オリヴィエは、その光景を無言で見つめていた。


「戻ると決めた者にも、ここまで手を掛けるのですね」


彼は、隣に立っていたロイルにぽつりとこぼした。


「戻ると決めたからこそです」

ロイルは、記録板から目を離さずに淡々と答えた。


「村から送り出した直後に、途中で倒れられたら、それこそ後味が悪いでしょう。……それに、アシュラン様なら、死体が出ると処理と記録の手間が増えるから、生かして帰せと言うはずです」


オリヴィエは、小さく息を吐いた。



その後、ロッテは窓口の少し落ち着いた空間で、残る、と答えた者たちの中から数人に声を掛け、短く理由を尋ねていった。


「王国が嫌で逃げてきたわけじゃない。戻れるなら戻りたいさ」


そう語ったのは、王都の商家で荷運びや雑役をしていたという初老の男だった。


「では、なぜ残ると決めたのですか」

ロッテの問いに、男は少し困ったように頭を掻いた。


「戻っても、働く場所があるか分からねえんです。家は燃えちまったし、雇い主の旦那も生きてるかどうか。でも、ここでは薪割りでも荷運びでも、今日やる仕事を言ってもらえる。終われば飯も出る」


「仕事を、与えられるからですか」


「違います。……今日、自分が何をすればいいか、分かるからです」


男は、自分の荒れた手を見つめながら言った。


「明日も生きていけるっていう見通しがある。それだけで、夜、少しだけ安心して眠れるんです」


オリヴィエは、口を挟まずにその言葉を黙って聞いていた。



仮学舎の前で、昨日、小さな子供の手を引いて窓口に立っていた若い母親が、キドと何やら言葉を交わしていた。


中では、ヘイムたちが作り付けた木棚に教材が並べられ、キドが入学予定の子供たちの名前札を机に配置しているところだった。


「名前、これで合ってる?」

キドが、手元にある小さな木札を見せて子供に尋ねる。


「うん! ぼくのなまえ!」


子供が嬉しそうに頷くと、母親が少しだけ安堵したように微笑んだ。


ロッテは、その親子の元へと歩み寄った。


「あの、少しだけ、お話を伺ってもよろしいですか」


母親はロッテの姿を認めると、少しだけ緊張した面持ちで立ち止まった。


「昨日、あなたは、今すぐ王都へ戻って、あの子を食べさせていけるか分からないから残る、と仰いましたね」


ロッテは一度、言葉を切った。


「王国が嫌いなわけではない、とも」


「……はい」


母親は、子供の手をぎゅっと握り直して言った。


「王国が嫌いなわけじゃありません。でも、逃げている間は、ずっと子供を連れていました。配給の列に並んでも、関所を通っても、誰もあの子の名前なんて聞きません。ただの一人とそのおまけ。……仕方ないことだとは思います。みんな、生きるのに必死でしたから」


彼女は、仮学舎の中で自分の名前札を見つけて喜ぶ子供の背中を見つめた。


「でも、ここへ来て、最初に名前を聞かれました。食事の札にも、寝床の札にも、あの子の名前が書かれていました。あの子が熱を出した時、エレノア様もカイン様も、この子ではなく、ちゃんと名前で呼んでくださったんです」


「名前を……」

ロッテは、かすかに唇を動かした。


「王都へ戻れば、また誰にも見つけてもらえない気がするんです」


母親の声は細く、震えていた。


「何もない焼け野原で、またただの子連れの避難民に戻るのが……怖いんです」


母親が去った後、ロッテはしばらくその場に立ち尽くしていた。


「名前を書くだけで、そんなに違うのでしょうか」


ロッテがぽつりとこぼすと、近くで窓口の整理を終えたロイルが足を止めた。


「名簿はただの紙です。でも、呼ぶ人間がいれば、少し違います」


ロイルは、手元の記録板を軽く叩いて言った。


「紙に名前を書いただけで、命を守れるわけじゃありません。でも、名前を見て、顔を思い出して、次にその人に何が必要かを考える人間がいれば……その人は、ただの数ではなくなります」


「家や食料を用意すれば済む話ではないのですね」


それまで沈黙を守っていたオリヴィエが、苦渋に満ちた声で口を開いた。


「……はい」


「王国は、名前を失わせるほど、民をただの数として追い詰めていた」


オリヴィエは目を伏せた。しばらく、何も言えなかった。


ロッテは、しばらく黙ってから言った。


「王国へ戻れば大丈夫だと、信じてもらえなくなっているのですね」


家や食料の不足だけではない。ロッテは、ようやくその重さを知った。



夕方。

聞き取りの列が途切れ、迎賓館前の窓口にもようやく静けさが戻ってきた。


長机の上には、戻る、残る、未定の三つの木札と、それぞれの名簿が積み上げられている。


キドが、片付けのために机の上の細々としたものを整理していた。


その時、彼の手がふと止まった。


「ロッテ」

キドが、手の中にある小さな木札を掲げて見せた。


それは、昨日彼がロッテのために作った、少し歪んだ字の名前札だった。


「これ、どこに置けばいい?」


ロイルも、オリヴィエも、静かにロッテを見た。


戻るのか、残るのか、それとも、まだ決められないのか。


ロッテは、キドから差し出された自分の名前札を受け取り、指先でその文字をそっとなぞった。


ロッテ。


この村で、何度も呼ばれた名前。


やがて彼女は、ゆっくりと手を伸ばし、その札を、未定と書かれた板の下へそっと置いた。


「……今は、ここです」


「未定?」

キドが首を傾げる。


「はい」


ロッテは、自分自身の札が置かれた場所を真っ直ぐに見つめた。


「戻るべき理由は分かりました。でも……どう戻るべきかは、まだ分かりません」


風が吹き抜け、机の上の未定の束が、かすかに音を立てて揺れた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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