第184話 名簿と選択
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
迎賓館の一室。
ロッテの返答を受けると、カインはすぐ実務の準備に取りかかった。
長机の上に、新しい羊皮紙の束とインク壺が並べられる。
その脇で、手伝いとして呼ばれたキドが、回収された木材から切り出した三つの板札に、木炭で文字を書き込もうとしていた。
「アシュラン様。これ、何て書けばいい?」
キドが木炭を構えて首を傾げる。
「王国帰還希望、ウルム滞在継続希望、判断保留、ですね」
カインが、眼鏡の位置を直しながら答えた。
「長い」
キドが即座に顔をしかめる。
「長いな」
俺も同意した。
「後の集計を考えれば、必要な分類です」
カインが反論する。
「分類は必要でも、字を読むのが苦手な奴らに読めなきゃ意味がない。ここは……戻る、残る、未定。それでいい」
「それなら読めるし、すぐ書けるね」
俺が言うと、キドは納得したように三つの木札に大きく文字を書き込み始めた。
「……その方が、きっと答えやすいですね」
ロッテは、短く書かれた三つの札を見て、小さく頷いた。
だが、その準備の様子を見ていたオリヴィエが、戸惑ったように声をかけてきた。
「アシュラン殿。一人ずつ確認するのですか?」
「そうだ」
「彼らは王国の民です。シャルロッテ王女殿下が戻られるのであれば、共に王国へ戻るのが自然ではありませんか」
「自然かどうかは、本人に聞け」
俺は、キドが書き上げた札を机に並べながら言った。
「しかし……」
「選べぬ苦しさは、わしらも知っておる」
ギードが、深く腕を組んだまま、オリヴィエを真っ直ぐに見据えて言った。
「じゃからこそ、次はあいつら自身に選ばせてやらねばならんのじゃ」
オリヴィエが言葉に詰まる。
俺は続けた。
「人を動かすなら、まず本人がどっちを向いているか見ろ。水の流れと同じだ。向きを無視して無理に押すだけでは、どこかで必ず詰まる」
◇
聞き取りの窓口は、迎賓館の前の広場に設けられた。
「次、三人世帯。代表者だけじゃなく、家族の人数も言ってくれ」
ロイルが、集まってきた避難民の列に声を飛ばす。
「名前、ゆっくりでいいぞ。聞き間違えたら困るから」
キドが窓口の前に立ち、一人ずつの名前や事情を聞き取る。
「キド、似た名前が多いですから、聞いた名前は必ず復唱してください」
カインが、その後ろで素早く羊皮紙に記録をつけていく。
「分かった。名前、家族、仕事、病気の人がいるか。あと、戻る、残る、未定だな」
キドが指折り数えて確認する。
その窓口の中央に、ロッテが立っていた。
ロッテは昨日までと変わらない村の服で、一人一人の顔を見て話を聞いていた。
オリヴィエは、少し離れた横の席からその様子を静かに見守っている。
「余計な質問はするなよ。一人一人の事情を深く聞きすぎると、列が止まる」
俺が横から釘を刺す。
「でも、必要なことは聞かないといけません」
ロッテが少しだけ反論する。
「だから、必要なことだけ聞けと言ってるんだ。優しさで質問を増やすな。窓口が詰まれば、後ろで待っている全員が困る」
俺の言葉に、ロッテは小さく頷き、最初の避難民と向き合った。
◇
「俺は、戻りたい」
最初に進み出てきたのは、疲れ切った顔の中年の男だった。
「王都に、妹が残ってるんだ。軍の徴用を逃れてはぐれたきり、生きているかどうかも分からない」
「戻れば、まだ危険かもしれませんよ」
ロッテが、静かな声で問いかける。
「それでも、探しに行かないと一生悔いが残る。俺は王国へ戻る」
「……分かりました」
ロッテは、彼を引き留めなかった。
「戻る、でいいか?」
キドが木札を指差して確認する。
「ああ」
「では、戻る方の名簿に記載します。ですが……」
ロッテは、男の足に巻かれたままになっている汚れた包帯に視線を落とした。
「出発の日までは、こちらの村で食事と治療をしっかりと受けてください。怪我をしたままでは、探しに行くこともできませんから」
男は何度か深く頭を下げ、救護所のテントへ向かっていった。
◇
「私は……残りたいです」
次に進み出てきたのは、小さな子供の手を引いた若い母親だった。
その言葉に、横で聞いていたオリヴィエが思わず口を挟む。
「王都に、戻る家はないのですか」
「ありました。でも、残っているかどうかも、もう分かりません」
母親は、怯えたように目を伏せた。
「王国のことが、嫌いなのですか」
ロッテは少し間を置いて尋ねた。
「嫌いじゃありません」
母親は首を振った。
「でも……今すぐ王都へ戻って、あの子を食べさせていけるのか分からないんです。ここなら、仕事も少しずつありますし、寝る場所もあります」
ロッテは、母親の手を強く握る子供に目を向けた。少しも離すまいとしているようだった。
「……残る、でいい?」
少し間が空いたのを見て、キドが困ったように確認する。
「はい。お願いします」
「……分かりました」
ロッテは小さく頷いた。カインが、その名を「残る」の欄へ記した。
オリヴィエは口を閉ざし、その親子の背中を見送った。
◇
「俺は……まだ決められません」
腕に怪我を負った若い職人が、迷いながら口を開いた。
「王都へ戻れば、元の工房があるかもしれない。でも、この村に残った方が安全かもしれない。どちらも選べないんです」
「おい、どっちかにしないと、記録できないぞ」
近くで列を整理していた自警団員が急かす。
「できます。未定の欄がありますから」
カインが、すぐに口を挟んだ。
「まだ決めなくて、いいんですか?」
若者が、ほっとしたようにロッテを見る。
「いいです。今、無理に決める必要はありません」
「無理に決めさせると、あとでひっくり返るからな。名簿の書き直しは二度手間だ」
俺も横から言った。
「じゃあ、未定だな」
キドが手元の板に印をつける。
「……助かります」
若者は、肩の荷が下りたような顔で列を離れていった。
◇
「名前、もう一回言って。似た名前がさっきもあったから」
キドが、次に進み出た避難民の顔を見て言った。
「なんだよ、そんな細かいことまでいるのか?」
避難民が少し面倒そうに返す。
「間違えると、飯も薬も違う人に行くかもしれないだろ。ちゃんと教えてくれ」
キドが、真っ直ぐに相手を見て言い返す。
「分かってきたじゃないか」
俺が感心して言うと、キドは木炭を握ったまま胸を張った。
「アシュラン様が、何回も仕事が増えるって言うからだぞ」
「実際、増えるんだよ。お前のその確認で、俺の昼寝の時間が五分守られた」
俺たちが軽口を叩き合っている間にも、聞き取りの列は続いていく。
ロッテは、一人一人の声を聞きながら、気づき始めていた。
王国を憎んでいる人ばかりではない。
それでも、王国へ戻ることを選べない人があまりにも多い。
「……王国へ戻るかどうかは、王国があるかどうかだけでは決まらないのですね」
ロッテが、ぽつりと呟いた。
「暮らせるかどうかだ」
俺は、広場に並ぶ人々の列を見ながら言った。
「立派な旗や紋章で、腹は膨れない。住む場所、仕事、飯、怪我の治療。そっちが先だ」
「王国は、それを用意しなければならない……」
オリヴィエが、自分に言い聞かせるように呟く。
「用意できないなら、連れて帰るな」
俺は振り返らずに言った。
「途中で必ず詰まるぞ」
◇
「……戻る者が、もっと多いと思っていました」
聞き取りが半分ほど進んだ頃、オリヴィエが小さく呟いた。
「戻りたい者もおる。だが、戻れぬ者もおる」
ギードが、静かに答えた。
「戻れぬ、ですか」
「行き先があることと、帰れることは違う」
オリヴィエは、返す言葉を探すように口を閉ざした。
「行き先があっても、そこで暮らしていく術がなければ、人は帰れんのじゃ」
オリヴィエは、それ以上何も言えず、ただ黙って記録板を見つめていた。
◇
夕方になっても、聞き取りの列は途切れることがなかった。
机の上には、戻る、残る、未定と記した三つの名簿が並んでいた。
最初に足りなくなったのは、残る者を記すための羊皮紙だった。
「ロッテ」
キドが、空になった箱を持ち上げた。
「残るの紙が、もうない」
「予備を出しましょう」
カインが、すぐに新しい羊皮紙の束を取り出す。
「……だから、紙は多めに用意しろと言っただろ」
「マスターは言っていません」
「思ってたんだよ」
「師匠……」
俺たちがいつものように言い合っている横で、ロッテはすぐには返事ができなかった。
キドの前に積み上げられた、残る者たちの名簿を静かに見つめていた。
そこに並んでいたのは、王国を嫌って捨てた人たちの名前ではない。
帰りたい場所を失い、それでも今日を生きるために、今ある暮らしを手放せずにいる人たちの名前だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。




